第7話 怪文書
木村の自宅に戻ったノマは、シャワーを浴び、浴槽に浸かった。
そういえば風呂に入るのは何日ぶりだろうか。火星で生活した数週間は数日に一度シャワーを浴びるだけだったし、宇宙ステーションで働いていたときもシャワーはあったが浴槽は無かった。
「ふうぅ~」
風呂がこんなにも心地の良いものだったとは。ノマは感動していた。人間の幸福というものは結局のところこんな小さな幸せの積み重ねなのかもしれないと思った。
石鹸の匂いも懐かしい。
幼女の体は面積が少ないために洗いやすかった。
「幼女も意外と悪くないものだな……」
浴室の鏡に全身を映してみた。大きな頭。イカのようなメリハリのない胴体。短い手足。しばらく眺めているうちにそれが自分の体であるという実感がだんだんと湧いてきた。
ノマが浴室を出ると、食卓で木村が新聞を読んでいた。
「いい風呂だったぞ」
とノマは言った。
「アヒルのおもちゃとかなくてゴメンね」
と木村。
「いらねえよそんなもん」
「え、そうなの? 子供ってああいうの好きなんじゃないの?」
「子供じゃねえから。まったく……外見でヒトを決めつけやがって」
「じゃあ、逆にボクの中身が幼女だっていう可能性もあるわけだよねえ」
「じゃあってなんだよ。もし木村の中に幼女が入ってるんだとしたら、その幼女はかなりカワイソウだな。ほとんど拷問みたいなもんだろそれ」
「ひどくない?」
「ひどくないぞ。それより、木村は新聞とか読むんだな」
「読むよ。新聞は情報源としてコストパフォーマンスがいいからね」
「そうかァ? ニュースなんてツ◯ッターで十分だろ」
「ツ◯ッターってなんだ?」
「あ、そうかこの時代にはまだ無いんだな……。SNSのひとつだ」
「SNS?」
「そうか、SNSの概念もこの時代には無いのか。インターネット上のコミュニケーションツールのひとつだ」
「〈2ちゃんねる〉みたいなものか?」
「違うけど……。でもまあ罵詈雑言が飛びかってるという意味では似てるかもな」
「ふーん。22年たってもインターネットの世界は変わらないんだな」
「うん。結局、人間の醜悪さは不変だってことだな。テクノロジーの進歩で人間という存在自体も高度になるのかと思ってたけど、そんなことは全然なかったな。むしろテクノロジーによって醜悪さが可視化されてさらにギスギスしたイヤな世の中になった」
「そうかあ。なんか長生きしたくなくなるような話だなあ」
「ああ。未来には希望はないぞ」
ノマと木村は、木村が買ってきたコンビニの弁当を食べた。
とくに珍しくもない普通のカラアゲ弁当だが、ノマにはとても美味しく感じた。
「ところで、ノマちゃんはどうして2001年に来たの? 2001年という年をわざわざ選んでタイムトラベルしてきたということは、2001年に重要な意味があるんだよね?」
木村はカラアゲをもしゃもしゃ咀嚼しながら尋ねた。
「それなんだが。――2020年に1冊の自費出版本が世に出たんだ。タイトルは『カタストロフィック・パンデミックの真実』。著者はA.I.――」
「興味深いねェ。A.I.というのはペンネームなのかな?」
「A.I.というとまっさきに思い浮かぶのは人工知能だけど……。たぶん著者が自分の名前を明かしたくなくてイニシャルにしたんじゃないかと思う」
「で、どんな内容なの?」
「私も読んだわけじゃないから内容を説明することはできないんだが……。この本は出版された当時はまったくというほど話題にならなかったのだけど、数ヶ月後にパンデミックが本格的に加速してきたときに人気のあるユーチューバーがこの本を話題にしてそれがキッカケでネットを中心にものすごい勢いで有名になったんだが――」
「ユーチューバーって? 婆さん?」
「あ。この時代にはYoutubeはまだ無いのか。まあ、インターネット上で動画を投稿する人たちのことだ。2023年にはテレビよりもネット動画のほうが社会的な影響力を持つようになってて、それを生業にしている者たちもたくさんいるんだ」
「ふーん、未来にはそんな職業が生まれるのかあ」
「――で、その本の中の一文が全世界で知られるようになったんだ。その一文というのは『2001年の7月、すべてはA県の襟猗村から始まった』というものなんだ」
「えっ。襟猗村って。ノマちゃんが……」
「そうだ。だから、私は襟猗村をタイムトラベルの目的地に選んだんだ」
「なるほど。そういうことだったのか……」
弁当を食べ終えた木村は煙草に火をつけた。
「後知恵でしかないが、今となってはその本を読んでおけばよかったと思う」
ノマはお茶をすすりながらそうつぶやいた。
「その本についてもう少し情報はないの?」
ノマは首を横に振った。
「今話した内容が私が持っている情報のすべてだ」
「A.I.という名の著者に会ってみたいな」
「手がかりは何も無いぞ。会うとして、どうやって探し出すつもりだ?」
「手がかりはあるさ。襟猗村とA.I.という名前。とっかかりとしては十分だよ」
木村は煙草を消しノマを見て、
「明日、襟猗村にもう一度行ってみよう」
と言った。
ノマは大きなあくびをした。
「ふああ……眠くなってきた」
「2階に空き部屋があるから使っていいよ。明日の朝は早いからしっかり寝ておいてね」
ノマは木村からあてがわれた空き部屋に入るとベッドに体を投げだし、すぐに眠気の底へと沈んでいった。なんだかんだ言っても幼女である。大人に比べて活動可能時間は短い。
木村がノマに貸したのは木村の妹が高校を卒業するまで使用していた部屋だった。木村には歳が20歳離れた妹がいた。妹は今では東京の会社に就職し一人暮らしをしていた。
ノマは木村の妹が使っていたベッドでスースーと寝息を立てて眠った。
その寝顔は年齢相応の幼女そのものだった。
〈つづく〉