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河底の髑髏  作者: 三輪・キャナウェイ
6/12

6 ベガ

 木の洞の家は、思った以上に清潔だった。

 見回した限りではパイプベッドも、箪笥も、カーペットも、どれも足が折れていたり、破れていたりする粗悪な品ではあったが、それらの肌は丁寧に磨かれていて埃の欠片すらも引っ付いては居なかった。むしろそうして傷付いた品々にはそれぞれ丁寧に手製の修復が施されていて、家具の木肌のくぼみさえもえくぼか何かに見えるくらい、皆が幸せそうに沈黙を噛みしめているように感じた。

 私はヒッコを待つ間、それら一つ一つの傷跡にゆっくりと指の腹を這わせていった。つやつやして冷たく、聡明な老人の手の平のように頼もしい触り心地だった。

 ただ取っ手が二つとも竹に取り換えられている箪笥を開いた時、その内にいくつかの服があったことに驚いた。ヒッコの言葉では、ここには服などないと思っていたからだ。

 引き出しの中で綺麗に畳まれていた服を取り出す。赤薔薇柄のフランネルの単衣に、カシミヤのセーター、ツイードジャケット。他にも可愛らしい手編みのマフラーや手袋なんかも仕舞われていた。

 どれも冬服だ。そうわかるとヒッコの言葉にも納得がいった。あくまでも秋夜の今着られる服が、他にはないということだったのだろう。肌寒くはあるが、この箪笥の中で眠っている彼らを着れば汗ばんでしまうはずだ。

 私は服を畳み直して箪笥に仕舞うと、パイプベッドの上に体を放り投げた。

「暇だな」

 正直に言って、その一言に尽きた。木の洞の家には時計すらもなく、完全に時が凍り付いているみたいだった。ヒッコが出て行ってからどれくらい経っただろう。

「すぐに戻ってくるんじゃなかったの」

 彼女を恋しく思っていることに何の疑いもなかった。だからヒッコの言いつけ通りこの家から出ようとも思わなかったし、家の隅々を確かめながら彼女の帰りを待っていた。

 ただそれにしても遅すぎる。私は寝返りを打つと、よく洗濯されたカバーにくるまれた枕に顔を伏せた。すると仄かに彼女の香りがして、思わず瞼を閉じた。すると彼女におぶられていた時の温もりが皮膚の下に鮮明に蘇って来て、その余熱を逃がさないようにシーツを被り、自らの体を抱いた。

 そうしてじっと考えた。彼女のことと、自分のことだ。彼女はこの家に一人で住んでいるのだろうか。そして自分はどうして村の外に出たのだろうか。文字や言葉をいつ覚えたのかわからずとも使えるように、私の中にはこの世界の輪郭をなぞる知識は残っているようだった。村と銀川、髑髏拾い、永遠に秋の夜が続いていること。だがほかはさっぱりだ。胸に大きな穴が空いたみたいだった。

 ただ、不思議とその胸の虚しさには覚えがあるような気がした。というよりも、なんだか親しみのようなものさえも感じているのだ。淋しさとも、悲しさとも似て異なる虚しさという感情は、私の身体によく馴染んでいるような気がした。

 むしろその虚しさだけが、私という人間の全てを繰り広げて物語っているように思えた。その虚しさこそが私であるように思えた。どうにも形容しづらいが、私は記憶を失う前も、この虚しさに苛まれて生きていたような気がするんだ。

 まるで銃弾に胸を貫かれたみたいな、痛みを伴う虚しさだ。

 だから、そっと胸の前で両の拳を握りしめた。

「まだかな……」

 目じりが湿った気配がした。

 その時、突然扉を叩く音がした。

「ただいま。ベガ、起きてる?」

 私は思わずシーツをひっくり返しながら飛び起きて、扉に駈け寄った。

「起きてますよ。随分遅かったですね」

 言うと、彼女は笑った。

「あはは、ちょっと色々あってね。でも大丈夫。髑髏は村に届けたし、もう今日の仕事は終わりだから」

 そう言われて、私はすぐに麻で作られたズボンの右足製目隠しをポケットから取り出しながら言った。

「なら目隠しをしますので、入ってきてください」

「……ああ、いやいや、いいよ。まだ体調悪いでしょ? 安静にしなきゃ。今日は私外で暇潰しするし……村の人は、毎日寝ないといけないんでしょ?」

「どういうことですか?」

「どうもなにも、私たち髑髏拾いは不老不死だから寝る必要もないんだよ。だから遠慮しないで、ちゃんと休んで」

 私はその言葉を疑った。

「そう言われても……第一、ベッドがあるじゃないですか。匂いもついていますし、寝てはいなくとも、日頃はベッドを使っているのでは?」

 そう言うと、ヒッコは押し黙った。

「ヒッコ?」

「……いや、匂いが付いてるとか、そういうこと言う?」

「何かおかしいことでしたか?」

「へ? え、いやおかしくないの……? いや、村では当たり前なのか……? 都会だな……」

 ぶつぶつと何かを言うヒッコに私は言った。

「とにかく、入ってきてください。私は寂しいです」

 するとヒッコはしばらく考えるような間を置いてから、答えた。

「……ごめん、やっぱり中には入れない。まあそう寂しがらないでよ。私はずっと扉の前に居るからさ、なにかあったらすぐに呼んでくれればいいし、なんならこのままお喋りをしていてもいいんだし」

