第3話 愚かな母は…
閉鎖的な田舎から逃れて12年が過ぎた。
離婚してから私は人生をやり直すのに必死だった。
確かに私は浮気をした。
だが、夫にだった政志にも責任はある。
いや罪はアイツの方が大きい。
私を幸せにすると言いながら、仕事仕事で全く家庭を顧みなかった。
慣れない子育て。
周りの友達はまだ遊び歩いているのに、私だけが取り残されていく不安。
多少の息抜きでもしないと、どうにかなりそうだった。
浮気のきっかけは些細な事からだった。
子供を託児所に預け、友人と息抜きに出かけた人気のカフェ。
そこで私のグループに声を掛けて来たのが、隣の席に座っていた紀佐間満夫だった。
優しげな彼に私の心はときめいた。
政志から、女として用済みと扱われていた私の心を愛で満たしてくれた。
最初から肉体関係を望んでいた訳ではない。
ただ延長線上にそれがあっただけの事。
別に離婚して満夫との再婚を考えていた訳ではなかった。
単なる息抜き、夫は金で私を満たし、満夫からは愛を与えてくれたら、それで充分だった。
それなのに政志は私の浮気が発覚すると、問答無用で私に離婚を突きつけた。
使い込んだ貯金と併せて、慰謝料と親権を渡せと。
冗談ではない。
私がこうなるまで精神的に追い詰めておきながら、よく言えた物だ。
離婚は望むところだったが、慰謝料に納得出来なかった私は弁護士を立て、必死で戦った。
しかし狡猾な政志は勤める会社の顧問弁護士を使い、私を追い詰めた。
こちらの弁護士が何を言っても、まるで相手にされない。
とんだ無能、私はハズレ弁護士を掴まされた。
結果、慰謝料は300万と決まった。
明らかに高すぎる、結婚の為仕事を辞めていた私に払えるはずも無かった。
政志は満夫にも同額の慰謝料を請求した。
支払いを拒んだ満夫は政志の弁護士によって全てを暴かれ、彼の生活は崩壊し、そのうえ金を毟り取られてしまった。
『お前のせいで…』
最後にそう言い残し、満夫は私の前から去った。
本命だった婚約者から捨てられ、職を失い、窶れ果て、まばらに禿げた頭頂部。
イケメンだった彼の面影は無かった。
『…史佳、もう止めなさい』
田舎から娘の面倒を見て貰う為に来ていた母が裁判を考えていた私を止めた。
裁判記録が残ったら、私の将来に影響が出る、美愛にも迷惑が掛かるからと。
慰謝料の殆どは両親が立て替えた。
当たり前だ、私は納得してなかったのだから。
それでも娘の親権を取れたのは良かった。
これで養育費を貰える、今までと同じ生活が出来ると思った。
しかし、毎月たったの7万しか払わないと言った。
『ふざけるな、そんな端金で暮らせるはずない!』
いくら調停の場で私が叫ぼうとも、金額は遂に上がらなかった。
だから元夫と娘の面会をさせなかった。
弁護士から、どれだけ養育費の支払いを止めると脅されても決して従わなかった。
結局ヘタレの政志は養育費の支払いを止める事はなかった。
ざまあみろだ。
しかし娘と二人の生活は苦しく、私は次第に追い詰められていった。
パートの給料では、外食はおろか、使っていた化粧品の購入すらままならない。
行政の支援を受けていても、生活水準は上がらない。
生活保護も考えたが、申請が面倒でそれも諦めた。
結局私は田舎に帰るしか選択肢がなかった。
大嫌いな田舎。
土臭い空気、咽るような草の臭い。
華やかな東京で馴染んでいた私にはとって、耐えられない世界だった。
両親は相変わらず貧しい生活を送っていた。
先祖の土地にしがみつき、朽ち果てるのを待つだけの人生。
こんな無気力な生活を送るのは考えられない。
だから私は再び田舎を捨てた。
今度は娘を置いて。
最初からそのつもりだった。
新しい人生を歩むには、娘の存在が邪魔になるからだった…
「ただいま」
「…おかえり」
くだらない事を思い出していたら、いつの間にか夜になっていた。
一緒に暮らしている亮二の声で現実に引き戻される。
私が勤めていたパート先で知り合った亮二と暮らし始めて、もう5年になる。
