ある日の「舞姫」授業 一
「石炭をば 早や積み果てつ。中等室の卓のほとりは いと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎に ここに集ひ来る骨牌仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば……」
二年生の現代文。
題材は森鴎外の『舞姫』。朗読を任された生徒は単元序盤にしては文語調の読みにくい本文をスムーズにこなしていく。しっかり予習してきているのだろう。感心感心。
「スムーズな朗読ありがとう。この場面における主人公はまだ名前が明らかではない」
冒頭は、謎めいている。
「ただ、彼の言葉から、いくつかのことがわかる」
①彼は今、日本へ帰る途中の船にいる。
②五年前に日本から旅立つ途中、この同じ港、セイゴンへ立ち寄った。
③五年前ワクワクしていた自分が、今では深い「恨み」の感情に苦しんでいる。
「何が彼を変えてしまったのか、その事情をこれから話していく、というのが物語の導入になってるわけだ」
『舞姫』は、明治時代初期、国費でドイツ留学したエリート青年、豊太郎の物語である。彼は早くに父を亡くし、母のために没落した家を再興させるべく、努力を重ねた。
その結果、学校では常に首席。飛び級で大学を卒業するまでになった。
三年間の役所勤めの後、当時、莫大な費用のかかった国費留学生としてドイツに派遣されることになった。時代は明治新政府による国家建設の真っ最中。そのためにドイツの法学を勉強するよう託されたのである。
――かくて三年ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ。
ドイツに渡り、二十五歳までの三年間、真面目に法学を勉強した豊太郎だったが、次第に自分の嗜好に目覚め、歴史や文学に傾倒し始める。
勉学の道が逸れていくに加え、当時の現地では遊女と同様に見られていた劇場の踊り子、エリスと恋仲になって失脚。留学生の身分さえ失ってしまう。
自分の栄光をすべて諦めて、恋人エリスとの愛を取るか、と迫られるクライマックスは、純粋なドラマとして面白いし、愛、仕事、名誉、家族、友人――様々な視点から読むことで味わいの変わる深みがある。格調高い文体も素晴らしい。名作は伊達に百年残っているわけではない。
古文に慣れていない生徒には読みにくい作品なので、授業でやるのは……と敬遠する先生も多いが、俺は「読みにくい作品だからこそ、学生のうちにしっかり読んでほしい」と思う。読後、すっかりはまって「エリスかわいい!」「豊太郎は死んで詫びるしかないな!」「いや、エリスこそ重すぎじゃね」と語り合う生徒を見るのも楽しいのだ。
黒板をちょうどはじまで使い切ったところで導入部――豊太郎が成長し、ドイツに渡るまでの講義が終わった。
「今日はここまで。次回までにドイツへ着いて三年目までの部分を読み込んでおくこと。教科書の語注欄にある言葉は調べてノートに書いておくこと。日直さん、号令お願いします」
号令で授業を締める。同時に終業のチャイムが鳴る。
生徒に規則正しい生活をしろ、と言うのなら、まずは教師がしなきゃ誰も従わない……日向先生に言われたことだ。いつもピッタリというわけにはいかないが、できるだけそうなるようにしている。