3 神田先生の不穏な休暇
6月12日(火)
「エリス! ああもう可愛い! おねえさんがダメな豊太郎なんて忘れさせてあげるのに!」
……円城咲耶が不穏な発言をしているが、気にしてはいけない。
彼女は貪欲な「好きなものなら性別なんて関係ない」タイプである。
可憐な容姿の彼女が、紙の上に可憐な少女エリスを描く……さぞや優雅であったろう。
描かれた少女が服をちゃんと着てさえいれば。
「うふふふふ。可愛い。もっと恥ずかしい姿にしてあげる」
エリスは服をまともに着せてもらえていない(全裸ではないのがミソだ)。
円城によれば、はだけ乱れた着衣こそが素晴らしいのだという。
理解できなくはないが、教師として理解を示したら負けである。
見る間にエリスはより一層「ウェット」にされていく。この入魂モードに入ったら円城はしばらく止まらない。
「……おまえさ、ここ高校の部活動ってわかってる?」
「センセイは芸術とエロティシズムの関連について否定するのですか?」
「節度はあるべきだと思うぞ」
「汗をかくことが淫靡なんですか? じゃあ運動部はすべて淫靡ですね」
「その絵、水気は全部『汗』だというんだな。ほぅ」
「汗以外に見えるセンセイこそ、いかがわしけれ……恥を知ってください」
蔑むような色を見せた円城の目が、柔らかく溶け、フフッと鼻で笑う。
こいつは本当に高校二年生なのか?
激情に身をよじるエリスは、ほぼ鉛筆でラフが仕上がっている。
「ところでセンセイ、琴美は大丈夫だったんですか」
「……ん? 知り合いだったか?」
「ちょっと……一年生のとき、同じクラスでしたし」
「そうか。病院で順調に回復してるよ。詳しく話せと言われると困るが……」
エリスのラフにひと区切りつけた円城が手を止めて考え込む。
数拍のあと、声をひそめて言った。
「……琴美、最近元気なかったの、センセイ、気付いてました?」
「彼女、華々しくいろいろ入賞してたし……作品ばかり見てしまってたな。内面的なことは正直……なんかあれば教えてもらえると助かる」
円城との関係には少々事情がある。他の生徒とはこんな話し方はしない。一年前のある事件をきっかけに、他の生徒とは違う特殊な距離感が生まれた。
円城は、結城については何か含むところがあるように見える。
「恋愛や将来について……いろいろ悩んでた、と思うんです……けど」
「……けど?」
「ちょっと、私からは言いにくいところがあって……でも、琴美のこと、ちょっと心配で。実は、昨日から連絡も付かなくて」
「ああ……スマホを紛失してると聞いた」
「……そう、なんですか。でも、だとすると……」
円城の頭の中で、何かが結びついたように見える。
「その、今考えてること、教えてもらうわけにはいかないか?」
「えと。それは……琴美の事情にも踏み込むので……すみません」
「……わかった。どうしてもってときには力を貸してくれ。あと」
「……何か本当にいけないことになりそうなときは、ちゃんとセンセイに相談します」
頭を切り替えて部活の顧問をやることにする。
今日も創作部は全員出席で作品制作真っ最中だ。
「……で、円城はこのエリス、どこに出すんだ」
「部誌に載せていいというなら載せますよ」
「それ以外で」
職員室に戻り、煮詰まったコーヒーメーカーからマグに継ぎ足す。
画面には作成中の期末テストの問題が表示されている。まだ問題を仕上げるには早いが、空いた時間に少しずつでも進めておくと後が楽だ。ただでさえいつ急な仕事が増えるかわからない。舞姫の本文を教科書会社から購入した資料CDから取り込み、ワープロソフトに貼り付ける。
本文で出題に使いたい部分を探しながら傍線を引いていく。
――「今この処を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつつ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし」
舞姫の主人公、太田豊太郎は、ドイツの大学で学ぶうちに歴史や文学に傾倒してしまう。
それまでイエスマンだったゆえに上司から可愛がられていた彼は、次第に立場を悪化させていく。
そんななかで出会った貧民街の少女がエリスだ。劇場で踊り子をする彼女との出会いは、豊太郎の立場をさらに決定的に悪化させる。
寺門……まだ、教会という言葉が普及していなかった時代だ。ここでの「寺」はキリスト教会を指す。その扉の陰に隠れて、声を殺して泣く十六、七歳の少女。
助けてしまうわな、それは。
――我足音に驚かされてかへりみたる面、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。
一目見た瞬間、その視線に心の底まで射貫かれた豊太郎。詩人ではないから描けない、といいつつも、延々と彼女の美しさをしつこいまでに語っているところが面白い。
要は、一目惚れだ。
豊太郎は、電撃に打たれたような出会いで一目惚れをしてしまった。
問……「詩人の筆なければこれを写すべくもあらず」について、
「これ」は何を指しているか。簡潔に答えよ。
答……少女の顔の様子(美しさ)
つらつらと問題を作りながら、頭の半分で結城琴美のことを考える。
気になっていることがあった。
美術の神田優先生が今日欠勤していることだ。二十五歳と若いが、熱心な指導をしてくれる先生で、生徒からも信頼が厚い。
美術科にはベテラン教諭の山川もいるが、科の仕事を実質的に回しているのは、若手の神田先生だ。神田先生は美術部の副顧問を務めるが、実質は主顧問といっていい。部員たちも質問があったり指導を受けたいときは、山川より神田先生を頼っている。
先ほどから山川に敬称をつけていないのは、わざとである。
あまりに仕事しない教師に対して、先生、と呼ぶ気になれない。
我ながら、心が小さいとは思うが、面と向かっては「先生」をつけて呼んでやっているのだから許してもらいたい。
さて、その熱心な神田先生が今日に限って学校を休んでいる。職員室で他の先生方に訊くと、昨日の職員会議からすでに姿が見えなかったという。
事務室で少々聞き込んでみたところ、昨日午後三時以降について、神田先生の出勤データは休暇扱いになっていた。これが正しいなら、神田先生は六時間目の授業終了とほぼ同時に学校を出たことになる。
――結城に関係している?
テスト作りを進めながら、考える。
神田先生の休暇は、午後五時頃になって事務室へ電話連絡で申し出てきたものだという。普通、休暇を申請するなら前もって行う。
そもそも三時まで授業をしていた神田先生なら、そのまま職員室で申請して帰ればよいだけだ。よほどの急用でないかぎり、教頭や校長に一言もなく職場を離れることはない。
――休暇願を出すことができないほど緊急な事情があったか。
そもそも、休暇をとることを想定していなくて、後から仕方なく休暇にした、か。
どちらにしろ、神田先生の行動にはなにやら不穏な感じがある。