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シェリー  作者: ハクノチチ
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佳作


 社会復帰したのは十年前のことだ。私は実家の部屋から出て玄関も出ることを果たした。母親の小さなサンダルを引っかけたあの日が人生最大の快挙と言える。

 ・・・・・・以来駅前の商業施設で清掃のバイトを始めた。もちろん絵など描いてはいない。

 先を照らす明かりもない人生を、それでも生き残るためにあらん限りの情熱を傾けていた日々が失われると、不思議なのだが靴を揃えるスペースしかなかったはずの崖っ淵は遥かに遠のいていた。今では死なずに生きて行くため必死にならざるを得ない課題は、気持ちの乱高下を安定させることよりも、日々の節約に変わっている。しかもそこには楽しみだってあることを発見した。月末に給料日が来たときだけ、値引きされた弁当を狙う閉店間際のスーパーへは寄らず細やかな外食を楽しむ。世の中にはハードな竿とマッチョなリールでカジキマグロを釣り上げる楽しみがあれば、華奢な竿と小さな釣り針で小魚を釣る楽しみもある。子供のころ読んだ漫画にそのようなことが書かれていたが、外食する時はいつも思い出す・・・・・・


 九階の特設会場で「絵師」のイベントがあることを知った私は、清掃員のIDを首にぶら下げ関係者口から何気に忍び込んだ。と言うのも一時間前に裏の通路ですれ違った「先生」の着ているワンピースに腰が抜けてしまったからだ。

 水色の麻生地に白い花を咲かせるサルスベリ。あいつが自分で選んだ服そのものだった。私は時が歪む地鳴りのような音を聞いた。


 冒頭、女の司会者に服を褒められた「先生」は座ったばかりのパイプ椅子から嬉しそうに立ち上がると、花瓶に活けられた一輪挿しが、飼い犬の命日になると起こることもあるらしい行動そのものにクルッと一回転した。

 「友達のデザイナーに作ってもらった勝負服なんです」若い女は赤いスニーカーの白い足を揃えて座り直し笑った。上機嫌でも、細くて印象的な目は勝気だ。


 ・・・・・・フェイバリットな一枚、というコーナーで「先生」は懐かしい絵をステージのスクリーンに映した。そして解説を始める。私は250人ほどの聴衆の一番後ろにいた。


 「これは私が十歳だったときに行われたカーフ・カーブ主催の第一回コンテストで佳作に選ばれた絵です。検索すれば皆さんのスマホにもすぐ出てきます。作者はわすれなぐさという人物です。今何をしているのかは知りませんが、当時の技術やアプリの性能を考慮すると、まずまずだったのでしょう。たとえば金盥の水の中に漂う光。気温と水温の温度差がちゃんと存在しています。ともすれば深すぎる陰に光の粒を散らす奥の仏間。そこには絵の背景で流れる色のついた静かな曲を、実は感謝の言葉にさえしている。この服の元になった、ワンピースを着る主人公の女の子は十四歳だと推察します。庭先に飛ぶ蝶か何かを見つめるような角度の目元は一重の茶色い瞳。彼女の瞳はまだ、どんな十代であれ二度と戻れないことをよくは知らない怠惰と脆さがある。赤いイヤリングで視点を誘導した耳の襞は素敵です。ひざに乗せる左手のスイカバーも、見事な出来栄えの手への誘導ですね。作者は人物画のツボを知っていて、そして実行しています・・・・・・とはいえ一番心惹かれるのは少女の背後にある、特別な秘密です。私は十歳の子供でしたので、たぶんそのおかげで、作者と少女の親密な秘密を覗き見ることが出来たのだろう、と思っています。いつか私もそこに描かれてはいないモノを描けるような絵師になりたい、そう願いました。しかし私に描けるはずもなく大人になった今では、むしろ何も見えなくなっちゃいましたが」

 若い女は気持ちよさそうに笑った。

 司会者がそれはなんですか? と問うたが「先生」は答えなかった。「十歳だった、私たちだけの秘密です」


 

 最後に参加者との質疑応答があり、私は失くしていたはずの「信念」を持って手を挙げ続けとうとうあてられた。多数の者が熱心に手を挙げている会場を、マイクを手にしたスタッフが舞台とやり取りしながら、後ろの壁際で立ち見している私に近づくと、舞台の若い女は頷いた。

 「このままお話しください」腰をかがめるスタッフからマイクを渡されたとき、今は亡き母親のサンダルで玄関を出たときのようにドキドキした。

 意を決し内側から見た玄関越しの自然光を忘れることのない私は、今再びここであの日の昼下がりの世界に出てみよう・・・・・・いやそうではないのかもしれない。深い穴の暗闇に怯える者など一人もいなかった(作者から愛されていたに違わない)無数の少女たちと共に消滅した電気信号の彼方から「ぼく」は私となり戻って来たのかもしれない・・・・・・だとすれば、とっくに生まれ変わり「夢」を叶えた穴の中の少女もこの世界のどこかにいることだろう。もちろん恐ろしく僅かな数だが・・・・・・


 「ぼくもさっきの絵を知っています。今の先生には見えなくなってしまったそれを当てたらイエスと言えますか?」

 「構いませんよ」有名らしい、私の知らない若い女は他人事みたく華奢な両肩をひょいと上げた。

 「翼です。どこかへ帰るための」

 勝負服を着た若い女は口を開けたまま、股まで開いて固まった。金盥に足をつけるシェリーの開き方そのものだった。

 「・・・・・・帰るためのモノであったことは知りませんでした」

 会場はどよめき、私の知らない若い女を知る人々は私を振り返った。

 「彼女の背中には今もあるのでしょうか?」若い女の勝気な目があっという間に潤んだ。


 俺は「お前」を見つけたような気がしてならない・・・・・・


 「心配したけど立派になっていて安心したよシェリー」

 会場は静まり返えるどころか失笑に溢れ、ヤジも飛んだ。


 オジサン、あんた酔っぱらってるのかい?



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