「……お喋り」

「そうそう、どんなことだっていいんだ。好きな食べ物とかさ、名前の由来とか、なんだか気になる事とか。他には……」

 饒舌そうに続けるヒッコに、私は尋ねた。

「何かあったんですか?」

「……え?」

「なんだか少し、様子がおかしいように感じます。もしかして村で私について何か言われましたか? 私がここにいるのは、ご迷惑でしょうか?」

「あ、ああ、いやそういうわけじゃないよ。第一私は髑髏を届けに行くだけで、村の人と顔を合わせたり、話したりすることはないんだ。だから心配しないで」

「なるほど」

 呟いて、私は手に握ったままの目隠しを頭に巻き付けた。ただそれは両眼を塞ぐんじゃなくて、右目だけを塞ぐ様に、斜めに括ったものだ。

 そして、私はドアノブを掴んだ。

「納得してくれた?」

 ほっと息を吐いたヒッコに対して、答える。

「ええ、話していても埒が明かないとわかりました」

「うんうん……は?」

 次の瞬間、私が掴んだドアノブを捻って扉を押そうとすると、向こうの方から慌てて扉を押さえつける力が作用した。ヒッコが咄嗟に扉を抑えたのだ。

「おいおいおい、何してんの!」

「何かあったんでしょう! そういうことは隠しててもわかるんです! 私はそういう隠し事とか気になるので、まずはしっかりと目を見て話しましょう!」

「いや、だから私を見たら目が焼けちゃうんだって!」

「それも本当かどうか確かめましょう。今私は片目だけ塞いでいるので、もし万が一焼けたとしても、片目で済みます!」

「いやいやいや、無鉄砲か! そういう問題じゃないでしょ!」

「そういう問題です!」

「なんで!」

「私を助けてくれた貴女が困っているのに、放っておけるわけないでしょう!」

 掴んだドアノブの抵抗が弱くなるのを感じる。銀色の取っ手は私の手の平の熱を吸ってすっかり温くなっている。元々随分年季が入ったものだから、あまり乱暴にしたら壊れてしまうかもしれないが、それでも私は強く扉を押した。それくらい強引にしないと、ヒッコとの間にある壁のようなものは突破できない気がした。

 なんだかヒッコは親切ではあるものの、不自然に私と距離を取ろうとしているようにも思える。それがいけすかない。

 私は、彼女と仲良くなりたいのに。

「声を聞けば、貴女が困惑しているとわかる。でも私には声を聞くことしかできない。それじゃ伝わるものも伝わらない。私の瞳が美しいと言ってくれた、美しい貴女の声が曇っているのを、どうして放っておけるんですか」

 扉が僅かに開いたために出来た、外へと続く隙間に向かって声を押し込む。

「貴女は私の瞳を美しいから、大切にしろと言ってくれた。なら私も、同じ様に美しい貴女を大切にしたい。さあ抵抗を止めてください。もし貴女を見て片目が焼けたとしても、目玉が爛れ落ちるまでの間、それがどんな苦痛だろうとも、私は貴女から目を逸らさない。貴女の姿を最期に目に焼き付けることが出来たなら、それこそ本望です。ヒッコ、私は貴女のことが知りたいんです」

 その瞬間、ヒッコは扉の向こうで観念したように叫んだ。

「わかったよ、話す、話すから! だから出てくるのは駄目! 本当に目が焼けちゃったらいけないし……ともかく、駄目なものは駄目なの!」

 それっきり、また扉が押し込まれ始める。腕力はヒッコの方が私よりもいくらか強いようだ。

 私は歯噛みをして文句を言った。

「なんでそんなに駄目なんですか!」

 すると、ヒッコはとうとう堪え切れないと言うように怒鳴り返してきた。

「恥ずかしいからに決まってんじゃんばか!」

「は?」

「だって私髪もぼさぼさだし、服もぼろぼろだし、人間となんて全然話したことないし、第一……その、ベ、ベガの裸見てるし、どういう顔して話せばいいかわかんないんだよ!」

 怒り慣れていないことが良くわかる、喉を締めて喚いているような、子供のような怒鳴り声だ。私は思わずびっくりして力を緩めた。すると扉は完全に閉じて、この問答での私の敗北が決定した。

