第1話 父との再会
物心がついた頃から私にはお父さんが居なかった。
私が1歳の時、お母さんはお父さんと離婚した。
『どうして私にはお父さんがいないの?』
4歳になった私は母に聞いた。
保育園でお父さんの似顔絵を描く事があって、家には写真すら無かった。
『お父さんは会社の後輩と浮気してね、それが分かったら、アッサリ私達を捨てたの』
顔を歪めながら、お母さんは言った。
まだ小さい私に、そんな重い話を教えたお母さんはどうかしてたんじゃないかと思う。
離婚当時は専業主婦だったので、私を育てる為に始めたパートで疲れていたのかもしれないと思った。
生活は苦しく、お母さんは田舎に帰る事を選んだ。
金銭的な不安と、子育ての負担を考え、東京を離れ両親の暮らす実家に戻る事にしたのだろう。
おじいちゃんとおばあちゃんは暖かく私を迎えてくれた。
地元の保育園も決まり、ようやく安定した生活が始まった。
でも田舎の暮らしは、東京で華やかな生活を送っていたお母さんには不満だったらしい。
出戻った女という好奇の目は、お母さんを孤独にさせたのかもしれない。
勤めたパートも続かず、次々と辞めてしまった。
『こんな事なら東京に居たら良かった。
あの男のせいで私の人生は…』
お母さんは、毎日愚痴るようになった。
でも、おじいちゃん達はお父さんの事を悪く言わなかった。
私にとって、唯一の父親だから悪く言ってはならないと思ったのだろう、当時はそう思っていた。
それから2年が過ぎ、私が小学校に上がった年、母は再び東京に戻ると言い出した。
『こんな田舎で一生を終わりたくない』
母は元々田舎の地元が嫌だったそうだ。
高校を卒業して、東京の会社に就職した母にとって、ここでの生活は黴臭く、息苦しかったのだろう。
『生活が安定するまで美愛をお願いね。
きっと迎えに来るから』
そう言い残し、母は実家を飛び出してしまった。
それから12年。
今もお祖父ちゃん達と一緒に暮らしている。
母からの連絡は最初の数年で途絶えてしまった。
シングルマザーとして働きながらの暮らしは、大変だから私との生活を諦めたのだろう。
心で分かっていても、入学式や卒業式にも帰って来ない冷淡な母の態度は私の心に大きな傷を残した。
『すまんな美愛、私達のせいで』
『ごめんね』
『大丈夫だよ、美愛には大好きなおじいちゃんとおばあちゃんが居るから』
変わらず私を愛してくれる、お祖父ちゃん達が居なかったら、私の心は耐えられなかっただろう。
そして私の隣に住んでいた山口さんの存在も大きい。
山口さんの家は母親の由美香さんと息子の祐介君の二人暮らしで、私に暖かく接してくれた。
専業農家で忙しい祖父母に代わり、私のご飯や学校行事、更には身の回りに必要な事まで、本当に助けて貰った。
『美愛ちゃんは本当に可愛いわね、家にはバカ息子しかいないから』
『誰がバカ息子だ』
由美香さんと祐介君のやり取りは、いつも私を和ませてくれた。
私にとって、山口さんはもう一つの家族みたいな存在だった。
同い年の祐介君は学校で私がイジメられないように、いつも守ってくれた。
引っ込み思案だった私に、沢山の友達が出来たのも人気者だった祐介君のおかげ。
もし彼が居なかったら、私はどうなっていたかと、考えるだけでもゾッとする。
そんな私達も、気づけば高校3年になっていた。
いよいよ高校生活も残り僅か、進路は祐介君と同じ東京にある大学に決めた。
幸いな事に公募推薦で私達は合格が決まって、明るい希望に胸を膨らませていた。
「美愛、今度東京に行く時、お父さんと話をするつもりはあるかい?」
2月の日曜日、朝食を食べ終えた私におばあちゃんが言った。
「それって、お父さんに私が会うって事?」
「そうだ」
おじいちゃんも頷く。
突然の話に頭が混乱する。
何で今更、今まで一回も会った事なかったのに。
「…無理にとは言わん」
返事が出来ない私におじいちゃんが呟いた。
「お母さんはなんて言うかな?」
母の意見はどうなんだろう。
私がお父さんと会う事で、将来亀裂を生まないかな?
聞きたいけど、母の連絡先を私は知らない。
「史佳には内緒だ」
「ええ、それが政志君…あの人と美愛の為よ」
「そっか…」
政志って、お父さんの名前。
そんな事より母に内緒か、それで良いのかな?
