内心にある儀式の一つ
・・・・・・イベント終了後、私のとは違うIDを首に下げるスタッフに声を掛けられたとき、不正入場を咎められるのかと思い、サイン会の列に並び始める人だかりを押しのけダッシュした。
迷子の館内放送が流れたのは十五分くらい経ってからのことだった。私は仕事に戻っていて地下二階の搬入車専用駐車場にある従業員用男子トイレを掃除していた。
いつも嫌な臭いの付く紫色のゴム手袋をはめて小便器をブラシで擦っていた。他人しか使うことのない便器に顔を近づけても今では息を止めずにいられる。それにしても足元の「汚れ」は本当にどうにかして欲しい。どうしてあと一歩だけでいいのに前に出ようとしないのか、清掃員になる以前から一歩前に出ていた私には理解できない。それでも一つだけ分かるようになったのは「出し始め」に飛び散るのではなく「切れ際」に「外れる」ということだ。だからこそあと一歩が大事なわけだ。私は自分が歳を取ってから汚れる仕組みを理解した。
「ご来店のわすれなぐささま、ご友人のシェリーさまがお探しです。お手数ですが九階イベント会場裏側控室までお越しくださいませ。繰り返します、ご来店のわすれなぐささま、ご友人の・・・・・・」
しゃがんでブラシを擦っていた私は、何事かと小便器の真正面から立ち上がり、各階のお客様用トイレと同じLEDライトなのに、どうにもやさぐれた明かりのある、そんな天井に埋め込まれたスピーカーに耳をすました。雷鳴に等しく聞こえた、繰り返される館内放送に私は頷いた。
突っ立っていた足元はブラシから垂れる白い泡で「汚れ」た。さすがにそこはモップでふき取ったが、残りの作業は全て放棄した。
モップを取り出すとき開けたままだった清掃用具入れにあるスロップシンクでブラシとモップを水洗いした。持ち歩いていたバケツの中に便器用洗剤のボトルとブラシを入れ、便器用雑巾は使わなかったのでバケツの縁で乾いていた。絞ったモップを逆さに立て、バケツのセットは床に置いた。最後に紫色の臭いゴム手袋を洗濯ばさみで挟んで吊るし作業終了後にチェックする「清掃作業項目表」に初めて嘘のチェックをいれた。誓ってもいいが、監視カメラのない従業員用トイレで不正したことは初めてのことだ。他の清掃員が実はどうしているのかそれは分からないが、私は監視カメラレスのトイレで手抜きしてしまったら、誰が率先してやりたいと思うでもない仕事に従事している自分を否定しかねない、と思っているのだ。しかし館内放送で呼び出された私は自己都合的ある意味でのプライドをぶっちぎり、行くべき「場所」に行かなければならい、とそう思った。
ペンシルを持たなくなって久しい自分の手の臭いを嗅いだ。もちろん初めての嘘の臭いがあるわけもなく、胸を張って生きて行くために必要な、あのいつもの嫌な臭いがする。手を洗いもう一度臭いを嗅ぎながらトイレを出ると「作業中」の看板をしまい忘れていた。
「使わせてもらってもいいですか?」
灰色の作業服の胸に入館バッチをつける二人の男に声を掛けられた。一人は私と変わらないくらいの歳の大男で、もう一人は二十代のもっと大きな若者だった。
「あっ、すみません。もちろんどうぞ」私は看板を折りたたんだ。
二人は洗い終わったばかりの小便器と、洗わなかった小便器に並んで用を足した。
「いま変な放送があったろ?」
「ええ。呼び出しが変な名前でしたよね」
「思ったけど、シェリーがわすれなぐさを探してるって話じゃん。そんならこの際、特設会場じゃなくて回帰線で待ってますって放送すりゃよかったんだよ。お前、俺の冗談分かる?」
大男はあと一歩を踏み出さずに一人で笑った。もっと大きな若者はもっと離れた位置で、なんすかそれ? と言った。
私は彼らに一歩前に出ろ、とは言えなかったし、その冗談、分かります、とも言えなかった。でも私は大きくて動きの遅い従業員用エレベーターが地下に降りてくるまで、感じたことのない堂々とした気持ちになっていた。何も普段からコソコソしている自覚などないのだが、それでも本当にこんなにも堂々たる気持ちが、私ごとき小さな胸の内に生じ、そしてキャパ越えもせず納まることができるとは思ってもいなかった。