「それはなんというか、そんなことで……?」

「そんなことじゃないでしょ。私他人と話すの十年ぶりなんだよ、十年ぶり! 正直ずっと緊張してるんだから。それに、本当に目が焼けちゃったらいけないでしょ。そりゃあ確かにさ、一回ベガはがっつり私のこと見て、今何ともないから疑う気持ちもわかるけど……万が一を考えたらやっぱり怖いよ」

 扉の向こうで、ヒッコが座る気配がした。それに伴って声の発生源が下がって、私もそれを追うように床に尻を下ろした。

「なら……少しずつ慣らしてみましょう」

「慣らす?」

「はい、確かにいきなりヒッコを直視するというのも、何かと危険な話ですし、ヒッコの嫌がることはしたくありません。なので、そうですね……私の目については例えば、指先だけとか、髪の毛の先を切り離したものとか、そういうものをまず見てみたり……ヒッコの服に関しては、私が箪笥の中にあるものを簡単に縫い直してみるのも良いかもしれません」

「え、お裁縫できるの?」

「ええ、箪笥の中には裁縫道具もありましたし、壊れている道具は都度代用品を用いれば問題ないでしょう。少し時間はかかるかもしれませんが」

「時間……あ、そうだ!」

「どうかしましたか?」

「時間って言えばさ、村の人間はちゃんとご飯食べないといけないんでしょ? ……お供え物だけじゃ足りないよね」

「お供え物?」

「私が髑髏を届けに行くと、いつも置いてあるんだ。食べ物とか、服とか、おもちゃとか……色々かな」

「今日も何かあったんですか?」

「うん。今日は煙草が二箱と、オイルライターと、ウイスキーと、キャラメルポップコーン」

「なんだか随分体に悪そうなものたちですね」

「あはは、でもまあ少しでも食べ物があってよかったよ。じゃあ渡すために扉少し開けるから……いきなり開かないでよ?」

「もうそんなことしませんよ」

 それから少し間があって、扉が僅かに開いた。すると隙間の向こうにキャラメルポップコーンが詰められたビニール袋が一つと、煙草の箱が一つと、オイルライターと、ウイスキーの瓶が寝かせて置いてあった。

 そしてその瓶の上には、一本だけ白い髪の毛が乗せられてあった。間違いない。ヒッコのものだ。

「どう? 目痛くない?」

 それらを受け取って扉を閉めた後、彼女が恐る恐る尋ねてきた。私は琥珀色の液体が揺れる瓶の腹の上からヒッコの髪の毛を摘まみ上げると、それを目の近くに持ってきたり、舐めたりしてみた。

「はい、これだけなら特に何とも。触れたり、見たり、舐めたりしても問題ないですね」

「な、舐め……舐めたの!?」

「いけませんか。詳しく試さないと意味がないと思ったんですが」

「あぁ……うん、そうだね」

 なんだか納得がいかない様子で頷いたヒッコは、気を入れ替えるように手を叩き、扉の向こうで立ち上がった。

「とりあえず、私は食べられるものを採ってくるよ。果物と飲み水には心当たりがあるんだ。ベガも無理はしないでね……って、そうだ」

 思い出したようにヒッコは言った。

「その、ベガは村に帰らなくていいの? ここにいるよりも、村に居た方が不自由しないんじゃない?」

 言われた瞬間、胸の中の所が恐ろしく疼いた。なんだか心臓の中に蟲でも湧いているようで、村というものへの拒絶反応が血液に混じり、全身を覆ってしまう。

「……村には、まだ帰りたくありません」

「そ、そっか! まあそういうことなら、もう少しここに居ればいいさ。別にここに居ること自体は掟破りじゃないはずだし……多分、きっと」

 そうしてヒッコはまた扉の前から去っていった。

 私は再び訪れた淋しさと虚しさに苛まれつつも、とりあえずキャラメルポップコーンを啄んだ。空腹というわけではなかったが、何かを食べて気を紛らわせたかったのだ。

 ただそれは思った以上に甘ったるく、舌の根が痺れるほどで、食器棚からグラスを取って来てウイスキーを注ぎ、一口だけ舐めて甘味を中和する。そんな風にちびちびと食事をしつつ、もう一組のお供え物である煙草とオイルライターを見下ろした。

 ウイスキーのつまみにしても、このキャラメルポップコーンを一度で食べきることは難しい。それなら煙草でも吸って、口の中をリセットしてみるのもいいかもしれない。

 そう思って甘ったるいキャラメルポップコーンを半分ほど残し、紙箱から煙草を一本取り出して咥えると、銀製のオイルライターを口元に持ってきた。

 そしておもむろに、何の警戒もなく、親指で蓋を弾いた。

 ぱちん、と音がした。

 その瞬間、脳内で火花が弾けるように、唐突に記憶が蘇った。


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