その十字架に祈ること
真央お姉ちゃんの友達に良い印象などあるわけがなかった。中学生時代は姉も含めて友人も皆、ガラが悪かったからだ。
鋭く伸びた爪は魔女みたいだし、その色はまるで毒キノコ。ボサボサの金髪は根元が黒くてプリンみたい。何人も群がっているとファミリー向けセットだなと私は鼻で笑っていた。そんなことを考えていると知られれば姉がプッチンするであろうが。
ミッション系の女子校に合格した姉は見かけによらず勉強ができる。さほどの苦労をした様子も見せず、さも当然という態度で臨む合格発表は私の方がどきどきしたほどだ。
進学がきっかけだったのか、高校生になった真央お姉ちゃんは友達がかなり減ったようだった。ヤンキーのような外見は姉の高校にはそぐなわかったのだろう。
だから、梅雨真っ只中のこの季節、高校のクラスメイトだと名乗る女性が我が家を訪ねてきたことには素直に驚いている。
「真央ちゃんはいるかしら。今日お邪魔するって約束をしているのだけれど」
自らを千穂と名乗る女性は、私が知るお姉ちゃんの友達とはだいぶ雰囲気が違うように見えた。
切れ長の目にボブヘア。小雨にしっとりと濡れた黒髪は湿気を帯びて膨らんでいる。白いワンピースにレギンスといういで立ちで現れた彼女に、私は大人の女性を感じていた。姉と同い年とはとても思えないでいた。
中学までの真央お姉ちゃんの友達とは違う雰囲気に私がしどろもどろとしていると、彼女は優しく語りかけてくれた。
「もしかして、貴女は真央ちゃんの妹?」
「はい。紗奈といいます」
「やっぱりそうね! 話に聞いていた通りだからすぐにわかったわ」
どのように話されているものか。どうせ『女らしくない』だとか『バレーボール馬鹿』だとか『チビ中坊』だとかロクなことではないのだろう。考えれば考えるほど頭が痛くなってくる。
「お姉ちゃんは学校に忘れ物を取ってくるって言ってました。もうすぐ帰ってくるとは思いますが……連絡は来ていませんか?」
「あら本当。『妹がいるから部屋にあげてもらって』だって」
それならば私にも一報あるべきではないか、などと未だ釈然としていないがお客様を玄関で待たせるわけにもいくまい。私は千穂さんを姉の部屋に案内することとする。
そういえば姉の部屋など、最近では私もそうそう入ることが少なくなっていた。ドアを開けば、まるで人の家にお邪魔した時のような違和感を覚えるほどだった。落ち着かない匂いがするということもそれと共通している。
「それでは私はこれで。お姉ちゃんもすぐ帰ると思うので」
千穂さんは姉のベッドに座ると、当りを見回して、言った。
「真央ちゃんが帰ってくるまでお話ししましょうよ」
「まあ、かまいませんが……」
ちょいちょいと手招きされ、私は椅子を拝借して腰掛けるが『隣においで』と誘われて素直に従う。姉の部屋で姉の友人と隣り合って座る。それも二人きりでベッドの上で。どこか現実感のない時間であり、めまいがするようでもあった。
「紗奈ちゃんは中学生? 部活は何をやっているの?」
「はい、中学の三年生です。バレーボールをやっていましたがもうすぐ引退です」
「そうよね、受験生だものね。どこを受験するの? 私と真央と同じところ?」
「いえ、まだ具体的には。それに私はあまり頭が良くないので……」
「受験勉強はこれからでしょう? それに真央ちゃんの妹だもの、きっといくらでも伸びるわ」
千穂さんはわしゃわしゃと私の跳ねた癖毛を撫でながらそう言って、微笑んだ。人に頭を撫でられるなど、実に久しい感触でどこか気恥ずかしい。思わず身体をくねらせ抜け出し、慌てて話を振る。
「ミッション系の高校って普通の学校とどこが違うんですか?」
「うーん、私も他の高校に通ったことがないから正確なところはわからないけれど、ミサとかお祈りの時間があるところかしら。それと、やっぱりこれ」
千穂さんは鞄から小さな[[rb:十字架 > ロザリオ]]を取り出して私に見せた。
「これはおもちゃだけど、一つ一つ円環を手繰りながらお祈りに使うの」
「ロザリオって何だか格好いいですね」
「私もそう思う。どうかしら、よかったら紗奈ちゃんにあげるわ」
千穂さんは私の手に握り、ロザリオを手渡した。指先は細く、氷のように冷たくて少し驚いた。彼女の手にあった十字架も金属が冷気を帯びていたが、握っているうち徐々に熱を保つように感じる。
