第9話 知謀の片鱗ー米価安定への策
天正8年(1580年)8月 近江・長浜
父・秀長が竹田へ戻ってから、2ヶ月余りが過ぎていた。
城下の政は止まらない。むしろ父上が不在の時ほど、止めてはならぬという意地が、城の者たちを忙しくする。
主だった家臣は西へ出向いている。
前野長康や藤堂高虎も、皆、播磨と但馬の要所へ散った。
長浜に残った者は、父の義兄弟で近江の土地に明るく、優れた内政手腕をもつ小堀正次。
実務派行政官の羽田正親を筆頭に町方奉行と文書方。
そして私の傍には、傅役が付けられた。
本多俊政。(ほんだとしまさ)
父の重臣・本多利久の子。
年は二十九。武将として若くもなく、老いてもいない。
武辺の気配を身にまといながら、言葉は落ち着いている。
「若様、市へ出たいと申されているとか」
朝の支度を整えながら、俊政は私にそう言った。
声は柔らかいが、問いではなく確認の響きがある。
「うん。最近米が高いと聞いて」
「……高うございます」
俊政は一瞬、眉を寄せた。
「城下の米問屋が、俵を出し渋っております。『上がる』と踏んだのでしょう」
「なぜ上がると?」
「理由がございます」
俊政は、理由を指折りで数えた。
「まず、中国攻めが続いております。そのため、兵糧が西へ吸われます」
「次に、春から長雨が続き、作柄に不安の声が」
「それに、淡海の海の舟も人足も、戦さが優先になります」
「そうなると、市に出回る米の量が減ります」
「…このように想像できてしまう、ということでございますが」
「減る見通しがあれば商人は溜め、品薄になった物の値が上がるか」
私は呟いた。
「実際のところは?」
「この時期に西へ大量の米を動かした事実はありません。加えて、田畑の様子を見る限り作付は例年と変わりませぬ。むしろ殿の灌漑整備のおかげで増えそうです」
「世情への不安が、米不足を招いている…..ということか」
「じゃあ、放っておくとどうなる?」
俊政は少し言いづらそうに、だがはっきりと言った。
「市が荒れます。そして民に流れる米が減り、腹をすかせた者どもが治安を乱すことに」
私は縁側で足を揺らしながら、政の間で見た帳面を思い出す。
父の留守を支えるために整えた、新しい帳面。
蔵出納帳。
年貢収納帳。
御指図控。
これがあれば、父上が不在でも奉行衆を説得できるかもしれない。
「俊政」
「はっ」
「市に行こう」
「……若様が、見られるのですか」
「見たい、それから、考える」
俊政は一瞬迷ったが、すぐに頭を下げた。
「承知いたしました。お供いたします」
市は熱気に満ちていた。
干物の匂い。酒の匂い。人の汗。
布を売る声と、鍛冶の槌音と、魚を叩く音が重なり、長浜の繁栄が耳に刺さる。
だが、米俵の前だけは空気が違った。
人が集まり、誰もが値札を見て、眉をひそめている。
「高い……」
「去年の倍だぞ」
「これじゃ粥しか作れん」
買い控えが始まれば、町は冷える。
冷えた町からは、人が商人が流れていく。
私は米問屋の蔵を見た。
戸は閉じられている。人が出入りしていない。
溜め込んでいる。
俊政が低い声で言った。
「問屋は、城が動かぬと見ております」
「父上が不在だから?」
「はい。殿の名がないと、誰も強く言えぬと」
私は、ふっと笑った。
「じゃあ、父上の名を出さないで動くとしよう」
俊政が目を瞬かせる。
「……若様?」
私は城へ戻り、政の間で帳面を開いた。
蔵出納帳。
今、長浜の蔵にある米の量。
月ごとの出入り。
年貢で入った分と、使った分。
やはり米はある。米問屋が溜め込んでいるのは間違いない。
吐き出させるきっかけさえあれば、値は戻る。
「蔵の米を出す」
俊政の背筋が硬くなる。
「若様、それは……」
「ただで撒くのではない。売るのだ。」
「値はいかほどに?」
