5 心の壁と二人の教師
6月14日(木)
結城琴美は、まだ学校に来ない。十一日の月曜日に頭に怪我をした彼女は、病院で目覚めたあとに精密検査を受けた。
翌日は入院し、異常がないか確かめた、と聞いたが、特に問題なく水曜朝には退院した。頭の裂傷も、出血の割には大したことなかったとのこと。後遺症もなく、元気に歩いて自宅に帰ったと聞く。
昨日一日は休養、というのはまあわかるが、今日来てないのはどうしたものだろう。
担任の飛田先生に様子を訊いた。
「朝、母親から電話があったんですけど、まだ痛みが残ってるので……とのことでした。ただ、母親からの質問というか、逆に訊かれたことがあったんです」
……ピンときた。
「訊かれたって……神田先生に関連してませんか?」
単刀直入に確かめてみる。
「……なんでわかったんですか」
「いや、ちょっと今回のことで、結城と指導上のすれ違いがあったんじゃないかと」
「お母さんが言うには、本人が気にしてる様子だそうで。入院してからずいぶん静かになってしまって、ほとんど会話はないそうなんですが……ちらっと神田先生の名前が出て、気にしてるように見えたと。なので神田先生のことを訊きたい、と言われたんですよ。出勤してるのか、とか。今週はお休みしてる、とだけ伝えておきましたけど」
欠席続きは神田先生も同様だ。月曜は授業が終わってからいなくなったわけだが、その後、三日連続休暇はなかなかあることではない。普通なら、伝染病にでもかかったか、本格的に身体を壊したか、を疑い始めるタイミングだ。
たぶん、普通ではないのだ。
二学年で担任をもつ辰巳センセイとして、どうしたものか、と思う。このまま学年の生徒が、下手すると先生まで不登校になってしまっても、誰も幸せにならない。
ここまでの材料から、一つの考えがまとまりつつあった。しかし、その考えが正しいとすると、二人を放っておくことは得策ではない、とも思っていた。
「飛田先生、今日あたり、放課後、結城のところへお見舞いに行ってみませんか」
「辰巳先生、私と一緒に行っていただけるんですか?」
いつも元気な二組担任、飛田先生。
家庭訪問――やってみると結構時間と体力をとられる――に前向きなのはありがたい。
「ええ、ちょっと結城に立ち入ったことを訊きたいので、担任として同席いただけないかと」
「あー。担任が一緒にいない家庭訪問……不自然ですもんね。そうですよね。必要ですよね……ええ、もちろん……同席させていただきます」
なんか、飛田先生のトーンが微妙に落ちた気がするが、まあ、いい。
「主任の日向先生には、放課後、飛田先生と家庭訪問に行くと伝えておきます」
ホームルームが終わったらタイミングを見て、二人で結城家に乗り込むとしよう。
朝のSHRから、木曜は四コマ立て続けに授業が入っている。朝八時半のチャイムから先の半日は息つく暇がない。
テストも近い。まずは、日々の授業をきっちりこなしておかないといけない。
荷物をまとめて運ぶために用意した買い物カゴに、四クラス分――学年違いの授業もあるので、授業準備としては二種類――の教材を詰め込む。百六十人分の小テストに、プリント。板書案の資料に教科書一式。
大量の紙束と本で、カゴの重さは十キロ近い。プラスチックでできた取っ手がたわむ。
「さぁて、今日もいっちょ授業からいってきましょう」
職員室を出て、早足で階段を上る。
だんだん四階の教室が恨めしく感じるようになってきたのは、たぶん歳のせいだ。
◇
午前中、四コマの授業を終えて、昼休み。
俺は職員室に来るよう須藤を呼んでおいた。昼食を食べる時間がこうして潰れていく……が仕方がない。家庭訪問までに、もう少し情報を集めておきたい。
放送で名前を呼ぶと、他の生徒から勘ぐられる。
