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4 須藤奈々の事情

6月13日(水) 正午過ぎ


 神田先生は今日もお休みだった。


 三階の教室で四時間目の授業を終え、昼休みのチャイムを聞きながら廊下に出た。

 職員室へ戻る途中、第二校舎の西側階段を通りかかる。

 階段を四階まで上がると、美術室がある。山川が一人でいるだろうか。顔はあまり見たくないが、少し寄ってみようか、という気になった。休んでいる神田先生のことが気になる。それに、今自分がいる西側階段――結城が倒れていた階段――は美術室から一番近い場所にあるのだ。


 美術室まで来ると、生徒の集団が中から出てきた。片付けを終えて、ホームルームへ戻るのだろう。集団が大体外に出たタイミングで中に入る。


「失礼します」

「これはどうも、辰巳先生」

 山川だ。やっぱりというか、いて当然ではある。授業が終わったところなのだろう。


「神田先生がお休みしてますし、結城琴美といえば美術部、と思って、ちょっと寄ってみました。病院までつきそいましたし、やはり気になります」

「で、わざわざ四階に? 特に何もないと思うけど……」

 山川はこんなときも面倒そうに話す。


「……神田先生も困ったもんだよ。事務からは月曜から休暇って聞いたけど、昨日の朝、美術室に来たら、部屋のカギ開けっ放しでね。最近の若い人って抜けてるのかな……失礼。辰巳先生も若かったね」

「いえ」


 よく言うもんだ。授業の教材の仕込みから何から神田先生の世話になりっぱなしのくせに。若手に自分の仕事を押しつけて、恥じないベテランこそどうかと。

「じゃ、辰巳先生、この部屋出るとき、そこのカギで戸締まり頼むね。ちょっと急ぎで職員室に戻りたいから」

 山川はそう言うと、そそくさと出て行った。こちらとしては、それで構わない。


 美術室の中は整然と片付いている。前後の壁には生徒の優秀作品、教卓の脇には三年生の選択授業で取り組んでいる油絵が乾燥台にしまわれている。窓際の水場の周囲には新聞紙が敷き詰められ、水彩道具が並べられている。 


 一応、と思って床や机の中を一通り見る。結城のスマホがこんなところにあるとは思えなかったが、念のため。


 次は教壇に向かって、左側の壁にある準備室のドア。

 カードキーでロックを解除し、中に入った。


 予想通り、準備室の中も綺麗に片付いていた。

 几帳面な神田先生の管理だろう。

 実習系科目は、教室はもちろんのこと、準備室が特に散らかりやすい。座学中心の教科と違って、とにかく物が多いためだ。気を許すと、あっというまに教材やら作品の出来損ないやら、居残りで制作させた生徒の課題やら――でゴミゴミと溢れかえる。


 しかし、この学校の美術準備室に関しては、かなりマメに片付けている様子だ。ロッカーや棚に収まっていない物品がそもそも極めて少ない。ホコリもそれほどかぶっていない。


 外に出ている物品が少ないので、軽く見渡したあとはロッカーに向かう。準備室には金属でできた収納用の大型ロッカーが並んでいる。二台のロッカーの上の方に、小さなラベルが貼ってあり、山川と神田先生が一台ずつ使っているのがわかる。


 開けるのは、神田先生の方だ。

 鍵はかかっていない。

 鉄製の大きな扉を開けると、教材のスペア、これからの単元で使うらしい資料……いろいろぎっしり入っていたが、左側奥に、積み重なっているスケッチブックが目に付いた。


 最近、ここに積まれたものに見える。上に少し隙間を残しているところを見ると、まだこの上に重ねていけそうだ。

 ざっと十冊以上ある……真ん中あたりから一冊を抜き取り、中身を確認しようとした。

 スケッチブックの間には、異なった紙質の描画用紙が追加で何枚も挟まっていて、それがはらはらとこぼれてきた。慌てて拾い集める。すべて合わせると、相当な枚数になりそうだ。


スケッチブックのページを見て、さらに間に挟まった紙を広げて、驚いた。一枚も無駄にされることなく、びっしりと絵が描き込まれている。


 すべて、同じ作者によるものだった。



     ◇



午後4時30分 職員室


「辰巳先生、聞いてますか。結城さんなんですが、例のスマホの件、勘違いだったって。もう大丈夫って言ってるそうですよ」

「そうですか」

 職員室で山脇先生が話しかけてくる。以前は社会科準備室があったが、今はない。なので社会科の先生も職員室で、いつも隣に座っているようになった。


「……てことは、どっかにあった、ってことですか」

「いや、それが、病院で、あれは勘違いでした、と言いだしたそうです。お母さんも、自宅にもなかったのですが……と困惑してるそうで。電話口で対応した飛田先生に、お母さんが言うには『ありかを思い出した、というより、捜すのを突然やめたように見えた』と」