「今の値より下、去年の2から3割り増しでどうだ」
「城の米が市に出れば、米問屋は俵を抱えたままではいられない」
「米問屋が米を吐き出せば、徐々に米の値は元に戻っていく」
俊政は黙っていたが、その沈黙は反対ではなかった。
「この程度なら奉行の裁量の範囲ではないか」
私が問うと、俊政が頷いた。
「――ならば、形を整えましょう」
そう俊政が言うと、動きは早かった。
留守居役の小堀と羽田にかけ合い、彼らを通して町奉行と蔵奉行を呼び、小売りを選び、売り場を決めた。
値札は大きく。迷いが出ぬように。
売る米は「御蔵米」と明示する。
その日の午後。
市の一角に、札が立った。
――長浜御蔵米 今日の値
人がざわめいた。
「お殿様がお米を出してくださったぞ」
小売りの前に列ができる。
米俵が並び、銭が動く。
空気が変わる。
米問屋の顔色が、みるみる変わった。
「出しやがったな……」
出さねば、問屋が悪になる。
出せば、溜め込んだ米が値下がりする。
どちらも痛い。
だが、商いは情ではない。損を嫌う。
夕刻には、問屋の蔵が開いた。
俵が運び出され、市に米が戻る。
値は、落ち着いた。
政の間へ戻り、帳面を合わせる。
出した米の量。受け取った銭。
普段の相場よりも高値で出したため損はない。
今回の儲けで、蔵から出した分を他の地域から買って補填すればよい。
蔵奉行の声は、安堵に滲んでいた。
俊政が小さく息を吐いた。
「殿がおらぬのに、長浜が回りましたな」
私は帳面を閉じた。
俊政が笑った。珍しく。
その夜。
城下が静まった頃、母――お初の部屋に、ねね様が訪ねてきた。
私は母の脇に座らされ、湯のみを持たされた。
ねね様は湯を一口飲み、言った。
「……今日、市を見ました」
「近頃、米が出回らず心配だと言う声が聞こえてきましたから」
「それが、今日の夕刻には出回るようになったようで」
ねね様が私の顔を正面から見据えて言った。
「蔵の米を出したそうですね」
「竹若、あなた何をしたのです?」
母は驚いて聞いてきいた。
「帳面を見たら米があるとわかったので、奉行に伝えただけ」
私は答えた。
ねねは小さく息を吐いた。
「そんな大事なことを、だけ、と言ってはだめでしょう。」
母は苦笑する。
ねねは私を見つめ、静かに頷いた。
「秀長様に似ていますね」
「それに……子供らしからぬ機転と行動力..あの人にも似てるのかしら」
母の目がわずかに厳しくなる。
「この子は、まだ六つです」
「分かっています」
ねねは微笑んだ。
「だからこそ、目立たせるつもりはありません。ただ……」
「殿と秀長様の留守中のお手柄。伝えておたほうがよいでしょう」
母はため息のように息を吐いた。
「大げさには、なさらないでください」
「ええ。もちろんです。」
ねねは立ち上がり、衣を整える。
「城下の平穏を保った。それだけです」
ねねが帰った後、母はしばらく灯りを見つめていた。
やがて、私の方を見る。
「……今日はよく働きましたね。お手柄でした」
「はい。でも、少し、疲れました」
そういうと、母は愛おしそうに私の頭を撫でた。
その夜、母は父へ文を書いた。
長浜で米が上がったこと。
市が荒れそうになったこと。
俊政がよく動いたこと。
蔵の米で静めたこと。
そして最後に。
――竹若は、元気です。
一方、ねねもまた別の文を書いている。
――長浜は、殿がお留守でも回っています。
――可愛い甥っ子が静かに成長しています。
――そして、どこか殿にも似ておりますよ。
私は縁側で夜風に当たりながら思った。
同じ出来事でも、
誰が語るかで、意味は変わる。
長浜の町は眠っている。
だが、この日のことは、
別の言葉になって、別の場所へ届いていく。
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