1 血まみれ少女は開幕を告げる
「……先生! 誰か先生はいませんか!」
悲鳴のような声が聞こえた。
大会議室へ向かおうとしていた俺は、三階の廊下でぐるっと方向転換した。声は南にある第二校舎の方向からだ。渡り廊下を走り抜けて突き当たりの第二校舎へ入ると、声のする右手方向へ曲がった。
声の主は、第二校舎の西階段にいた。
両手を口に当てたまま、声を上げていた女生徒……その数メートル下、三階と二階の間の踊り場に人が倒れている。
すぐに俺が悲鳴を聞いて駆けつけられたのは幸運だった。他の先生方は、全員一階の大会議室に集結中である。誰も教員が近くにいなければ、発見と対応がさらに遅れていた。叫んでいる女生徒は踊り場から五段ほど上に立っているが、ショックで動けないらしい。大量の出血を見た彼女はどうしていいかわからなくなり、大声で教師に助けを求めたのだ。
踊り場で横倒しになった身体。
黒くて長い髪が横顔を隠しているが、制服から女生徒の誰かということだけはわかる。
階段を駆け下りて、彼女の横に腰を落とす。
「大丈夫か」
髪の間から、ほのみえる顔が血で汚れている。覗き込むと顔の左側半面がべっとりと血で濡れていた。凝固状態を見るに、まだ時間は経っていない。少し髪をどけて顔と首筋を見えるようにする。
顔に見覚えがあった。二年の結城琴美だ。今は二組――飛田先生のクラスだったか。
「結城さん、結城さん」
何度か呼びかける。傷によっては不用意に動かすと致命傷になる。まずは状況を把握しなくてはならない。毎年生徒につきあって避難訓練や救急訓練をしている教員は、こういうときの対応には慣れている。
「結城さん、意識があったら、返事をしなさい。声が聞こえますか?」
ぽんぽん、と開いた指で頬を叩きながら声を大きくしていく。
……返事はない。完全に気を失っている。
首筋に指をずらし、脈拍を確認。指先に、ぴくん、ぴくん、と脈動が伝わってきた……よかった。次に口元に指を近づけて呼吸の有無を確かめる。
幸い呼吸もしっかりしている。これなら心肺蘇生はしなくていい。
血は階段から落ちるときに頭を打った外傷の可能性が高い……傷口の様子も確かめたいが、状況がはっきりしない今は動かさないことを優先する。
「君は職員室……いや、会議室に行って、けが人がいることを伝えて。先生方は会議をしているけど、第二校舎、西階段三階、大至急保健の先生、って呼び出せば通じるから」
「……は、はい!」
女生徒がパタパタと上履きの音を立てて、一階へ降りていく。その背中を見ながら携帯電話を取り出し、119にダイヤル。救急車を手配した。
救急車は到着まで五分ほどかかるとのことで、俺は結城琴美と二人、踊り場に残された。
そもそも、なんで俺――辰巳祐司が、職員会議の真っ最中にあんなところを歩いていたのか?
話は、一時間半ほど前に遡る。
◇
6月11日(月) 午後3時20分 第二特別教室
――「センセイ、センセイ」
雨音をバックに、どこかで声がしている。
ゆさ。ゆさ。ゆさ。身体も揺れている。
でも、起きたくない。身体の芯が重い。自分の姿勢がのめっているのは自覚しているが、その体勢を変更したくない。机の上で組んだ腕。そのうえに横だおしにあずけていた顔。細身とはいえ百八十センチ近い身長に、生徒用の机は少々窮屈で、身体の節々に凝った感じがある。
「センセイ! センセイってば!」
ああ、うるさいな。今の俺には梅雨の『しとしと』が気持ちいいってのに。疲れた頭と身体にはどうして若い女の声って重いんだろう。
いや、違うな。一般的な話じゃない。
この若い女の声が重いんだ。
「センセぇ……寝てるセンセイが悪いんですからね? 私、悪くないですからね?」
……静寂。
うおぃ。なにしてる?