「お前が嫌なら、この話は終わりだ断っておくよ」
「…うーん」
簡単に会いますとならない。
でもイヤかと聞かれたら…
「ちょっと考えさせて」
「分かった、ゆっくり考えなさい」
1人では結論は出そうにない、私は祐介君の家に向かった。
「そうなのか」
「美愛ちゃん大変ね」
話を聞き終えた祐介と由美香さんは難しい顔をしている。
こんな込み入った話を家族以外にするのはどうかと思うが、祐介君母子は、私にとって同じくらい大切な人達。
「俺なら会いたいかな。
お父さんって、どんな感じか分からないから」
「…祐介君」
祐介君は静かにそう言った。
彼は1歳の時に父親を事故で亡くしているからだろう。
「…そうね、美愛ちゃんのお父さんが急に連絡して来たのは、きっと伝えたい事があるのだと思うわ。
悪い話なら、河合さんも美愛ちゃんに会わせないはずよ」
そう言って由美香さんも頷いた。
「分かりました」
こうして私は、お父さんと17年振りに会う事となった。
再会の場所は東京の一流レストラン。
緊張する私の隣には祐介君が居た。
「俺まで良いのか?」
「大丈夫よ、お父さんには連絡したから」
「…そうだけど」
祐介君も緊張している。
部外者な彼には悪いとは思うけど、私1人では会う勇気が出ない、やはり怖いんだ。
「どうぞこちらへ」
レストランの入り口で私が来た事を伝えると、ウェイターが店内へ案内する。
初めての場所、しかも最高級のお店。
田舎から出て来た私達、場違い感が凄まじかった。
「失礼します、お連れ様がお着きになられました」
「どうぞ」
ウェイターが個室の扉をノックすると返って来た男性の声。
今のがお父さんの?
記憶なんかない筈なのに、何故か懐かしさのような気持ちが込み上げて来た。
「美愛か?」
「…はい」
個室の大きなテーブルに座る1人の男性。
オールバックの髪型。
彫りは深く、綺麗に整えられた口髭は清潔感に溢れ。
少し大柄な身体は、高級そうなスーツで包まれていた。
「…大きくなったな」
「先月で18歳になりましたから」
「そうだな、写真では見ていたが」
「写真?」
どういう事?
お父さんは最近の私を写真で知っていたの?
「おじいちゃん達から聞いてなかったのか?」
「はい…」
何が何やら分からない。
「まあ座りなさい、それと確か君が…」
「山口です、山口祐介と申します」
祐介君がお父さんに頭を下げた。
「そうだ祐介君だ。
君のご家族にも随分と世話になったみたいだな、本当にありがとう」
「いえ…僕の方こそ」
緊張した表情の祐介君。
私達は促されるまま、席に座る。
お父さんは祐介君の家族まで知っていた。
「それで今日は?」
「先に食事をしよう、話はそれからだ」
「分かりました」
聞きたい事は山程ある。
でも焦る事はない、隣に座る祐介君が私に安心感を与えてくれた。
「どうだ、美味いかね?」
「…そうですね」
次々と運ばれて来る料理。
本格的なコースメニューなんか初めてだよ。
「祐介君は?」
「おいしいです、本当に」
美味しそうな表情で口を動かす祐介君。
さっきの緊張感はどこいったの?
ステーキに夢中じゃない、確かに美味しいけどさ。
「若いんだから、遠慮なく食べなさい」
笑顔のお父さん。
祐介君を見つめる瞳は優しさで満ちていた。
これが祐介君の不思議なところ。
彼は周りの雰囲気を明るくさせる力がある。
「さて、話だが」
食後の飲み物が運ばれ、お父さんは背筋を伸ばす、いよいよ本題に入るみたい。
「美愛は慶彩大学に入るんだったね」
「そうです」
「祐介君も」
「え…ええ」
なんで私達の入る大学まで知っているの?
「名門じゃないか、二人共頑張ったね」
「「ありがとうございます」」
褒められて悪い気はしない。
確かに世間では一流大学として名を知られている。
「学費なんだが、大丈夫かな?」
「それは…奨学金を」
確かに私立大学の学費は高額。
おじいちゃん達は貯蓄を崩すと言ってくれたが、断った。
大切な老後の蓄えを、私の為に使って欲しく無かった。
「これを使いなさい、300万入っている」
「300万?」
お父さんは一通の通帳を差し出した。
書かれている名前は石井美愛…
石井って、お母さんが離婚する前に名乗っていた名前じゃない?
「美愛に渡す為取っておいたんだ。
今日の為にな」
「は…え?」
混乱で言葉が出ない。
「聞いてないなら、仕方ない。
それは史佳…君のお母さんが私に託した金だ」
「お母さんが支払った…つまり離婚の慰謝料ですか」
「…聞いていたのか」
「いえ、なんとなくです」
本当の離婚理由なんか、誰から聞いた訳ではない。
だけど、なんとなく察する事は出来た。
母のお父さんを足蹴に罵っていた言葉。
それを窘めるおじいちゃん達。
僅かだが記憶に残っていた。
「祐介君に聞かれて良いのか?」
「大丈夫です…僕もなんとなく」
「そうか…」
祐介君は静かに頷いた。
狭い田舎のコミュニティ。
母がどれだけ恥を隠そうとしても、事実は漏れる。
母は不倫をして、お父さんと別れた。
それが私を苦しめて来た。
だけど、祐介君と由美香さんは私を悪意から守ってくれた。
「そうだ…確かに君の母は私を裏切った。
だが、美愛は大切な娘だ。
これは私が使う訳にはいかなかった」
お父さんは静かに頭を下げた。




