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Closer.02 Because I Love You.

作者: 槙野 シオ

ノエルはまばたきもせずルフェルを見つめていた。正確には自分の意思とは裏腹に視線が外せず、ノエル自身もこれはいけない、と思っていたが視線が外せないのだから仕方ない。


「どうしたんだい?」


ルフェルに声を掛けられ驚いたノエルは、身体が飛び跳ねた振動でやっと視線を外すことができた。


「どうもしないけど?」

「そう? 髪、洗うからおいで」


ルフェルの前で後ろ向きに座ったノエルは、頭から静かに湯を掛けられぎゅっと目をつむる。顔に湯が掛からないようルフェルが細心の注意を払ってくれていることもわかっているが、目をつむればさらに防御力が上がる、とノエルは転ばぬ先の杖を何本も用意する。


「髪、伸びたね」

「うん……何をするにもジャマだから切っちゃおうかなあ……」

「駄目だよ、こんなにきれいなのにもったいない!」

「もったいないって……何の役にも立たないし使いみちだってないのに」

「僕を癒やしてるから役に立ってる」

「わたしより髪のほうが好きなの?」

「ノエルの髪だから好きなんだよ」


きれいにすすいだ髪をガーゼのタオルでまとめてもらったノエルは、「わたしが洗ってあげる!」とルフェルの頭をなでた。


「ノエルが?」

「うん、わたしが!」

「僕の髪を?」

「うん、ルフェルの髪を!」


クスっと笑うとルフェルは「じゃあお願いしようかな」と、なるべく低くなるよう座り直し頭をさげた。最近僕のすることを何でもかんでもやりたがるのは、模倣学習の一環なのかな。髪を洗うことまで真似したがるとは思わなかったけど。


「ルフェルの髪、ふわふわで柔らかい」

「うん、ちょっとくせっ毛だからハネるんだけどね」

「ハネててもかっこいいからいいの」

「そう言ってくれるのはノエルだけだよ」


嘘ばっかり……ノエルは口を尖らせながらルフェルの髪をクシャクシャと泡立てる。


「ルフェルはさあ」

「うん」

「お花屋さんのおねーさんのこと、どう思ってるの?」

「お花屋さん?」

「あの、声がかわいくて髪の長いおねーさん」

「どう、って?」

「すてきだなあとか、かわいいなあとか」

「毎朝早い時間から一所懸命頑張ってるなあ立派だなあ、って思う」

「じゃあパン屋さんのおねーさんは?」

「毎朝早い時間から一所懸命頑張ってるなあ立派だなあ、って」

「おさけ屋さんのおねーさんは?」

「毎晩遅い時間まで一所懸命頑張ってるなあ立派だなあ、って」

「ルフェル、かっこいいのにざんねんだね」

「どうして!?」

「おねーさんたちはみんなルフェルのことが好きなのに」

「そうなの?」

「そうだよ、それなのにルフェルったら他人事なんだもん」


── 実際他人事だし……食事に誘われたこともあるけど……あくびを噛み殺しながら退屈な時間を過ごすなんて、それこそもったいないじゃないか……家にいればノエルと一緒に過ごせるのに。


「……ノエルは僕がおねーさんと仲良くなったほうが嬉しいの?」

「うーん、よくわかんないけど、仲良くしてあげればいいのに、って思う」

「……なんで?」

「なんとなく、おねーさんがかわいそうだから」

「そっか……ノエルがそう言うなら、ちょっと考えてみるよ」


それを聞いたノエルは自分の腕や手に付いた泡を洗い流すと、中途半端に髪を泡立てられたルフェルを置き去りに無言で浴室から出て行ってしまった。


「ノエル……?」


取り残されたルフェルの頭の中は疑問符で埋め尽くされたが、とりあえず続きは自分でしろってことか、と髪を洗い始めた。一体どうしたんだろう……?




ルフェルが浴室から出て来ると、ノエルはキッチンで格闘中だった。椅子の上で爪先立ちになり吊り戸棚の中を物色しているが、その腕も脚もプルプルと震えている。


「ノエル、きみじゃあまだ無理だよ。何が欲しいんだい?」

「取れるわ、ちゃんと椅子だってあるもの」


クスっと笑いながら訊くルフェルに、ノエルは頬を膨らませぶっきらぼうに答えた。


何でも自分でやりたいお年頃なのかな、とルフェルは黙ってノエルの様子を見守り、ノエルはルフェルの視線が気になり指先の感覚がわからなくなる。いま触ってるこれはなんだろう……ボウル? お皿? もう!!