がばっ、と思い切り起き上がる。
上半身をまとめて持ち上げると、「きゃ」と小さい声がした。
前方下方向、二十センチに見慣れた顔。だんだん目の焦点が合って視界が徐々にクリアになる。その女生徒は顔にかかった前髪を右手の指先で軽くかき上げている。
ふわりとした微笑み。
「もう、せっかくおでこにキスしてあげようとしたのに……センセイ、突然起きないでください。ぶつかるところだったじゃないですか」
いけないことをした子供にする「めっ」の表情。
「……おい」
「今からでも寝たフリしてもいいですよ! ……ちゃんと、してあげますから。センセイのくせっ毛を、かきあげて」
彼女はそう言って微笑みながら、軽く首を傾げる。
上気した顔は、掛け値なしに美人だ。ゆるく巻いた豊かな髪と、クリっとした瞳。涼し気に切れた目尻のライン。口元の笑みはいたずらをする猫のように愛らしい――二年生の、円城咲耶である。
正面から見つめる黒くて深い瞳から視線が離せなくな……ったら立場上シャレにならないので、あせって少し目をそらす。
その間のほんの数瞬の沈黙に、左後ろ方向から別の声がかぶる。
「くっくっくっく。せんせーまで高校生に迫られて耳真っ赤とか! こんなとこで寝てると、そのうち本当に円城センパイに純潔奪われますよ? さっきからセンパイ、先生のまわりでいろいろ不審な行動してましたよ? ……まあ、おでこは相当妥協した結果みたいですけど」
一年の橘麻衣が神速でデッサンの手を動かしながら、けらけらと笑っている。
円城まで何やら真っ赤になってるが……。
「センパイ、最初は唇狙いから、ほっぺ、おでこって攻撃目標を変更してたんすよ……あとちょっとまで迫っては真っ赤になって作戦変更とか……もう超ラブリーっす……」
「……なんでばらすのよ……もー」
円城が、ぷしゅーっと空気が抜けたように小さくなっている。
麻衣はショートカットで小顔、円城とは対照的なスレンダーで、少年のような風貌が、ほどよく日焼けしている。女生徒なのだが……基本、口が悪い。まったくもって教員や先輩の沽券、立場に気遣いというものがない。
「……二人とも。大人の世界はいろいろ疲れるんだ。ちょっとは静かに休ませてくれ……」
……これは本当だ。
世の中で「公立高校の先生」というと「大変そう」と言われたり、「公務員で楽そう」と言われたり、まあいろいろ言われるが、実際のところは「仕事を頑張るほど、際限なく忙しくなる」というのが正しい。
一般の事務職などと違って、教育公務員にはやっただけ付く残業代がない。ほんのわずかの手当が上乗せされているが、多くの教員がこなしている残業の時間数から考えるとお話にならない。
この、労働時間と給料のアンバランスが西暦2018年現在、日本国における、厳然たる事実だ。
だからとにかくやる気のない教師は授業だけやろうとする。ひどいケースになると、校則違反も見ないフリしてスルー、なんて輩もいたりする。
ただ、そもそも給与で報いていないのだから、残業せずにさっさと帰る人を責めるのもおかしい話だ。放課後の補習も、週末の部活も、ほぼボランティアである。待遇のルールがこうなっている以上、熱心な先生ほど、仕事と給料のバランスはブラック化する。
真剣に取り組もうとすると、わかりやすい授業作りに補習、生活指導に進路指導に行事運営に部活指導、会議や根回しと、時間などいくらあっても足りなくなって、なぜか終電に乗ってたり週末がなくなったりするのだ。
……で、昨日の日曜日も、部活指導と教材準備で丸一日を学校で過ごした熱心な辰巳センセイ――俺のことだ――は月曜日の部活監督中に机で撃沈。
円城に唇? ほっぺ? ……おでこの純潔を奪われそうになったのだった。
気を許すと、眠気にもっていかれそうになるな、やばいな……と感じながら、そのまましばしうとうとしていた。正直、しっかり姿勢を正すところまで元気が出ない。自然に再び身体がのめっていってしまう。
「麻衣、もう邪魔しちゃダメだからね……ちょっとは応援してよ」
「……センパイがあんまりちょこまか可愛いからです……先生にはもったいないです」
女子中心の部活だけに、ほっておくとこの調子で賑々しい。
「……センセイの運命は前から決まってるの……あとは時間の問題なの」
「……うーん……何の話してるんだよ……」