なので、担任を通じて、こっそり手紙で呼び出す。二学年担任の俺が一年四組の須藤を呼ぶ……少し不自然なので、担任には「神田先生がお休み中の、部活運営のことで話がある」とぼかした。
美術部と創作部はそもそも兼部している部員もいて関係が密なので、こういう形がスムーズだ。
今回については、他の先生方にできるだけ秘密のままにしておくのがベターと思われた。本来、職員間の秘密は良くない。しかし、今回の件は、周囲にバレると問題が無駄に大きくなる可能性が高い。
昼休みに入ってすぐ、須藤奈々が来た。
人目につかないよう、職員室奥の印刷ブースへ入れる。
「昨日はありがとう。お昼も食べなきゃだろうから、手短に済まそう。神田先生と君、というか君のご実家も含めての関係はわかったから、今日はその続きを訊きたい」
「続き……ですか?」
須藤はきょとん、としている。
「君が、最後に神田先生に会ったのは、いつだった?」
「……月曜に、会いましたけど」
「それは、授業中に?」
「いえ、放課後に……少し」
目に力が入った。警戒を強めたように見える。
「具体的に、君がひどく苛立ってる『原因』について訊きたいんだ――神田先生と最後に会ったその月曜日、何をした? 何を見た?」
昨日の須藤の説明を考えれば、婚約者なのだから、お休みの続く神田先生の体調なりを心配するのはわかる。だが「苛立つ」のはそれだけではおかしい。
「それは……」
きゅ、と須藤が口をつぐんだ。
「今まで、君が話に出していない人も、関係してるね?」
今度は、顔に、ぎくり、と動揺が文字になって貼り付いた。隠し事は下手らしい。
「君を責めようというつもりはないよ。このままじゃ、誰にとってもいいことがないんだ。あったことを、そのまま話してほしい」
まっすぐ、静かに瞳を見る。脅すような真似はしたくない。
「えと、あの……ちょっと、恥ずかしいので。先生だけの……ここだけの秘密にしてもらえませんか……」
「別に……犯罪の告白でも、自殺の計画でもないでしょ?」
昨日のネタに触れて、空気を和ませてみる。
「……」
こわばった彼女の頬が、少し緩んだ。
「えと、あの日、私、先生……神田先生、と……あの……」
言いにくそうだが、待つ。
「美術室で……その、キス…………しました……」
びっくりするほど彼女の顔が真っ赤になった。
――やはり、そういうことだったか。
「そのとき、美術室に誰か、こなかった?」
「はい……来ました。というより、ドアのところに人がいるのに、神田先生が気付いて……私はちらっと見えただけですけど……結城先輩、だと、思います」
結城は、見るべきではないもの、に遭遇した。だから――
「手に何かもってた?」
「スマホを、もってたと、思います。そして、神田先生が結城先輩の方へ行って、結城先輩が逃げて……そのまま二人とも、美術室を出てっちゃって……」
「君は、二人の後を追おうとは思わなかった?」
「はい……正直、入学したときから結城先輩、なんか怖くて……部でも実力は凄いですけど、私にばっかり冷たいんですよ。話しかけても、仲良くしてくれないし……私、なんかしたのかなって……だから、美術室で先生を待ってました」
結局、この子は美術室に取り残され、その後の事情はわからずじまいになった。
だから、苛立った。
結城はその後しばらくして救急車で運ばれ、神田先生も帰ってこなかった。
◇
午後4時過ぎ
飛田先生と学校を出て、結城の自宅へ向かう。タクシー代は出ないので、公共交通機関を乗り継ぐか、自転車で行くか、だ。
飛田先生がせっせと地図アプリで調べてくれた。こういうところ、ちゃっちゃっと手際がいい。私鉄でも行けるが、駅から結構歩く。バスを乗り継ぐのが一番早いらしい。
二ブロックほど離れた広めの道路でバスを降りて、飛田先生と連れだち、三分ほど歩いた。集合住宅の並ぶ一角。彼女は母子家庭で、母親との二人暮らし、と生徒資料にあった。アパートの郵便受けに結城、と書かれているのを確認し、チャイムを押した。