・・・・・・そこらにいるスタッフに声を掛けると特設会場裏の控室に案内された。軽く冷房の効いた窓のない、無表情な四角い部屋の中央には向き合う二台の長机があり、テッシュペーパーの箱が一つだけ乗っているだけで、食べかけのお菓子や口を付けたペットボトルがあるでもなかった。机の周りには二脚と三脚のパイプ椅子が、それぞれの片側で等間隔を保って奥まできちっとしまわれていた。部屋をあてがわれた利用者が出払った後、関係者の誰かが片付けたというより、誰も使っていないかのような雰囲気だ。でももちろんそんなことはない。部屋の壁際には机周りから移動されたパイプ椅子が一脚あり、そこには、私のこれまでの人生観からすれば、というだけの話なのだが、どう見ても話に聞くような金額には見合わないとしか思えないシャネルの白いクラシックショルダーバックが一つだけ置かれていて、椅子の背中には薄手の白いカーディガンが掛けられていた。たぶんシャネルに関しては無警戒過ぎる気がしたので、私は直ぐに視線を逸らしたが、艶やかな白いハンドバックから見下されているような気がしてこないよう留意した。そんなわけでドアを背にする、二脚側の右の椅子に座っていた私は、シャネルに一番近い席であったので立ちあがった。さっきまであれほど堂々とした気持ちだった俺は、一体ここで何をしているんだ、と思いつつ一番離れる反対側の左端の席に移動した・・・・・・が、今まで座っていたパイプ椅子を後ろに引いたまま移動してしまったことに気が付き、もう一度立ち上がろうとしたところでドアがノックされた。私は自作したピンチに陥り、固まってしまうと女の声が「失礼します」と言いドアが開いた。
私より一回り年長に見える白髪頭にパーマを当てた人物が現れ、同伴していたスタッフに物腰柔らかな言い方で「急いでくださいね」と何かを指示した。
「どうぞ、お座りください」女は裏返す右の掌で私のパイプ椅子を指し、近づいてきた。
私は後ろへ引かれたままの、あのパイプ椅子が気になり、それは私の人生に初めて関わった、あるいは今から関わろうとする高価なクラシックハンドバックに一番近い椅子だ・・・・・・この女が一脚だけ後ろに飛び出すあのパイプ椅子とハンドバックに視線を向けて、一瞬思案したあと私に微笑む場面を想像した。私は、俺がどんな言い訳をするのか逆に楽しみに待とうぜ、と私自身に微笑もうとしたが、もちろんそんなことは無理な話だった。
「大変お待たせしてしまい申し訳ありません。どうぞお座りください」女は私の傍を過ぎて、あのパイプ椅子にそのまま座った。当たり前だが何の不信感もなく女はそこに座った。
しかし座って直ぐ「あっ」と言い、すぐそこのハンドバックを取りに行ったとき、私はまだ立ったままだった。
「誰もいない場所の椅子を後ろへ引いとくのは私の内心にある儀式の一つなんです。場所はどこでもいいってわけではなく、様々な理由、たとえば易学だったり数学上での根拠さえあるんです。だからその椅子だけが後ろに引かれている訳なんです・・・・・・ええ、もちろん手が届くくらいの場所にあるシャネルのバックが気にならなくはありませんでしたが・・・・・・だってそうでしょ? 部屋に誰もいなかったのですから。そう確かに不審に思われてしまうのは仕方がないです。むしろ思わなければいけませんよ。性善説なんてものは神話の行間を埋めるために発明した、いわば装飾語なだけなんす・・・・・・ところで、いいですか? 後だしジャンケンのように聞こえてしまうかもしれませんが、実は春と夏には北側に座るので、この時期はこちらへ座り空席は南東と決まっているのです。私の内心のその儀式が一体なんであるのか、何を目途に行われているのかのご説明は・・・・・・」私は心の中で言い訳を始めていた。
女はハンドバックから名刺入れを取り出して私に渡した。
「申し遅れました。私はこういう者です。どうぞよろしくお願いいたします」