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神官と狂犬

――なあ、ジン。

――どれだけ伝えれば、おまえはわかってくれるんだ。

――俺はおまえと一緒に未来を生きたいのだと、信じてくれるんだ。




ごう、と一陣の風が、砂漠の果てから巻き上がる。荒野の砂礫を散らした風が、赤褐色の修道院広場に立つレイの頬を撫でる。


――……ああ、風が来てしまった。ジン、おまえを処罰なんてしたくないのに。


目を伏せていたレイは小さく息を吐いて、目を開ける。レイは「神官レイ」となって、青く沈んでいく砂漠の大気に、声を放つ。



「聞け!風の民よ。神官レイの名において告げる。風の神が、わが呼びかけに応えた……これより、剣士ジンの処罰を始める」


この戦闘修道院、通称【砦】で最も有名な主従――《《神官レイ》》による《《狂犬ジン》》の公開処罰が始まる。



吹き抜けの回廊に囲まれた修道院広場の中央に、ふたつの人影が浮かび上がる。


処罰する男――神官レイが、鞭を持って立つ。

処罰を待つ男――剣士ジンが、上半身裸で、背中に腕を回して組んで、レイの前にひざまずいている。



レイとジンは、砂漠の光と影のように、異様で強烈なコントラストを放つ二人組だった。


「天才神官」と呼ばれる神官レイは、砂漠の蜃気楼のように、近寄りがたくも目の離せない美を放つ男だった。金糸の髪がうねり、オアシスを思わせる青い瞳は、底しれない知性を湛えている。


相対する「最強の狂犬」と恐れられる、レイの護衛剣士ジンは、砂漠の猛獣を思わせる男だった。

黒灰の髪からは、刃のような琥珀の瞳がのぞいている。鍛え抜かれた上半身には、刀傷、矢傷、火傷痕が、無数に刻まれている。長年の死線をくぐって生き延びてきた体だった。



神官レイと狂犬ジン。

この主従は、戦闘修道院に住む神官、修道士、兵士たちにとって謎だった。


すべてが正反対で、なぜ一緒にいられるのか、わからない。

だが、《《この二人は、いつも必ず一緒にいる》》。



ジンは、炎を映して黄金に燃え上がる瞳で、一瞬も目をそらさず、レイを見つめていた。まるで、この世界で見るべきものはこれしかない、とでも言うような熱がにじみ出ていた。

