2 生徒は人なり、教師も人なり
午後5時 第二校舎 西階段
結城の血まみれの顔は動く様子がない。まぶたも閉じられたままだ。
一応もう一度、脈拍と呼吸が安定していることを確認する。
異常がないことを確認したので、少し落ち着いて周囲を見回してみる。
階段で転んで……何段か落ちたのか?
彼女の足は三階方向、頭は踊り場の壁に向いている。階上から走ってきて、階段を踏み外した、と考えるのが自然な体勢か。右の上履きが脱げているのも、そのときの衝撃のせいか。
周囲の床、壁に他になにか……。
きょろきょろしてみると、彼女の身体から三十センチほど離れた場所に、指先大のうっすらと黒っぽいものが見えた。顔を近づけてよく見ると、硬質で光沢がある物体だ。
何かの破片?
指でつまみあげるには薄すぎるようなので、懐からビニールの小袋を出し、爪先でずらすように中へ入れた。ピアスなど、生徒が禁止されたものを校内で身に着けていた場合に、没収して預かるための袋だ。袋を天井の蛍光灯にすかすように観察すると、黒ずんだガラスの小片らしい。
……なんだ? この件に関係あるとも、無関係ともわからないが、学校の階段にガラスの欠片がそうそう落ちているというものでもない。周りの窓を見上げてみても、ヒビや割れのある窓はない。
ジャケットのポケットに小袋をしまった。
ようやく、階下からバタバタと多人数の足音が聞こえてきた。
結局、会議に遅刻した件はうやむやになった。
◇
結城琴美は、二年生ながら、美術部で最も多く賞を取っているエースだ。
色白の肌に、セミロングの黒髪。澄みとおる、事物の奥底まで射るような瞳。ほっそりとしなやかな、小柄な身体付きで、大きな賞状をかかえた写真。すっかり校内では生徒からも教師からも知られた存在だ。
昨年度、彼女が入学してから頭角を現すまで、あっという間だった。
小説や漫画を作るうちの創作部と、純粋に画力を磨く美術部は、不思議な協調体制、兼ライバル関係といえる繋がりがある。何人かは、両方を兼部してもいる。文化祭になれば、お互いの集客と展示のクオリティを気にして微妙な緊張も生まれる。創作部顧問として、美術部の彼女の作品は一通り見てきたが、彼女は作品を仕上げる度にメキメキと腕を上げていった。
美術部副顧問の神田先生によれば、高校生には、器用なばかりで小さくまとまりがちな、テクニック先行の「上手い子」が結構いるという。
でも、結城の凄さは、細かいテクニックではないのだそうだ。本質を捉えるセンスと、その情熱をたたきつけるような作品の描き方――これは美術の神田先生の受け売りだ――つまり、美術の専門家から見ると、つい育てたくなるポテンシャルを秘めた生徒、なのだという。
結城はあのあと、校内では意識が戻らなかった。
養護教諭の石崎先生の見立てでも、頭を打ったことで意識を失った可能性が高いとのことで、できるだけ動かさないよう、救急隊員の方に運び出してもらった。そのまま市内の病院に搬送され、二時間ほど経ってようやく目覚めた。最初に救急通報した者として同行したので、医者からある程度の所見を聞くこともできた。
頭を打ったときに側頭部に裂傷ができ、顔を赤く染めていた出血はそこからのものだった。出血量はそれなりにあったものの、幸い、意識や記憶に障害は見受けられない、とのことだった。目覚めた後、少しぼーっとしている様子はあったそうだが、これは時間が経てば回復していくだろう、と言われた。
他に傷として、左手首外側に小さな打ち身、右手首に軽い内出血が見つかったが、転落と関連しているのかは本人に訊いても、はっきりしないという。
ただ、学校に帰ってきた後、病院からの問い合わせで一つ気になることがあった。
結城が、スマートフォンが見当たらない、とひどく気にしているという。
「俺が見たときにも、周りに落ちてる様子はなかったんですがね」
そう石崎先生と話した。
◇
午後8時過ぎ
まだ半分以上の先生方が職員室に残っている。結城の意識が戻った、という情報はすでに他の先生方にも回っており、張り詰めていた空気が少し緩んでいる。