「どうして紗奈までここにいるのよ」
あきれたような、訝しむような声をかけられる。やはりというか、声の主は真央お姉ちゃんであった。帰宅していたようだが、千穂さんとのお話に夢中で気付けなかった。
「あんたはさっさと出てきなさい」
無理矢理に身体を押されて部屋から追い出されてしまう。出がけにちらりと振り返れば、千穂さんは柔和な笑みで手を振っていた。
自部屋に追いやられてベッドに横たわるが、私の意識は千穂さんに渡されたロザリオにあった。ロザリオを見ていると、お礼もちゃんと言えてないことに気付く。姉の帰宅のどさくさに紛れ、お礼もそぞろだったことは後悔してもしきれなかった。
銀色のロザリオを電灯に照らすと軽い光が反射して眩しい。確かにおもちゃらしく、所々が安っぽく見える。
姉の友人と接する機会は幾度かあった。だけど、千穂さんはその誰とも似ていなかった。とても大人びていて、とても優しくて。とても。
「綺麗な人だったな」
私は一体全体何を呟いているものか。急に恥ずかしくなって顔が熱を持つことを感じる。
でも仕方がないではないか。私の周りは運動部ばかりで髪も短く色黒な筋肉質な友人ばかり。あんなに柔らかそうで肌の白い女性を見ればこうもなろうというものだ。
しかしそれよりもせっかくもらったロザリオだ。使い方の一つも調べておこうかと、スマートフォンで検索を始めた。
しかし正直なところ、書いてあることの半分も理解はできていなかった。カトリック、プロテスタント、アヴェ・マリア。耳馴染みのない言葉ばかりで私の頭はショート寸前なのである。
理解に及ばず検索を止めようと思ったその時、ふと、ある検索予測が目に入った。ロザリオと共に姉の高校名が出てきたのだ。何の気なしに検索結果を表示すると、生徒の間で伝わる伝統のようなものが引っかかった。
曰く『互いの名を彫り込んだロザリオを贈り合った二人は生涯の関係を持つ』
この文面を目に入れて意味を理解した瞬間、私は胸の鼓動が人生で最も早く打つことを感じた。早鐘のようだ。それは共振を重ねた私の身体が大きく震えるようで。
千穂さんが私にロザリオをくれた意味とは何か。まさかとは思うが、期待が、邪推が、止まらない。
「ああ。今、千穂さんの隣にいる人間が私であればいいのに」
なぜ千穂さんは真央お姉ちゃんの友達なのだろうか。
ぐるぐると駆け回る思考はシャトルランよりもキリが無く、私の意識はゆっくりと微睡に沈んだ。
その後も千穂さんは私の家へとしばしば遊びに来るようになっていた。もちろんそのお相手は私ではなく姉なのだが。とはいえ顔を合わせることも少なくはなく、世間話が長引くこともままあった。しかしそれは、千穂さんの背後に聳える姉の視線をその身に受けながらの会話であり、実に緊張感を覚えるものであった。
ロザリオの使い方も手取り足取り教えてもらった。ベッドに腰掛け、背後から私の身体を包み込んでロザリオを一緒に手繰る千穂さんに、私はまるで聖母のような慈愛までも感じていたように思える。
不思議な香りに身を包まれ、柔らかい手を重ねられる。私はどうにもこそばゆく縮こまるが、千穂さんはそれも面白がってどんどん強く抱きしめてくるのだ。
自分で調べて分からなかったお祈りが、このような状態で理解できるはずもなく。結局私のお祈りはいつも自己流かつ邪心に満ちており、きっとご利益など決して望めないのだろうと思う。
私は宿題をしていた折、辞書を学校に置いてきてしまったことに気付いた。替えの辞書など持つはずもなく、スマートフォンで調べることも十分に可能であるのだが、学業に向かう時に触ることは憚られる。そのまま誘惑に負け、無為な時間を過ごしかねないからだ。
私は真央お姉ちゃんの辞書でも借りようと、姉の部屋を訪ねる。返事はなく、外出中のように思える。しかしかつては勝手知っていた姉の部屋、辞書を仕舞っている場所だってよく知っていた。黙って借りて、黙って返せばそれでいい。誰もいないことはわかるが、私は気配を殺して侵入と拝借を試みる。目的の辞書はすぐにみつかった。姉の机、上段右側である。
バレないうちに使って早々に戻そうと、立ち去ろうとしたその刹那、机上にロザリオが置かれていることに気が付いた。そして、それはこの時、文鎮であった。下に敷かれるは姉らしくもない可愛らしい便箋。そこに書かれるは文豪の如き達筆な文字群。姉は手紙を書きかけのようであった。