レイとジンの視線が交わり、レイに、その熱が燃え移る。青い瞳の奥に、金の火花が散る。


二人は、沈黙の中、他の誰にもわからない、短い会話を交わす。


――やれ。

――やる。


「……ザグレト神官の申し出によれば、剣士ジンは、ザグレト神官に無礼な言葉を投げかけ、共同体の調和を乱した。よって、処罰に処す。罰は、鞭打ち五回」


レイはの宣言し、右手に持っていた鞭を掲げる。ジンはひざまずいたまま、体の向きを変えて、レイに背中をさらす。


レイの手が、ためらうように一瞬とまる。瞳が揺れる。だが揺らぎは、すぐ押さえこまれる。むしろ、早く終わらせてしまおう、とでもいうように、儀礼的な速度が増す。

ひゅっと風を裂く音とともに、鞭が振り下ろされる。


「……一!」

レイが数えると同時に、鞭が肌を打つ乾いた音が響く。ジンは動かない。ただ目を伏せたまま、鞭を受ける。淡々と、鞭は続く。

「……五!」


レイが最後の打擲を終えて、腕を下ろした。

不気味なほどの静寂。

広場の空気が張り詰めて、レイの動きを待つ。


「……処罰は、ここまでとする」


終了の宣言とともに、二人を同心円状に囲んでいた修道士たちの群れが、ざわめき始める。レイも、やりたくない仕事から解放されたとばかりに、安堵の息をつく。


見せ物は終わった――。周囲の緊張が崩れていく、その時。


ジンが、立ち上がった。周囲のざわめきがとまる。


ジンは、手早く服を整えて、レイの足元に片膝をついた。目を伏せ、レイに乞うように両手を差し出す。


レイが瞠目する。

――ジン、なにを。

青い瞳が訴える。だが、琥珀の瞳は、炎を映すばかりだ。


レイの右腕が、ためらうように持ち上がる。ジンに向かって、手の甲が差し伸べられる。


ジンは、レイの手に額を押し当てる。


そして、己の忠誠を刻みつけるように、ゆっくりと、口づけた。


ジンは動かない。レイも動かない。レイの長い睫毛だけと指先だけが、かすかに揺れる。


周囲の視線を集め切ってから、ようやくジンは、唇を離した。


沈黙。一拍おいてから、ざわめきが噴き出る。


「なんだあれは……!他の者には噛みつくくせに、主だけには従順な狂犬め……」

「だが、武力でやつに勝てる者はいない。レイ神官は死守しなければならん、やむをえん……」


薄暗い声が、波紋のように広がっていく。


無遠慮なざわめきを、レイは一瞥し、踵を返して「帰る」と一言だけ告げる。ジンはすぐに立ち上がって、レイの斜め右後ろ、護衛の立ち位置につく。


二人は歩き出す。修道士の群れが、割れるように引いて、二人を通す。ふたつの足音は、回廊の闇にまぎれて見えなくなった。


二人の消えた虚空に、吐き捨てるように、声が投げかけられる。


「なに、いずれ狂犬など辺境に捨てるさ。それまでは、刃として使えばいい……」

「いまいましい野盗どもの襲撃さえ殲滅できればな……」


不穏な声は、すぐ風にかき消された。



逃れるように回廊を抜けた二人は、砦の端に立つ石造りの【風読み塔】へ、足早に向かった。

風読み塔は、風読み神官が風を読むための塔で、彼らの住居でもある。


二人は風読み塔にすべりこむ。

ばたん、と扉が閉まる。


二人きりになった、その瞬間――。

神官レイと狂犬ジンが消えた。

そして、ただの義兄弟、レイとジンになる。


「ジン!お……おまえ、なんだ、あれ……!」

「あれ、とはなんだ、レイ」


レイが肩と声を震わせて、勢いよくジンを振り返った。

白い頬に朱が差したレイと、素知らぬ顔をするジンが対峙する。レイは、自分よりわずかに背が高いジンを見上げる。

青と琥珀、二人の視線が衝突する。


「とぼけるな!おまえ、クソじじい神官と口喧嘩して、嫌がらせで処罰申請されただけだろ!?いちばん軽い処罰なのに、いちばん重い最敬礼って、なに考えてんだよ……あっ逃げるな、こら!」


ジンは、頭をかきながら、二階にあるレイの私室へ向かう。レイもジンの後について、私室に戻る。


ジンは、もう部屋の角にある囲い炉で、夕食の支度を始めていた。手際よく、鍋に食材を入れて混ぜながら、ジンが答える。


「なにって、見せ物だよ。ただの忠誠ショー。わざわざ俺の処罰申請を出したり、処罰を見に来たり、修道士どもは娯楽に飢えてるようだからな。おまけの余興さ」


「よ、余興……ていうか、そもそも俺に鞭を打たせるなよ、ジン。俺はおまえの主人なんてやりたくない、って言ってるだろ」


「そうは言っても、表向き、俺たちは主従だからなあ。裏では義兄弟のまま、とバレるより、ずっといいだろ。バレたらすぐ主従解消、俺は追放、で終わりだぜ」


「……それはそうだけど、手を抜きながら本気っぽく鞭を打つの、難しいんだぞ。やだ、やりたくない」


ふてくされるレイの姿に、ジンが笑う。


「ふ、確かに、撫でられたみたいな鞭だったな。――それに鞭打ちぐらい、俺は構わねえぜ。野蛮でいかれた狂犬を完璧に飼いならす神官レイ様、と修道士どもが思ってくれるなら上等だろ」


