第16話 神の限界
その日は、ノマと木村と亞月は藍の家に泊めてもらうことになった。
藍の母親が作ってくれた鍋料理を5人で食べた。
藍の父親は、夜になっても帰ってこなかった。藍によれば、肉丼店のシャッターを下ろしたあとに、農業試験場の人たちと飲みに行ったりすることが多く、朝まで帰ってこないこともしばしばだと言う。
ノマと木村と亞月は、藍の祖父が生前に使っていた部屋を寝室として提供された。8畳の和室で、きちんと掃除がされていた。大きな古い箪笥が目についた。
午後8時――。
亞月は風呂から出ると一足先に布団を敷いて眠りに入った。朝早くに東京から出てきたので疲れていたのだろう。すぐにいびきをかきはじめた。
ノマはまだ眠くないのか、古い箪笥を開けて中を物色したりしていた。箪笥の中に農業試験場の資料などが入っているかと期待していたがそういうものは皆無だった。古い双眼鏡や砂などが入った瓶が少々、大小の石や貝殻、何かの機械の部品、ラジオペンチやピンセットなどの工具類、ボロ布、その他よくわからないガラクタがたくさん……
木村は布団の上で小声でブツブツ言いながら手帳に文字や図などを書きこんでいた。考えをまとめている様子だった。
ノマが木村に話しかけた。
「……やっぱり藍が、A.I.なんだろうな」
木村がうなずいた。
「確証があるわけじゃないが、まず間違いないだろう。ノマちゃんが言っていた怪文書が世に出るのは2020年。藍ちゃんはそのときには35歳、か……」
「そうか、私よりも歳上なのか……」
「ははは、なんかヘンな感じだな。――たぶん、今の藍ちゃんに怪文書のことを訊いたとしてもきっと何も知らないだろう。未来に執筆するわけだから今の彼女がそれを知るわけはない。……おそらく、現時点よりも未来のどこかで藍ちゃんはパンデミックの原因になるウィルスの正体をつきとめ、それを1冊の本にまとめて自費出版する――」
「だけど、今日私たちが藍に会ったことで未来が変わる可能性もあるよな?」
「うん。この世界の藍ちゃんは怪文書を書かない可能性もある」
「うーん、ややこしいなあ」
ノマは髪の毛を掻きむしり、
「未来がどの程度変わるのかがわかる機械とかあるといいんだけどなあ……」
とつぶやいた。
「宇宙人だってそんな機械は造れないさ。前にも言ったけどバタフライ・エフェクトは量子の世界が絡んでいるから計算不可能なんだよ。たとえ神にだって計算不可能さ」
「神にできないことがあるのか?」
「全知全能の神なんていう言葉があるけど、あれは嘘っぱちで、神にだってできないことがたくさんある。たとえば、〈真円の四角形〉や〈真っ赤な純白〉を作ったりすることはできないんだ」
「真円の四角形……。イメージすることすらできんな」
「そう、イメージすることが不可能なものはそもそも存在することができないんだ。〈真円の四角形〉や〈真っ赤な純白〉は論理的な矛盾がある言葉だから、イメージすることも存在することも不可能なんだよ」
「逆に、イメージ可能なものは存在可能ってことになるのか?」
「理屈の上ではそういうことになる」
「じゃあ、たとえば光の速さの2倍で飛ぶ亀……なんていうのは存在可能か?」
「可能だろうね。論理的な矛盾は無いからね」
「光速の2倍というのは物理学的にはおかしいだろ」
「現代の物理学に照らしあわせると確かにおかしいけど、現代の物理学は宇宙の絶対的な真理を解明したとはとても言えない段階だからね……。今後100年のうちに光速を超える粒子などが発見されるかもしれない。なにしろ、100年前の人類は相対性理論も量子力学もまったく知らなかったのだから、今後100年の間にどんな発見がなされるかもまったく未知さ」
「なるほど……。確かに木村の言うとおりだな」
「宇宙人が仮に存在していたとしても彼らは地球に来ることはできないという科学者もいる。彼らがいる星から地球が遠すぎるからだというわけ。しかしこんなのは人間の感覚的な尺度で話をしているだけでまったく科学的ではない。アリが象を絶対に殺せないと考えているのと同じだ。宇宙人はすでに相対性理論と量子力学を統一した完全な理論を持っているかもしれない。そもそもなぜ3次元空間をわざわざ使って地球に来る必要があるのだろうか。より高次の空間にアクセスできる技術があれば、一瞬で――というよりも時間などにまったく影響されることなく――地球に来ることができるはずなんだ」
木村は穏やかな笑みを浮かべ、さらに続けた。
「人は、存在可能と実現可能をときどきごっちゃにしてしまう。資本主義に魂までのっとられた人間はとくにそうさ。金が無いからできない、時間が無いからできない、能力が無いからできない……と言うけれど、わずかなリソース不足のために物事の〈存在可能性〉まで無いことにしてしまうのは、愚かなことじゃないのかなってボクは思うよ。〈可能世界〉という考え方があるんだけど、それによれば可能性のあることはすべて存在しているんだ。ただ、そこに自分が行けないだけの話さ」
「木村って、やっぱりすごいヤツなんだな。私がまったく想像だにしないようなことを考えている」
「あれっ。ノマちゃん、ひょっとして、ボクのことがちょっと好きになってきちゃった?」
「バカっ。んなわけがあるか! ちょっと褒めるとすぐ調子に乗るよな、お前は!」
「そんなに顔を真赤にして怒らなくても……。カワイイなあ」
「うるさいうるさい!」
とノマは箪笥の引き出しに入っていた小さな〈何か〉を木村に投げつけた。
「痛ッ……ヒトにむかって物を投げるのは良くないよォ」
木村の額に当たって畳の上に落ちたそれは、チェスの駒だった。
木村はそれを手に取った。一見すると普通のチェスの駒だった。だが手触りに違和感があった。木村はしばらくその駒を指先で触っていた。
「どうした? 痛かったのか? そんなに力一杯投げていないぞ」
とノマ。
木村は黙ったままノマに駒を手渡した。
「チェスの駒、か……? にしては妙に軽い気がするが」
「材質も妙だ。木でもプラスチックでもない。アルミに似ているがわずかに弾力性がある」
「ああ、しかも少し暖かいぞ。こんな材質見たことがないな。……私はチェスとか将棋はやったことがないんだが、この駒はなんていう名前なんだ?」
「ポーンだ。ノマちゃん、そのポーンを持っておいて。何かに役立つときが来るかもしれない」
〈つづく〉




