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第1話 俺、アジフライで推しを炎上させた

俺は、アジフライで推しを炎上させた。しかも、よりによって、世界一好きな推しを。



スマホを開いた瞬間、変な汗が噴き出した。


画面いっぱいに知らないリプと引用ポストが並んでる。しかも、内容がヤバい。


『これ、星川まゆじゃない!?』

『右奥のツインテ、絶対まゆちゃん!』

『男と定食屋!?裏切りじゃん』

『終わった』


いや、ちょっと待て、何事!? 


手が震えた。慌てて自分の投稿を見返す。載せたのは、ただのアジフライ定食の写真。


アジフライ。最高だった。マジで。そこに、奥のテーブルがぼんやり写り込んでる。

黒いパーカーを被った男の隣に……ペールピンクのツインテール。

マスクとサングラス。ちっちゃい女の子。


間違いなかった。

『ペールピンクの初恋』ピンク担当・星川まゆだった。


「……マジか……」


胃がきゅううっと縮んだ。たまたま。たまたまだったんだ。

俺は、ただ、うまいアジフライに感動して写真を撮っただけだった。


なのに、世界は容赦なかった。スクショは拡散され、知らない誰かたちが騒ぎ立てる。『ガチ恋終了』『彼氏バレ』、果ては『オタク死亡』とか。おいやめろ、俺はゾンビか。


彼氏、って。まゆちゃんに、彼氏?


胸がぎゅんと痛んだ。そんなはず、ないだろ。俺が信じた、あの笑顔が。そんな。いや、でも、もしかして……。


喉がカラカラになった。スマホを握りしめたまま、何度もリロードして、同じポストを眺めた。目の前がぐにゃぐにゃ揺れる。なんで俺、アジフライなんか撮ったんだ。アジフライに罪はないけど、もう一生食えない気がする。




夜になって、公式からのアナウンスが出た。


『写っている男性は星川まゆの兄であり、恋愛関係ではありません。』


その一文を見た瞬間、全身の力が抜けた。ベッドに倒れ込みながら、スマホを握りしめたまま何度も画面を見返す。


よかった。まゆちゃんは裏切ってなんかいなかった。やっぱり、信じてた通りだった。


ほっとしたと同時に、変な声が漏れた。情けない。

でも、これで全部、元どおりになる。そう思いたかった。


けれど、現実はそんなに甘くなかった。スクリーンショットは拡散され、悪意のリプは止まらない。


『兄って設定、苦しくない?』『事務所に言わされてそう』『ペールピンクのガチ恋』。


そんな声が、止めどなく流れてくる。


何もしてない。たまたま。偶然。それだけだったのに。俺のアジフライのせいで、まゆちゃんが責められている。胸の奥に、小さな棘が刺さったままだった。



その夜、アカウントを全部消した。日常垢も、推し活垢も、サブ垢も。

バイト帰りに寄ったコンビニで買ったペールピンクのグッズも、帰ってすぐ押し入れに押し込んだ。


スマホの画面を見ても、もうまゆちゃんはいない。


いや、正確にはいるけど、俺が覗きに行かないだけだ。自分からシャッターを下ろした。

これ以上、まゆちゃんに迷惑をかけたくなかった。


グッズの箱のふたを閉めるとき、手がちょっと震えた。サイリウムも、CDも、Tシャツも。俺がたくさん笑った思い出たちが、ごちゃっと詰まっていた。


「……ばいばい」


誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。ほんとは、まだ推していたかった。

けど、それはきっと、俺のエゴだ。そう思った。


アジフライ、二度と食べたくない。




推し活をやめたはずなのに、ふとスマホを開いてしまった。何もない。何もないはずだった。でも、うっかりアルバムを覗いた俺は、そこで立ち尽くした。


ブレッブレのライブ写真。光が飛んで、顔なんかほとんど見えないのに、ちゃんとそこにはまゆちゃんがいた。ステージの上で、必死に笑って、汗まみれで、ピースサイン。間違いなく俺の推しだった。