「おまえなあ……」


レイの呆れた声に、ジンは笑いを含んだ声で、飄々と返す。



《《表向きは主従、裏では対等な義兄弟》》――レイとジンの奇妙な関係は、二人だけの秘密だった。


厳しい戒律を持つ一神教【ルーハ教団】の戦闘修道院で、こんな裏表のある関係がばれたら、鞭打ち程度では済まない。

ジンの言うとおり、離れ離れにさせられることは確実だ。最悪、追放や処刑だってありうる。


だから、二人は表向き、完璧に主従を演じてみせる。嫌がらせの処罰申請だって、見せしめと娯楽を兼ねた公開処罰だって、敵意と打算まみれの野次だって、ちゃんとこなす。


そうでもしなければ、この厳しい宗教共同体――この厳しい砂漠では、生きていけないからだ。




「――なあ、背中の傷、見せろよ。手当させろ」


レイが、ジンの隣に座りこんでつぶやく。先ほどとはうって変わって、しおれた声だ。


「レイ、あのな、俺はメシを作ってんだよ。あんな鞭ていどじゃ、辺境なら傷にすらなんねえよ。舐めてりゃ治る」


「背中をどう舐めるんだよ。その舌、伸びんのか?忠誠ショーの次は、舌伸ばしショーでもやるつもりか」


たいしたことないと言わんばかりのジンに、レイも負けじと、やり返す。レイがジンの背中に触れると、その背中が、びく、と揺れる。


「ほら、やっぱり痛いんじゃないか。やせ我慢すんなって」


ジンは口でレイに勝てないと悟ったのか、嘆息して、上衣を脱ぐ。


刀傷と矢傷と跡が無数に散る背中――ジンだけにあってレイにはない、戦場の傷跡が、再びレイの前に現れる。

レイは目を細めて、傷を見つめる。黙って香油を手で温めて、鞭の赤い跡に塗りこんでいく。


「これは、辺境にいた六年の間にできた傷か」


「ああ、背中のやつはだいたい、辺境に行ったばっかりの時にできたやつだな。ガキだったから、背中を向けて逃げ回ってた」


「――辺境、か」と、レイは寂寥感をにじませて、つぶやく。



【辺境】は、遥か南、砂漠の最果てにある紛争地帯である。「砂漠の墓場」と呼ばれる激戦地だ。


七年前――。二人がわずか十二歳の頃。ジンはレイを置いて、ひとりで辺境に旅立った。

そしてずっと辺境にいて、いちども砦に帰ってこなかった。


六年もの絶縁。

今でこそ毎日ずっと一緒にいるが、この奇妙な共生関係になってから、わずか半年しか経っていない。


一緒にいる時間より、離れていた時間のほうが、圧倒的に長い。


――ジン、俺は、おまえが辺境で、どう生きて、どう傷を作ったのか、知らない。なぜ辺境に行ったかも知らない。

――でも、聞けない。おまえは拒むから。


――七年前。全部、七年前だ。あれから、おまえと話せないことが、すっかり増えてしまった。


レイは、声にならない声で、ジンに話しかける。



そう、《《すべては七年前から始まった》》。


砂漠の治安が、どんどん悪化しはじめた、きっかけの年。

ジンが、レイを置いて、ひとりで辺境に行ってしまった年。

――そして、レイとジンにとって、父であり師でもあった、大事な人を失った年。


すべてが、七年前から、静かに、加速しながら、狂い続けている。



レイが物思いに沈んでいると、ジンが声をかける。


「おい、メシ。できたぜ」

「……おう」


レイは目を瞬かせる。ジンのいつもの調子に、レイは救われた気持ちになる。

レイは、ジンを見つめて、ささやくように、つぶやく。


「これだけは守らないとな」

「なんか言ったか?レイ」


「いや、なにも。食べようぜ、ジン。あと、俺この豆いらない。おまえの肉と交換してやるから肉をよこせ」

「おい、ふざけんなレイ。神官なら豆を食え、豆を」



二人の対等で穏やかな日常は、この厳しい世界でレイが帰れるただひとつの場所、レイがなんとしてでも守りたいものだった。


レイは、ジンと一緒に、この日常をずっと続けて生きていきたい。

ささやかで、切実な願いだった。


だが、世界は、許さない。

七年前の事件が、許さない。

――なにより、《《ジンが許さない》》。


二人の日常は、崖っぷちに立つ、斜めに崩れかけた家のようなものだ。


だが、それでもレイは日常を守るつもりだった。


だがその個人的で切実な願いが、《《この砂漠を根こそぎ揺るがす戦争の爆心地になる》》ことになるとは、レイは思ってもみなかったのである。

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