「大丈夫だからあっち行ってて!」


そう言ってルフェルを追い払おうと、ノエルは思い切り振り返り息を吸い込んだが、勢い余ってバランスを崩し大きく仰け反った。あ、これは……このまま椅子から落ちちゃうパターン……




「ほら、言わんこっちゃない」


落ちた床の痛みを想像し思い切りぎゅっと目をつむったノエルは、まったく痛くないことを不思議に思いながら恐るおそる目を開いた。こういうこともあろうかと構えていたルフェルは、ノエルの下敷きになり優しく微笑みながらノエルを見上げている。


「ルフェ……」


ノエルは、いま自分を受け止めてくれたルフェルの胸の感触に、さっき浴室で凝視した身体を重ね、鼓動が飛び跳ねたことに慌てた。あ、あの身体で……抱き止め……ルフェルの身体って、こんなにたくましかったっけ……


「怪我がなくてよかったよ」


上に乗せているノエルを落とさないよう、ルフェルはゆっくりと上体を起こし、萎縮して俯いたままのノエルをいつものようにぎゅうっと抱き締めた。


「きみのやりたいことを止めるつもりはないけど、危ないことだけはしないで」

「うん……」

「……無理だと思ったら僕を頼って欲しいな」

「うん、ありがとうルフェル」




ノエルの心臓は皮膚を破って飛び出しそうなほど激しく拡縮を繰り返し、その心臓が送り出す血液は沸騰しているかのようにノエルの身体を熱し、しかしそれに反して頭は一切の働きを放棄しているようでまったく思考がまとまらない。ドキドキして……苦しい……ルフェル……



───



ルフェルとノエルが買い物をしてバザーから帰って来ると、ルフェルが 「あ!」 と何かを思い出したように玄関で動きを止めた。胡椒を買い忘れたと言うルフェルは、すぐ帰って来るからとノエルに留守番を頼み、大急ぎでバザーへと引き返した。


日中であればしばらくの留守番も慣れたもので、ノエルは紙袋の中身をテーブルで広げながら買って来たものを選り分けた。じゃがいもはキッシュにしてー、ほうれん草もキッシュに入れてー、にんじんはお砂糖でからめてー、それから桃を手に取ると「いい香り……」と満足気につぶやき、林檎の横に並べた。


初めてキッシュを食べた時も驚いたけど、桃を食べた時もびっくりしたのよね……甘い香りが部屋いっぱいに広がって、かじると柔らかいのに歯ごたえがあって、舌の上でなめらかに溶け出して消えちゃうの……この世にこんな美味しいものがあるのかって……何を食べてもそう感じるんだけど。


あの日、ルフェルに出逢ってなかったら……わたし、まだ言葉も知らないままなのかな。食べものが熱いことも、あたたかい水のことも、ベッドが柔らかいことも、ルフェルの手の大きさも、腕の力強さも、胸のあたたかさも……なんにも知らないまま……なのかな……


……ルフェルに出逢ってなかったら、わたしはもうこの世にはいないんだった。


グラスの中でキラキラ光る橙色の薬……飲んだ途端息苦しさが治まって、天使さまの国にはすごい薬があるんだなって驚いたけど……


どうしてわたしは……わたしのからだは小さいままなんだろう。周りの子はもう大きくなって、恋の話だってしてるのになあ……



───



その時玄関の扉が開き、「まいった……」 と言いながらルフェルがずぶ濡れで帰って来た。


「どうしたの、ずぶ濡れじゃない!」

「通り雨……やむ気配がなかったんだけど、家に着いたらやんだよ……」


全然気付かなかった……とノエルは窓の外に目をやり、庭の紫陽花の葉に散らばる雨粒が、陽の光にキラキラと反射しているのを見て、「もう少し待てばよかったね……」と笑った。


「でも早く帰りたかったから」と言いながら、ルフェルは玄関先で濡れた服を脱ぎ両手で絞った。「洗濯する手間が省けたよ」と力なく笑うルフェルは、ノエルの返事がないことを不思議に思い振り返った。


「……ノエル?」


ルフェルの声にはっとしたノエルは、「ちゃんと身体拭いてね! 風邪ひいちゃうから!」 と言いながら慌てて部屋の奥に引っ込んだ。


ルフェルの……裸体……どうしてこんなにドキドキするんだろう……もう何年も一緒にいて、裸体なんて見慣れてるはずなのに……お風呂だって一緒に入って、一緒に眠って……それなのに……ずぶ濡れだからって玄関先で脱がなくても……外から丸見え……あああ!!