指が勝手にスクロールしていく。最初の現場、初めての特典会、ピンボケのサイリウムの海。懐かしい、あたたかい、そして胸がきゅっと痛くなる。


もう終わったんだろ。そう言い聞かせても、アルバムを閉じる指先は、少し震えた。押し入れの奥のサイリウムも、見ないふりをしているだけで、ちゃんとそこにある。



駅前のビジョンに流れる、新曲リリースの告知。『ペールピンクの初恋、新曲発売決定』。それだけで、体がぴくりと反応した。目を逸らそうとしても、耳が勝手に拾ってしまう。懐かしいイントロ。甘くて、まっすぐな、あのメロディ。


立ち止まるわけにはいかない。早歩きで通り過ぎる。だけど、心のどこかでわかっていた。俺の中から、あの人はいなくなっていなかった。


ポケットの中でスマホが震える。SNSを開けば、ライブ告知。新体制。まゆちゃんの名前は、そこにない。胸の奥がずんと沈んだ。俺は、もう、観客ですらないのかもしれない。


そんなことを考えながら、冬の冷たい空気を吸い込んだ。思い出なんて、とうに手放したつもりだったのに。




金曜夜の居酒屋は、わりと地獄だった。どこも満席、オーダーは鳴りっぱなし、厨房は殺気立っている。俺はというと、いつも通り無心でトレイを持ち、ビールジョッキを避けながら人波を縫っていた。


そのときだった。カウンターの端。ふと、目に入った後ろ姿。


小柄な肩。ハーフアップっぽくまとめたペールピンクの髪。反射的に足が止まった。なにこれ、めちゃくちゃ見覚えある。


いや、違う違う、似た人なだけ。世界は広い。ペールピンクなんて最近流行ってるし、たまたまだ。俺は自分にそう言い聞かせながら、必死で視線を逸らした。


だけど、心臓が、ばくばくとうるさかった。足元がちょっとふらついて、あやうくビールタワーを倒しかけた。マジで危なかった。いや、危ないのはビールじゃなくて、俺のメンタルのほうだ。



忙しさに紛れてごまかそうとしたけど、視界の隅にちらちらとあのペールピンクが映る。気になる。めちゃくちゃ気になる。だけど、ガン見する勇気もない。バイト中だし、なによりビビりすぎて正視できない。



もう無理、無理だ、と思ったそのとき、聞こえた。


「砂肝と、枝豆、ください」


注文を告げる、澄んだ声。少し高めで、でもどこかあったかい、あの声。


終わった。俺の中の理性が、そこで音を立てて崩れた。


砂肝。枝豆。まゆちゃんの好物。推し活時代、インタビュー記事で何度も読んだ。何回も脳内メモして、特典会で話題にしようとして、結局緊張して「だ、大好きです!」しか言えなかった。


そんな記憶が、ぜんぶ一気に蘇った。バイト中なのに、泣きそうだった。


心臓が痛い。胸が苦しい。どう考えても、あの子は——。


いや、待て、落ち着け。世界には、砂肝と枝豆が好きな女の子だっていっぱいいる。ペールピンクが好きな子も、たまたま声が似てる子も、たぶん、いる。いるはずだ。


それでも、俺の心はもう、はっきり答えを知っていた。




確信した瞬間、身体ががちがちに固まった。動けない。手も足も、顔の筋肉すらピクリともしない。動け動け動けと脳みそは叫んでるのに、身体が完全にストライキを起こしていた。


あれは、星川まゆ。俺の、世界一の推し。間違いない。絶対、間違いない。何千回もスマホでもライブでも見てきたあの髪の色、あの指の細さ、あの声。ぜんぶ、完璧に覚えている。


こんな近くにいるのに、何もできない自分が情けなかった。話しかける? 