夜食に買っておいたパンをかじったり、コーヒーを飲みつつパソコンに向かったり、机で目を閉じて軽く休憩したり――職員会議に続いて結城の件でバタバタしたため、ちょっとお疲れモードな先生が目立つ。
俺は書類仕事をする気も起きず、ひさびさに教員用システムのメールボックスを開けた。前回いつ開けたか考えて、ここ半月は放置してたことに気付いて自分で驚く。自宅のPCではありえないことだ。
今勤務している学校では、顔を合わせて打ち合わせする業務が多いだけに、あまりメールは重用されない。というか、ただでさえ忙しいのにメールでやりとりしてると返信を待つタイムラグに縛られるし、タイプしている時間も惜しいと感じて、結局口頭で済ませてしまう。
仕事に使う文書のテンプレートなど、ファイルだけは共有サーバーに置き、口頭で「見といてね」と伝える文化が広まった結果、なんとなくメールを見ない教員が増えた。
結果、教育庁からの通知くらいしかメールが来ない → 役に立たないメールばかりなので忙しい現場がメールを放置、の「メール見なくていいじゃんスパイラル」が進行した。当然その中には俺も含まれる。
教育委員会からの「研修のお誘い」(よくこんなの行く暇あるな)だの、「懲戒のお知らせ」(体罰を加えた教師が減俸とか謹慎とか……)だの、緊急性のないメールばかりが並ぶ。
ざっくざっくと適当に斜め読みしていくなかに妙な通知があった。
■セクハラ防止の為、懲戒基準改定の件 教育委員会指導部(添付ファイル有)
わざわざ表計算ソフトで作った一覧表まで添付されている。内容を一言でいえば「教員のセクハラ行為が減らないから、処罰を重くすんぞコラ」ということだ。
「生徒および保護者との性行為、懲戒免職……ってなんですかこりゃあ」
「あれ、辰巳先生、それ今開いたんですか。二週間くらい前に来てましたよ」
隣の席の二年四組担任、社会科の山脇先生だ。一歳上で野球部の顧問。ガッチリした肩、丸い顎のラインが小熊のように見える。器用なキーボードさばきで課題作成を続けている。
「言いたいことはわかるけど、一律で懲戒免職って書かれると、無粋というか、こんな一覧作る教育委員会もよほど暇というか……ねぇ」
「ま、緊張感持たせたいってことなんでしょうね。妙な事件起こす教師もちょこちょこいますから」
ぶっちゃけるが、元教師と教え子の夫婦というのは、ひっそりと、しかしそれなりの数で実在している。建前としては卒業後に交際が始まって、そのままめでたくカップルになりました……ということに、なっている。
だが、そこはそれ、じゃないか?
じゃあ卒業前に、かんっぺきに、純粋に、教師と生徒だったのか? などと訊くのは野暮というものだろう。男女の仲がそんなに単純じゃないってことは、いまどき小学生だって知っている。
「辰巳先生も気をつけないと。姫とは、卒業してから交際してくださいね」
山脇先生がニヤニヤ顔で、ひそひそ言う。姫とは円城の別名だ。
職員室中に聞こえない声なだけ、創作部の橘よりは配慮があるが、半径三メートル程度には聞こえそうだ。少しドキリとした。
時にびしっと叱るアラフィフの学年主任、日向先生はとても頼りになるが、こういう話題を聞かれるのはなんか気まずい――幸い席を外している。
次に気になるのは、対面に座る二年二組担任の英語科、飛田先生――山脇先生と同い年で、ちょっとふっくらな女の先生だ。
彼女の眼鏡が、キラリと光ったように見えた。
「……かんべんしてください山脇先生。生徒相手は、さすがにありませんよ」
苦笑しながら、大きめの声で予防線を張る。
無粋な表組みをスクロールさせて、一応、下まで読んでおく。
――生徒、保護者の唇への接吻行為 懲戒免職
部活での円城を思い出し、ゾクゾクと背筋が寒くなる。
「この規定とか……生徒が知ったら逆に罠にはめられそうな気がするんですけど。大丈夫なんでしょうかね……」
小さな声で言ってみたが、山脇先生は課題作成に集中してしまったらしく、返事がない。
「辰巳センセ、生徒や保護者へはキスだけでクビになるのに、先生同士は何もないんですよ。職員室内で恋愛しなさいってことなんですかねー」
代わりに、いつもにこやかな飛田先生から斜め上なコメントが返ってきた。