ノエルは慌ててクローゼットを開けタオルを掴み玄関へと急いだ。


「ありがとう、ノエル」


白銀色の髪から雨水を滴らせながら、ルフェルはタオルを受け取り笑顔を見せた。


「……しゃがんで」


ノエルがそう言うと、ルフェルは頭の上にタオルを載せたまましゃがみ、ノエルはそのタオルでルフェルの髪をわしわしと拭いた。小さな手で一所懸命ルフェルの髪を拭きながら、ノエルは 「早く大きくならないかなあ」 と何度も何度も思った。



───



ルフェルが晩ごはんの支度をしていると、ノエルがその後ろ姿を凝視する。ルフェルの動きに合わせてノエルの視線も動く。そしてノエルは小さく溜息を吐いた。


「…どうしたんだい?」

「え、何が?」

「いまちっちゃい溜息が聞こえたから」

「ううん、なんでもない」

「そう? 何かあるならちゃんと言うんだよ?」


ちゃんと言うんだよ、なんて言われても、「ルフェルの姿を見てるとドキドキするの」なんて言えるわけがないし、言ったところでうまくかわされちゃう気がする……どう言えばこのもどかしさが伝わるのかしら。


「時々ね、ルフェルの姿を見てると、むねのあたりがぎゅうってなるの」

「……胸が? 心臓が苦しいとかじゃなくて?」

「そうとも言えるかもしれないんだけど」

「他に痛いところはない? 苦しいところとか」

「ないわ。ぎゅうってなるだけ」


ルフェルは料理の手を止め振り返ると、ノエルの額を手のひらで覆った。熱はなさそうだけど……医者に診せたほうがいいんだろうか。あの日からもう血を吐くこともなくなったけど、もしかしたらってこともある。


「ノエル、一度医者に診てもらったほうが」

「そういう苦しさじゃないよ、多分」


ああ、やっぱり伝わらない……


「ねえ、わたしルフェルのことが好きだってわかってる?」

「うん、僕もノエルのことが大好きだよ」


── わたしの好きとルフェルの好きは同じなのかなあ。びみょうにちがう気がするんだけど。わたしは桃が大好きだけど、それをルフェルにゆずってもいいくらいルフェルが好きなのに。



「ねえ、ルフェルは天空にいたときどうだったの?」

「どうだった、って?」


キッシュを突つきながらルフェルが訊ねる。


「なんていうか……恋とか…」

「ああ、そんなことを考える時間すらないくらい忙しかったよ」

「そうなんだ」


── これで少しくらいはわかってくれるかしら。


「朝から晩まで働き尽くめで睡眠時間すら取れない日もあったから」

「ふうん……天使さまもいそがしいのね」

「うん、あ、キッシュお替りあるよ? それともデザートに桃出そうか?」


── なんにもわかってくれてない!


ノエルはおとなしく桃を受け取り、いい香り……と頬を寄せた。胸の奥をぎゅっと掴まれるような感覚の正体ははっきりしないままだったが、甘くしっとりと香り立つ桃の誘惑には勝てず、滴る果汁となめらかな果肉を存分に堪能した。



───



……恋、だって?


まだ十歳のノエルが恋愛に興味を持っているとは考えたくないが……誰か気になる相手でもいるんだろうか……たまに教会で会う同じ年頃の誰か、とか。いやいや、まだ十歳だぞ? 愛だの恋だの早過ぎ……とも言えないのか? 人間の寿命を考えると十歳はもう恋愛に興味を持つものなのか?


ノエルの思惑とはかけ離れていたが、ルフェルはしっかりと "恋" に反応していた。


せめて結婚できる年頃までは、と思いつつ、永遠の命を持つ自分たちとは時間の概念が違うのかもしれない、とルフェルは気が遠くなるような感覚に陥る。僕の可愛いノエルが恋……そう考えると居ても立っても居られない衝動に駆られる。駄目だ駄目だ、まだほんのこどもじゃないか。



自分のベッドがあるのに、夜になるとルフェルのベッドに潜り込み、ノエルはルフェルの胸に背中を押し当てて眠る。左腕を枕に、右のひと差し指を握るのも昔から変わらない。


ルフェルは、このまま時間が止まればいい、とさえ思った。


そしてノエルはルフェルの腕の中で、やっぱり胸がぎゅうっとなる感覚を覚えていた。


わたしのからだは十歳のままだけど……同じ年頃の子たちはもう十五歳くらいにはなってる。わたし、成長が止まったのかと思ってたけど、止まってるのはからだの成長だけなんじゃないのかな。だって、毎日どんどんルフェルのことが好きになるもの。からだが気持ちに追い付いてないだけなんじゃないのかなあ。


「ねえ、ルフェル」

「なんだい?」

「わたし、早く大きくなるから待っていてね」

「え……」



このまま時間が止まればいい、と思っていたルフェルは大きなダメージを受けた。そんなルフェルの心などお構いなしに、ノエルはすうすうと寝息を立て始めた。



── ノエルが大きくなったら、それはそれは眩い限りの女性になるだろう。そうなれば周りの男どもが放っておくはずがない。いまだってこんなに可愛くて、誰より可愛くて、規格外の可愛さなんだ……頼むから、早く大きくなるなんて言わないでくれ……


ルフェルはノエルの寝息を聞きながら、自覚のない苦しさにその夜は眠れなかった。

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