「はい」とインターフォンから、母親らしい声がした。
「すみません、高校で琴美さんの担任をしております飛田です。怪我の様子など、気になったものですから」
「……わざわざすみません。今、開けますのでお待ちください」
玄関の内側で、鍵を開ける音がする。中年の女性が顔を出した。
「どうも、琴美の母です。このたびは、ご心配をおかけしております」
家に上がった俺たちは彼女の部屋にそのまま通された。けれど結城琴美はベッドから出てくることはなく、飛田先生と二人で、半身を起こした彼女と向き合った。
しばしの沈黙の後、彼女は平坦な声で言った。
「……飛田先生、私、美術部やめます」
主に、担任である飛田先生の方へ話している。同学年の担任とはいえ、男の自分が寝室に入ることには抵抗あるだろう、と思ったが、結城は気にする様子もなかった。
「どうして? ……あんなに活躍してたのに」
飛田先生がそう言うのも当たり前だ。今の美術部に、彼女ほどの能力をもっている部員はいない。
「もう、絵を描くことに飽きたんで。理由はそれじゃダメですか」
「ダメってことはないけど……それ、本当にあなたの本心なの?」
「はい」
とりつく島もない。完全に、心を閉ざしている。
飛田先生に軽く目くばせして、交代する。
「結城さん、君、スマホを捜してたよね。あれ、どうなった?」
一瞬、目に強い動揺が見えた。明らかに反応している。
しかし、それもほんの一瞬で、彼女のポーカーフェイスに上書きされてしまった。
「違うところに置き忘れてただけなのを思い出しました。なので、捜すのをやめてもらったんです」
シナリオを読み上げるような、気持ちのない言葉。
「なあ、先生たちは、君を責めに来たつもりはない。だから、本当のことを話さないか」
「なんで嘘って思うんですか」
厳しい瞳でまっすぐに睨んでくる。はっとした表情になったと思うと、目が据わってさらに険しい顔になった。
「……先生、他の子からなんか聞いたんですか?」
語気を強めて訊いてくる。
――これじゃ、いけない。
「誰かがどうした、ってのはやめよう。君がどうしたか、何を知ってるかが訊きたいだけだ。スマホは、階段で転ぶ直前まで、もってたよね?」
沈黙。
結城がつばを飲み込む。
「……覚えてません。私は足を踏み外して、階段から落ちました。それで頭打って……病院行って……それだけです」
「結城さん……」
飛田先生が、辛そうな顔をしている。結城が本当のことを話していないのは、彼女にもわかっている。
「……もう帰ってください。来週になったら学校行きますから。これ、退部届です、神田先生に渡してください」
封筒を飛田先生に押しつけようとする。
飛田先生に向かって突き出されている封筒を、そっと手で押さえた。
「困ったな。その神田先生も、月曜の夕方から学校にいらっしゃってないんだよ」
「どうして……神田先生はお休みされているんですか」
「先生にも、わからない……思うんだけどさ、君も、神田先生も、にらめっこみたいじゃないか。相手が気になってるのに、動くに動けない。違うか?」
うつむいて、結城は黙った。
深く息をする音が聞こえる。
「…………今日は……今日は、帰ってもらえませんか」
絞り出すように言った結城は、泣いていた。
「今日は家庭訪問だから、何かを指導しにきたわけじゃない。これで帰るよ。ただ、心配だから、二つだけ約束してくれないか」
結城から返事はないが、聞いてくれているようなので、そのまま続ける。
「一つは、また話をしにくるから、そのときも必ず顔を見せてほしい、ということ。もう一つは、次に話をするときまで、絶対に自分を傷つけるような、早まったことはしないこと。約束できる?」
――こくん。
結城は小さかったが、確かにうなずいた。
今日はここまでだ。