「妙なことも……あるもんですね」


 やはり、何かある。


 結城のことを考えながら、授業の日程を詰めるためにスケジュール表を画面に出した。そろそろ、授業も佳境。七月頭の期末テストまでの残り時間を計算し、締めくくらなくてはならない――クラスごとの進度、残り時間数を考えながら、簡単な予定表を組んでいく。

 十五分で、おおむね形になった。忘れずに、セーブ。


 と、職員室の入り口からひどくせわしないノックの音がする。

「失礼します」

 すぐ近くのドアが開いた。


「一年四組の須藤奈々です。神田先生、いらっしゃいますか?」

 また、神田先生か。

「神田先生はまだお休みされているよ。キミは、美術部かな」

「はい。今日は登校されてるのではと思ったんですが……失礼しました」 


 須藤はぺこりと頭を下げて、廊下に出ていったが、ドアを閉める動作もずいぶん苛立っている。

 ぴしゃり、と大きな音がした。


 ――お休み中の神田先生に、腹を立ててる?


 その日、学校にいる先生が、直接生徒から嫌われることはよくある……というより、なくてはおかしい。授業態度に生活態度、なんらかの問題行動があれば、注意するのは教師の大切な仕事だ。


 しかし、目の前にいない先生、がこんな風にあからさまに腹を立てられることはそうない。あるとすれば、前々からの約束を破ったか……個人的に、腹を立ててる事情があるか。 


 夕方、生徒が部活を終えて帰る少し前が良さそうだ。

 須藤奈々と話しに、今日はもう一度、美術室へ上がってみよう。



     ◇



午後4時50分。 


 俺は再び第二校舎の西階段を上り、美術室のドアを開ける。

 美術部で活動していた生徒が、一斉にこちらを向いた。


「こんにちは。失礼するよ」

「辰巳先生、どうしたんですか。こっちに円城センパイはいませんよ」

 俺に気付いた橘がすぐさま茶化してきた。……そうだった。橘は美術部(こつち)()()()を兼部してたんだっけ。


 美術部員の間に、ざわっ、と形容しがたい空気が流れる。円城咲耶の、美貌とキャラは、学校中に知られているのだ。『炎上姫』という別名まである。

 なぜ、炎上姫なのかは問うまでもない。

 やりたいことをし、言いたいことを言う。外見中身ともにオーバースペックな彼女は、どうしたって目立つ。堂々とした立ち居振る舞いで、保護者は地元の名士だとも聞いた。


 一年前、彼女を一層校内で有名にした事件があってから、どうのこうの言う輩が後を絶たない。特に、一部女子からは嫉妬まみれ呪詛まじりの視線で見られている。


「いや、そっちじゃなくて……一年の須藤さん、いるかな」

「はい……?」

 イーゼルの林の向こうから、須藤奈々の顔が覗いた。さっき職員室にきた生徒だ。

「なんでしょうか」

「……活動中にちょっと申し訳ないんだけどさ、少し、話できるかな」

「ここでですか?」


「職員室や相談室は一階で遠い。隣の準備室を使おう」

「山川先生、いるんじゃないですか?」

「いや、空いてるよ。ちょっと来て」

 準備室へのドアを開けながら、手招きした。


「あと、部員のみなさん、今日は五時で片付けて上がり、延長なしでお願いします。神田先生もいらっしゃらないしね」


 事務職員さんが、職員室にいた山川に、教材購入の書類を書かせ始めたのを見てから、ここまで上がってきた。

 なんでも神田先生に任せていた山川は、細やかな実務も苦手だ。俺は、書類が揃わなくて困っていた事務職員さんに「今なら職員室に山川先生いますよ」と一声かけただけだ。



 須藤奈々と二人、準備室の椅子にそれぞれ腰を下ろす。真正面から向き合うより、少し横。警戒心をほぐすには、そのほうがいい。

「ちょっと立ち入ったことを訊くけど、きみは神田先生がお休みしてる、って聞いたとき、ずいぶん怒っていた。なんか、気になることでもあるの?」

「……私のこと、神田先生から何か聞いてて、私を呼んだんですか?」

 いきなり質問で返ってきた。


 強い瞳。若さと無鉄砲さ、それに少々甘えっ子の印象だ。

「別に、特には聞いてないよ。ただ、神田先生は今日もお休みされている。それだけでも気になるさ」

 あえて、結城琴美には触れない。

「そんな言い方をするってことは、何か事情があるね?」


 須藤の瞳がすうっと締まる。

 いらだちと警戒の色が浮かんだ。


「……先生は、口は堅いですか」

