7話
今夜はいつもより霧が濃い。窓を開けて口笛を吹くと、その霧の中から一匹の猫が身軽に二階まで上がってくる。白と黒のまだらのこの猫とはもう二年半の付き合いになる。使い魔、というやつだ。私はビジネスパートナーだと思っているけれど。私の頼み事に対して、かわりに猫は寒い時期の寝床と餌を得る。
「エレナ様に届けてね」
人差し指の指先をちょんと猫の額に付けて、道順とエレナ様のイメージを猫に伝える。すりすりと指先に額を擦り付けてくるので、ついでに顎の下や耳の後ろを撫でてあげた。
手紙を首輪に付けてやると、にゃあと鳴いて猫は霧の中に消えていく。
時刻は真夜中と言っても良い頃だが、この猫の存在はラゼット家の兄妹も知っていて、特別な入り口を用意してもらっている。お二人が眠っていても専用の入り口から勝手に入るだろう。
でも、エレナ様は起きている気がする。
エレナ様は私からの報告を待っている。
行動力の権化みたいな人だけれど、人のことを考えられない人でもない。足手まといにならないだろうか、何ができるだろうかと考えているのではないだろうか。ライナス様の気持ちもきちんと汲んで、結論を出すだろう。
霧が冷たい。
世界は白く霞んでいて、視界は悪い。空を見上げてもただ、暗いだけだ。星どころか月すら見えない。あの真っ黒な空の上に星空が広がっているなんて嘘みたいだ。
昨日見た満天の星を思い出していると、トントン、とノックが聞こえた。
窓を閉めてはい、と返事をする。
「夜分にすみません」といつもの抑揚の無いリーゴさんの声がきこえた。ドアを開けるとカップを乗せたトレイを持って立っている。昼間とは違ってタイを外した少しラフな格好をしている。
「自分用にホットミルクを作ろうと思い廊下に出たら、灯りが漏れていましたのでついでにディアナさんの分も作ってきました」
「ありがとうございます」
まだ寝間着に着替えていなかったので、せっかく持ってきて貰ったのでどうぞと部屋の中に招き入れた。リーゴさんには椅子を勧めて、私はベッドの上に腰掛ける。
持ってきた物は着る物くらいだが、割り振られた部屋には机と椅子とベッドが最初から置かれていた。先代がこの家の主をしていた時は、それなりに使用人もいたそうで、その人のお下がりだそうだ。ミセス・パーカーが整えてくれたので、すぐにでも眠ることができる。至れり尽くせりとはこういうことだろう。
リーゴさんからカップを受け取る。甘い香りがした。
「熱いので気をつけてください」
少し前まで夜霧にあたっていたのでむしろありがたい。
甘い物好きのリーゴさんのことだから、と口をつけるとやっぱり甘すぎるくらい甘かった。お砂糖を何杯入れたのだろう? ほんのり、何か良い香りもする。
「ミセス・パーカーに教えてもらったラム酒入りです。よく眠れますよ」
もしかしたら、今日から枕が変わる私が眠れないかもしれない、なんて心配してくれたのだろうか。そんな気がして少し嬉しくなる。
「リーゴさんはずっと見てきたのですか?」
私が眠っている間もずっと。だいたい三百年くらいの時間を。
どんな風に過ごしてきた人なのか気になって聞いて見る。温かなミルクのカップを両手で抱えると冷えて固まっていた指先がじんわりと解けていく。そんな幸せを感じながら、端正だけれど、感情の表れない横顔を眺める。
「世界が荒れている間は引きこもってましたが……」
思い出すように、宙を見つめて淡々とリーゴさんが話し出す。
「魔法を使う者が居なくなって、誰も魔法を信じなくなってから帝都にやってきました。だいたい、二百年くらい前のことです。田舎では歳をとらない人間が居たら目立って仕方ないですから」
「確かにそうですね」
「帝都にはあちこちから人が流れてきて混沌としていますから、魑魅魍魎が紛れ込んでいても不審に思われません」
随分二枚目の魑魅魍魎がいたものだ。エリナ様の読んでいた小説の中には、かっこいい化け物も出てきた気がする。吸血鬼とか、狼男とか。ヒーローのような活躍をする人外の存在が。
「実は字の読み書きすら危うい状態で出てきたので、まず勉強しました。大人でも文盲は多いですから、教えてくれるような場所はありまして」
ちょっと驚いたけど、考えてみたら田舎で読み書きを教えるのは教会だから私たちのような人外は入りにくい。まだ魔女になる前に辛うじて読み書きくらいは教えてもらっていて良かったと思う。
世界の中でも栄華を誇るこの国の帝都でも、今も学校に通うことができずに働いている子はたくさんいる。五百年前に生まれたリーゴさんが字を知らなくても不思議はない。
「食堂の店員なんかもやった時は簡単な計算も覚えました」
「接客業をしているリーゴさんがあんまり思い浮かばないんですが……」
愛想笑いなんて絶対できなそうだけれど。
「記憶力はそれほど悪くないんです」
淡々と注文を聞き、黙々と料理を運んでくるその姿も見てみたかった気がする。とても気遣いは出来る人だから、案外人気の店員さんだったのかもしれない。笑わないけど、嫌な客に嫌な顔をすることもなさそうだ。
「せっかく魔法が使えるので、大道芸人の真似事をしたりしてお金を稼いだり」
表情を変えずに機械のように手品のフリをして魔法を繰り出すリーゴさんを想像してみる。案外この無表情さがウケるかもしれない。
「色々やってはみましたが、基本的には地味に目立たないように生活をしてある程度したら引っ越して、の繰り返しです」
「それが、どうして公爵家に?」
貴族の家に雇われる時には、それなりの身分証というか紹介状がいるはずだ。エレナ様に拾われて働いている私が言うのもおかしいが、リーゴさんの話を聞く限り彼には身元を証明するものはない。むしろ身元を知られるわけにはいかない。
「教会です」
「……教会?」
聞き返すと、リーゴさんが頷く。私は未だに怖くて足を踏み入れたことがない場所だ。
「魔道具を保管している教会があるという話をしたと思うのですが、その教会で会いました。ライナス様が留学なさる少し前です」
私が目覚める、少し前くらいだろうか。
「そこの司祭が私たちを引き合わせたのです。私が魔法の使い手だと見抜いてのことだと思います……公爵家を継ぐ気なら必要な人間だと言って。結果的にはありがたいことです」
「どんな方なのですか? その、司祭というのは」
リーゴさんが口を開き掛けて、しばらく思案した後閉じる。どう説明したら良いか分からない、といった感じだ。
「明日会うことになりますから」
その言葉に少し背筋がきゅっとした。教会か。あの災厄の根源ともなった存在だ。
「悪い人間じゃありません。ですが、面倒くさい人間です」
「はい……?」
首を傾げる私に、夜中に長居してしまってすみませんと謝罪してリーゴさんが立ち上がった。言われてみればそろそろ寝ないと明日が辛そうだ。
「また、明日。良い夢を」
礼儀正しく礼をするリーゴさんに「ホットミルク、ありがとうございました。嬉しかったです」と伝える。ほとんど変わらない表情が、それでも少し穏やかになったように見えた。