相変わらず生活は苦しいが、1人で暮らすよりはマシ。
数年前までは、男共に貢いで貰えていたが、40代を過ぎた頃から声も掛からなくなって来た。
亮二に愛なんかない。
今の生活は妥協の産物。
「なあ車を買い替えたいんだ」
「そんなお金どこにあるの?」
また亮二はふざけた事を。
私達に貯金なんか無い、した事もない。
車の購入なんか、無理と分かっているだろ。
「まだ養育費があるだろ、それでローンを組めば」
「支払いは1月で終わったわ」
私の離婚や、養育費の事を知る亮二。
ここまで私の養育費を当てにするなんて、この男もハズレか。
「使えねえ女だ!」
亮二はビールをあおり、寝室に消える。
本当は、養育費の金は全部おろさず、100万程口座に残してある。
亮二には絶対知られてはならない、この金は私にとって最後の砦…
翌日の昼休み、私は銀行に来ていた。
予約票を取り、椅子に座る。
残金を全部おろそう。
そろそろ亮二とは潮時、アイツは私の財布からちょくちょく金を盗むような奴だ。
このままでは、この金も危ない、さっさと別れる事にしよう。
「河合様」
行員に呼ばれ、カウンターに向かう。
通帳と印鑑を差し出す。
解約して金を受け取ったら、仕事に戻るとしよう。
「この口座は現在凍結されております」
「はあ?」
意味が分からない。
なんで私の口座が凍結されなくてはならないの?
「ちゃんと調べてよ!」
「…そう言われましても」
「話にならないわね、支店長を呼びなさい!!」
こんなバカげた話ある筈ない。
平行員を少し怒鳴りつけると、奥の方から1人の年配女性が現れた。
「こちらに」
仕切りに囲まれた部屋に案内された。
一体なんだというんだ、こんなくだらない事で昼休みが終わってしまうなんて。
「この口座は、裁判所からの命令で取り扱いが停止されました」
「裁判所?」
「はい、裁判所の」
「だから、何でそんな事をされなくちゃならないの!」
「それは私共に分かりかねます」
どれだけ怒鳴りつけても、女は全く動じる事なく、冷ややかな目で私を見る。
これでは話にならない。
「もういいわ!」
埒が開かない、テーブルに置かれた通帳と印鑑をひったくり銀行を出た。
パート先には体調が悪いと連絡を入れ、近くの法テラスに向かう。
明らかに犯罪行為だ、何者かが、私の金を騙し取ろうとしてるに違いない。
担当の法テラス職員に話をする。
難しい顔をしながら、私の話を聞き終えた。
「…河合さん、あなた養育費を自分の為に使っていたんですか」
「それがなに、私の為に使って何が悪いの?」
「養育費は、お子さんを育てる為にあるのです。
決してあなたの生活費では…」
「一緒でしょ!
私を養育するのが元夫の義務で…」
「あなたは夫のお子さんではないでしょ、養育の義務はありません」
「黙れ!」
コイツも話にならない。
こんな人権侵害は許せない、なんとか金を取り戻さなくては。
「あなた、近々訴えられますよ」
「…な…なぜ?」
今何を言ったの?
「間違いなく、元夫さんは養育費がお子さんに行かず、あなたの遊興費に使われたと知ったのでしょう。
だから弁護士を通じて、裁判所に口座の凍結をなさったんです。
きっと返還請求されますよ」
「あの男は!!」
まだ私から金を毟り取ろうというのか!!
「今回の措置は、あなたのお子さんも同意されているでしょうね」
「娘が?」
なんで娘が出てくるんだ?
「養育費は子供の権利です。
返還請求は、基本お子さんにしか出来ません」
「み…美愛が」
美愛がアイツと繋がっている?
「…分かったわ」
それならまだ終わりじゃない。
娘は私の味方、きっと話せば私につく。
あれだけ離婚はアイツが原因と言い続けて来たんだ。
それは12年経っても忘れてないだろう。
「受けて立つわ」
こっちも弁護士を立ててやる、金を取り戻すんだ。
確か美愛は高校3年のはずだったわね。
「ついでに大学の進学費用を払えと言えば…」
笑いが止まらなかった。
アホだ…