「内容によるかな。報告義務のあるような内容を聞かされて、ヒミツで、と言われると困る。普通に個人的な内容なら秘密は守るよ」

「報告義務のある内容って?」

「そうだな。たとえば――犯罪の告白とか、自殺の計画とか」


 須藤は、あきれた、と言いたそうな目をする。

「……へんな先生ですね……でも、犯罪でも自殺でもないから言っちゃいます」

 ちょっと笑みが漏れた。


 一拍置く。


「……神田先生、私の婚約者なんです」

 須藤はにこにこと微笑んで、こちらの反応を窺っている。

「驚いたな」


 本音だ。神田先生はまだ二十五歳と若いが、須藤は今年誕生日が来てやっと十六歳。十歳年下の婚約者とは恐れ入る。

「あまり、人に言いふらすことではないのは知ってますけど、私がこの高校に入学したのも、神田先生がいるってわかってたからですし」


 話はずいぶんと前に遡るらしい。


 そもそも須藤の祖父は西洋画の世界では名の知られた大家で、現在も創作活動を続けているそうだ。また芸術家としての地位にとどまらず、私立の著名な美術大学の理事も務めている。父親も祖父の血を継いだのか、美術教師をしながら、自身も創作に打ち込んでいる。その教員生活の中で、学生時代の神田先生に出会った。

「父は、神田先生――当時は父の教え子でしたから『神田くん』と呼んでましたけど――とにかく嬉しそうにいつも話してました。『彼の才能は特別だ』って」


 美術大学に進み、専門的な教育を受けるには、費用がかかる。

 最初の経済的関門は、大学受験に必要な実技能力を付けるために、塾や予備校へ通うところから始まる。才能に加えて、積んだ練習の量が直接ものをいうのが美大の入試だ。


 しかし、当時神田先生の家庭は経済的に余裕がなく、専門的な美大対策をさせる費用の負担は難しかった。

「最初は、父もどうしたら神田先生が費用を工面できるか、と考えていたそうです。でも、どうしてもそれは厳しい、となって」

 須藤家の取った手はほとんど裏技、いや、反則といってもよかった。


 須藤の祖父が雇ったお手伝い、という名目で、神田先生は須藤家に通うことになった。実際にお手伝いじみたことも、一応はしたそうだ。


 しかし、本当の狙いは、神田先生に惚れ込んだ父――その頃には祖父も、だったそうだ――が、神田くんに徹底した教育を施すことだった。


 それは、美術界の大家と呼ばれた祖父と、男子に恵まれなかったその息子にとって、優秀な後継者作り、という打算もあったのではないかと思う。アルバイトの名目で神田先生を呼び寄せ、徹底した教育をし、お金さえ渡して生活や学費も間接的に面倒を見てしまった。


 優秀な才能を目にして、ただ放っておくことは、根っからの教師体質の人間には難しい、というのはわかる。

 だが……少々の打算的な考えも混じり、結果として須藤の実家は、家ぐるみで神田先生の才能に投資をした――のではないか。そこまでされた恩を、律儀な神田先生が感じていないはずはない。須藤家との出会いがなければ、きっと神田先生は芸術の道に進もうにも、大変な寄り道と苦労をさせられたはずだ。


 大学の次、就職を考える時期になった神田先生は、まずは自活できるように、と教員採用試験を受けた。

 試験に無事合格し、教師になる道を進み始めた神田先生だったが、春前に祖父と父から内々に婿入りの話が出て、神田先生も異を唱える様子はなく、それを受け入れた。祖父が勤める美大の籍に空きができ次第、そちらで勤務することまで予定されているのだという。


「最初に会った頃、神田先生は小学生だった私の、話し相手になってくれました。十歳年上でしたけど、神田のおにいちゃんが家に来る日は、いつも楽しみで……ずっとドキドキしてました」


 ――ドキドキしておにいちゃんを待った小学生は、こうしてそれなりに女性らしくなって、婚約者として職場に現れた。

 肩が凝るなこれは。


 須藤からの話を聞き終えたところで廊下に人の気配がした。

 ガラリと扉が開き、準備室に山川が帰ってきた。


「お疲れ様です。生徒相談に準備室、使わせてもらってました」

 山川は冷ややかな顔でこっちを見ている。事務仕事で足止めした本意を悟られたか。

「では、失礼します」


 ――ここは場を改めよう。俺は職員室へ戻ることにした。

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