人の手紙を盗み見るなど極刑に処されても已むない忌むべき所業であることは知っているのだが、視界の端に捉えた「千穂へ」という単語に私の身体は自由を失っていた。見てはいけないという理性はもはや意味をなさず、手に取り、読んでいる自分がいた。
そこに記されていた内容とは例えるならば、少女が背伸びをしながら伝える恋の気持ちであった。
ロザリオに目を向ければ『CHIHO』という刻印を見つける。
そうだ。そういうことだ。この家に遊びに来るとはそういうことだ。私だってわかっていたはずだ。それなのにおもちゃのロザリオを貰っただけで舞い上がって。これでは道化ではないか。なんと滑稽なことか。
思わず手紙をくしゃくしゃに握りしめてしまいそうになるが、とどまる。荒い呼吸を抑えて元に戻した時と、インターホンが響いたのはほぼ同時だった。
姉はおらず、対応に向かった私の目の前に現れた来客とは千穂さんその人であった。彼女の目的は、尋ね人は。分かりきったこと。
「真央ちゃんはいる?」
私は俯いて首を左右に振って否定を示す。『まったくもう』と千穂さんは肩をすくめる。わざわざ家に呼んでおきながら本人がいないのだ。思い返せば私が千穂さんを初めて目にした時もそうであり、この無礼は一度や二度ではきいていない。
そんな、そんな真央お姉ちゃんなんて。
「千穂さんにふさわしくないです」
「え?」
「どうして? どうしてお姉ちゃんなんですか。真央お姉ちゃんはガサツで、冷めてて、乱暴で、ヤンキーで。千穂さんみたいな素敵な人にはふさわしくないです!」
千穂さんの顔は見れない。困っているだろうか、怒っているだろうか。でも一度堰を切った私の吐露は津波のように押し寄せている。
「私じゃあダメなんですか? 私にだってロザリオをくれたじゃないですか。私とお姉ちゃんの何が違うっていうんですか」
涙が雫になって玄関に落ちる。水分を得た砂は黒く変色し、ぐちゃぐちゃに散らばる。
「私は千穂さんがーー」
「沙奈。歯を食いしばって」
意識外からの新たな声。その主はもちろん私ではなく、千穂さんでもない。第三者の乱入に思わず顔を上げると、見慣れた大きな手のひら。姉の平手が私の頬を通過していくその瞬間であった。私はその場に崩れ落ちた。
「沙奈ちゃん、大丈夫?」
千穂さんが私に手を伸ばそうとしていたが姉によって遮られ、手を引かれて部屋に行ってしまった。
倒れたフローリングは硬く、妙に冷たい。叩かれた頬は言うに及ばず、肘や腿も痣になっているだろう。惨めな気持ちは収まらずこのまま床で眠ってしまいたい気持ちを抑え、私は自室へ向かいベッドに倒れ込んだ。
叩かれた頬が熱い。鉄の味を感じるということは、切れてしまっているかもしれない。
過去を振り返れば、真央お姉ちゃんに叩かれたのは初めてかもしれなかった。些細なことで数え切れないほど喧嘩をしてきたはずなのに。
「そっか。お姉ちゃんは優しかった」
姉は決して私に手をあげることが無かった。小さい頃にはご飯のおかずやお菓子を譲ってくれるのは日常だった。私が姉のものを欲しがると、いつも渋々ながら譲ってくれていた。
真央お姉ちゃんはとても優しくて自分のものを譲ってくれる。だけど、千穂さんだけは許せなかったということだ。
人のモノを欲しがってばかりの私はなんと醜い人間か。
恥も外聞もない感情の垂れ流しを千穂さんに聞かせてしまい、剰えはおよそパートナーである姉に平手打ちを喰らう。ああ、みっともない。まだ十五年ほどの人生であるが、ここまでの恥に塗れた経験は一度もない。胸がキリキリと締め付けられるような心持ちに、ベッドでジタバタともがくに至る。
ポケットから何かが足に刺さる。その原因に心当たりは大いにあった。取り出してみれば、それは千穂さんから貰ったロザリオである。
ロザリオを手にしたと同時に、スマートフォンに着信が入る。送り主は千穂さんであり、メッセージには『ごめんね』とだけ記されいた。
私も千穂さんたちと同じ高校にいければ、ロザリオを送り合うような人と出会えるのだろうか。今現在では学力が全くもって足りていないし、理由は邪すぎる。それでも挑戦をしてみよう。ロザリオを握りしめながら、そう思った。