第2話 俺、この子に一生ついていきます
大学の講義中、俺は完全にヤバかった。
にやにやが止まらない。止めようとすればするほど、口角が上がる。推しと会話した。推しに笑いかけられた。推しに「大好き君」って呼ばれた。
周囲の男だらけの席から、めちゃくちゃ冷たい視線を感じた。
「高瀬、今日、なんかキモくね?」
「やば、恋してる顔じゃん」
ひそひそ声が刺さる。でも、いい。俺は今、恋をしている(たぶん)。
しかし、授業中にふと脳内に警報が鳴った。
(待て。俺、認知されて喜んでる場合じゃなくない?)
思い出した。アジフライ事件。炎上。推しに迷惑。
「やべえええええ!!!!」
叫び出したい気持ちを、ぎりぎりのところで飲み込んだ。
これはもう、謝るしかない。いや、謝るとかいうレベルじゃない。もはや切腹。武士。侍。
俺は、切腹覚悟でバイト先に向かった。
今日は、まゆちゃんがまた来るかもしれない。俺の人生をかけた謝罪を、ここで遂行する。そう意気込んだ。
が。
来ない。
待っても待っても、来ない。
(いや、冷静になれ。そりゃそうだろ。推し、毎日居酒屋来るわけないだろ)
皿を洗いながら、泡だらけの手で頭を抱えた。俺の決意、空回り。バイト先の冷蔵庫より冷えた心。
明日、来るかもしれない。
明後日、来るかもしれない。
期待して、期待して、期待して、胃がキリキリした。
何日か経ったある日、奇跡は起きた。
カウンターの奥に、見慣れたペールピンクのニット。小さな肩。ふわっとした笑顔。
まゆちゃんが、来た。
心臓がバック転しながら、俺はトレイを持って向かった。全身から汗が噴き出していた。足が震えて、トレイがプルプルしていた。
「ま、まま、まゆちゃ……!」
舌を噛んだ。痛い。でも、気合いで続けた。
「ご、ごめんなさいっっっ!!!!」
頭を下げすぎて、テーブルにぶつかりそうになった。その勢いにびっくりしたのか、まゆちゃんは両手をバタバタさせながら言った。
「だ、大丈夫ですっ! ほんとに、お兄ぃだったのでっ!」
耳に飛び込んできた、奇跡のワード。
「お兄ぃ」。
おにぃ。
おにぃ……!!!
脳がショートした。心が溶けた。何か尊いものに昇華された気がした。
目の前で、まゆちゃんはちょっとだけ頬を赤らめていた。世界一かわいい生き物だった。
俺はその光景を前に、心の中で土下座した。
(俺、一生この子についていきます。)
それは誓いだった。もはや契約だった。直人、高瀬、永遠の忠誠を誓います。
バイト終わり、店の裏口でまゆちゃんと鉢合わせた。
帰り支度をしている彼女は、ぴょこんと頭を下げて、ちょっとだけはにかんだ笑顔を見せた。
今しかない、と思った。
「ま、まゆちゃん……っ!」
ぎこちない声だったけど、気持ちは本物だった。俺は、あらためて頭を下げた。
「本当に、ごめんなさいっ!! あのとき、俺が……!」
頭を上げると、まゆちゃんは少し驚いた顔をしていた。でもすぐ、ふわっと笑った。
「ううん。もう、気にしてないよ」
その声は、思ったよりもあたたかかった。けれど、次の言葉が、俺の胸にひっかかった。
「大好き君のおかげで、誰が本当にわたしのこと信じてくれる人なのか、わかったから」
「……え?」
一瞬、意味がわからなかった。
でも、まゆちゃんはそれ以上は何も言わなかった。ただ、にこっと笑って、「おつかれさま」とだけ言って、駅へと歩き出していった。
取り残された俺は、頭の中がぐるぐるしていた。
(誰が信じてくれる人か……?)
意味深すぎる。どういうことだ。何があったんだ。
バイトを終えて家に帰ったあと、俺は、スマホを握りしめていた。
震える指で、そっと、まゆちゃんのSNSアカウントを開いた。
表示されたフォロワー数を見て、目を疑った。
……減っている。明らかに、減っていた。
「……うそだろ」
声が、かすれた。
吐き気がするくらい、胸が締めつけられた。
(俺のせいだ)
気づくのが遅すぎた。アジフライのせいで、界隈が炎上した。信じなかった人たちが、離れていったんだ。まゆちゃんは、それを受け止めて、笑ってたんだ。
俺は、何も知らずに、浮かれてただけだった。
「……」
頭を抱えた。何度自分を責めても、まゆちゃんのフォロワー数は元に戻らない。
だけど。
だけど、
俺に、何かできることは、ないのか?
まゆちゃんを、信じるって、言葉じゃなくて、行動で示せることは、ないのか?
拳をぎゅっと握った。
絶対に、逃げたくなかった。
俺は、もう二度と、あの日みたいに、推しを傷つけるオタクにはなりたくなかった。
絶対に。
まゆちゃんを、ちゃんと応援したい。
誰よりも、まっすぐに。
そう、心の底から、思った。
でも、それだけじゃ、きっと足りない。
まゆちゃんを、もっと輝かせたい。
もっとたくさんの人に、この光を届けたい。
(俺に、できること──まだ、あるかもしれない。)
小さな火種みたいな想いが、胸の奥でぱちりと弾けた。
ここから、きっと何かが始まる。
そんな予感だけを抱きしめて、
俺は、静かに拳を握りしめた。