「センセイ、ゆっくりお休みになってくださいね。後は、なんにも心配いりませんから」
円城の手(と思われるもの)がそっと右手に触れた。
身体にびくっと震えが走る。
「眠れなくなる。勘弁してくれ……あと少しだけ……で起きるから」
眠気に引き戻されそうになりながら、どこかでこのやりとりに安らぎを感じている自分がいる。
俺が顧問を務めるこの「創作部」は、第二特別教室を部室兼活動場所にしている。広々とした教室には三十セットの机と椅子。なんとなく落ち着く教室後方の一角、思い思いの位置に部員が座り、めいめい漫画やイラスト、小説といった作品作りに取り組んでいる。
文化祭にはまだ少し遠いこの時期から、創作部は恒例の「文化祭用の有償部誌」作成を開始する。学校からの貸付金を同人誌の印刷所にまとめて払い込み、百ページ超の部誌を刷り上げる。
印刷代を捻出するには、文化祭の二日間で百五十冊を売り切らなくてはならない。
創作部員にとっては、プライドと実力を賭けた、年に一度の大勝負なのだ。
気心の知れた部員たちしかいないこの空間にくると、つい気が緩んで疲れがどっと出てしまう。そもそも、カリカリした空気ばかり出していても創作は捗らないし……。
リズミカルに響く鉛筆やペンの音、ときおり聞こえる、お互いの作品を見せ合っての会話。窓の外のしとしとと続く雨音……耳から入ってくるそれぞれの音が渾然としている。
――今日、最低でもやっておかなきゃいけない仕事は、何が残ってたっけか……。
うつらうつらと考えていたつもりだった、のだが、周りを見回すと周囲に水がひたひたと迫っていた。椅子に座った姿勢の自分の身体は膝上まで水に浸かっている。膝、腰と上がってくる水面に身体が引き込まれていく。
「――祐司」
懐かしい声がする。
「祐司」
俺はその声の主の手を取るべく、焦って右手を伸ばす。だが、その手は声の主には届かず、水を掻くだけで何も掴めない……。
びくん。
手の筋肉に力を入れた刺激で目が覚めた。持ち上げた顔、その額にじとっとした汗の感触がある……また、か。
「……センセイ、大丈夫ですか?」
気遣わしげな円城の声がする。
……うなされているところを見られてしまっただろうか? 顔を合わせにくい。
「もう夕方五時前ですよ。今日の部活動の延長、OKってことでいいんですね?」
「はぁぁ?」
自分でも素っ頓狂とわかる声が出た。思い切り身体を起こす。
今度こそ、ばっちり目が覚めた。机につっぷしたのが午後三時半頃……まだ午後四時前くらいではないのか? 嘘だろ?
「一時間以上無防備に寝るとか、先生疲れすぎですよ。そのうち本当に死にますよ?」
橘がまたケラケラと笑いながら、状況を説明してくれた。
「げげげげ!」
やばい。二週間に一回の職員会議をすっとばした。
煮詰まっている会議に途中入室……しかも寝過ごして。胃が痛い。
急な発熱で早退したことにでもして、もうこのままばっくれようか……。
「……なあ、円城。俺は重要な生徒対応の件で手が取られていて、会議に出ることができなかったってのはどうだ。辰巳先生はどうしても今じゃないといけない大事な指導をしてた――ってことにならないかな」
「はい。喜んで。私とのキスが重要すぎて会議どころではなかった、ということにしますね」
にっこり。
俺の乾いた笑顔と、円城の天使の微笑み――合わせ鏡のごとし。
「……会議行ってくる」
はぁ。と一つ息をついて、立とうとすると、右手の中にイチゴのキャンディを二つ握っていることに気がついた……さっき右手に円城がしのばせたらしい。ありがとう、と言いながら一つをポケットに、一つを口に放り込んで、教室のドアに手をかけた。
口の中のイチゴ味に、あらためて現実に引き戻された気分になる。
懐かしい味の安心感。
「センセイ、これで私とキスしたと思ってくださいね」
ドアを開けたタイミングで、背後から円城に言われ振り返る。
「……?」
「そのキャンディ、今の私と同じ味です」
「……!」
形の良い唇の間、舌にのせたピンク色のキャンディを見せられた。水気に艶々と光る半透明の玉を見て、思わず黙ってしまう。橘が全力のニヤニヤ顔をしている。
返す言葉もないまま、ドアから廊下に出た。
会議室へ向かおう……と思って二十メートルばかり歩いたところで、第二校舎から悲鳴のような声がした。
まさか本当に「重要な生徒対応の件」に巻き込まれるとは思わなかった。