無理だろ。無理無理無理。だって、俺は、特典会ですら「だ、大好きです!」しか言えなかった男だぞ? バイト中に推しに話しかけるとか、そんなハードモード、攻略できるわけがない。


心臓は爆発寸前だった。きっと顔も真っ赤だった。


厨房に戻ったら絶対「高瀬くん顔赤くない?」とか言われるやつだ。ああもう、なんでよりによって今日なんだ。よりによってこの居酒屋なんだ。よりによって俺なんだ。


トレイを持ったまま、俺はぐらぐら揺れる視界の中で必死に踏ん張った。人生、こんなに足が震えたの、たぶん生まれて初めてだった。




バイト中、厨房から皿を運んで戻ろうとしたときだった。カウンターの奥から、明るい声が飛んできた。


「すみませーん、注文まだですかぁ?」


反射的にそっちを見る。ペールピンクの髪、小柄な女の子。間違いない。何度も画面越しに見た顔。世界一の推し、星川まゆ。


瞬間、心臓が変な音を立てた。けど、ホールには誰もいない。行かなきゃ。行くしかない。顔を隠すためにうつむきながら、トレイを握りしめた。


(だ、大丈夫だ……俺なんて地味だし、まさかバレないだろ……)


無理やり自分に言い聞かせて、まゆちゃんの席に向かう。すでに手汗がとんでもないことになっていた。



できるだけ目を合わせないようにしながら、「ご注文お伺いします」と小声で言った。が、まゆちゃんはじっと、こっちを見ていた。


やばい。見られてる。完全に目が合ってる。めちゃくちゃ観察されてる。心の中で警報が鳴り響く。


(落ち着け……! 顔に出すな……! 普通のバイトだと思え……!)


無理だった。冷や汗が背中をつたう。膝はガクガク、トレイはプルプル。完璧な挙動不審。これで気づかれなかったら奇跡だろ、ってレベルだった。


でも、まだ、ギリギリセーフだと思ってた。この時までは。


まゆちゃんは、ちょっとだけ首を傾げて、ぽつりと呟いた。


「もしかして……『大好き君』?」


脳が爆発した。鼓膜も破れた。心臓は宇宙に打ち上がった。血圧計があったら一瞬で壊れてた。


『大好き君』。特典会で毎回「だ、大好きです!」しか言えなかった俺の、栄光の称号。それを、本人から呼ばれた。


「あ……あっ……」しか言えなかった。口が勝手に開いて閉じた。完全にポンコツ。


まゆちゃんは、にこにこと、何も悪気なく、俺を撃ち抜いてきた。推し、罪深すぎる。



「ここでバイトしてるの?」と、まゆちゃんが尋ねた。まるで昔からの友達みたいに、自然な笑顔だった。


俺はカチコチになりながら、どうにか声を絞り出した。


「ウン、大学生デス」


日本語を忘れた男、高瀬直人。カタコトすぎて自分でもびっくりした。心の中で泣いた。


だけどまゆちゃんは、ぱぁっと顔を輝かせた。


「わぁ!『大好き』以外も聞けたぁ!はじめてお話しできましたね!」


ずきゅーーーーーん!!!!


心臓にハートの矢が三本くらい一気にぶっ刺さった。限界突破。理性が吹き飛んだ。



まゆちゃんは、何気ない感じで、砂肝と枝豆を追加注文してくれた。俺はただただ、ロボットみたいに頷くしかなかった。


この世界線、神なの? 推しと普通に会話して、普通に笑って、普通に注文受けてるの、奇跡じゃない? もうこのまま、バイト代いらない。命もってってください。


(はぁ……かわいい……尊い……生きててよかった……)


心の中で100回くらい唱えながら、トレイを持ち直した。持ち直した、つもりだった。



手が震えてた。意識では止めたつもりだった。でも、現実は甘くなかった。


トレイが、ぐらりと傾いた。次の瞬間、ガッシャーーーーン!!!


他の卓に持っていくはずだったビールジョッキが、床に派手にぶちまけられた。店内が一瞬で静まり返る。まゆちゃんもびくっとして、小さく「ご、ごめんなさいっ……!」と頭を下げた。


違う、謝るのは俺だ。全部俺が悪いんだ。


先輩バイトが飛んできて「高瀬!? 大丈夫か!?」と叫ぶ中、俺は心の中で静かに思っていた。


(……生きててよかった……)


割れたジョッキを拾いながら、顔だけはにやけるのを必死に堪えていた。


そして、知らなかった。


この瞬間から、

俺の世界は、静かに、でも確かに、ペールピンクに変わっていくってことを。

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