補講 姫とセンセイ
6月17日(日) 午前10時30分
ゆったりした日差し。
部活はお休み。
いろいろあった一週間。
職員室にいる先生も、今日は少ない。
家庭訪問やら何やらで、結局自分の仕事が滞ってしまった。
日曜だが、ぶらりと学校にきて、少し書類仕事だけでも片付けようかと思った。
「辰巳先生、日曜まで、お疲れ様です。先生も部活ですか?」
野球部顧問でもある山脇先生が、練習用ユニフォームを着込んで職員室にいた。先生こそ本当に、お疲れ様だ。
「いえ、今日は部活の予定はありませんが……」
「……あれ? ついさっき、姫の姿を見ましたけど。彼女、何しに来たのかな」
第二特別教室へ上がってみた。
ドアの鍵が開いている。
開けると、すうっと、風がぬけてきた。
いつもの席に円城がいる。机の上には、凜とした姿で立つ少女が描かれたスケッチブック。それと、イチゴキャンディの袋。
「どうしたんだ、日曜まで」
「センセイに、会えそうな気がしたから、って言ったら、信じます?」
「信じない、とは言わないけど、それだけじゃないだろ、と思う」
ころん、と円城の口からかすかな音がした。
「……ふふ。合格です」
「合格の副賞は?」
「……少し、お話ししませんか。今日は他の部員もいません。前みたいにおしゃべりしても、誰からも見られません」
目を細めて、微笑む。
二人で窓際の机にもたれる。
吹き抜ける風が心地よい。
机の上に置かれたスケッチブックに目をやった。少女の風貌、衣装から察するに――。
「これは……エリスかな?」
「はい……豊太郎がいなくなった後、それでも強く生きようとしたエリスを描きたくなって。違う世界の、もう一人のエリスです」
一連の事件の顛末を円城は知っている。
この絵はきっと、結城へのエールなのだろう。
「神田先生は、教育委員会からのセクハラの通知、読んでたんですよね?」
「え?」
「センセイも、読んでますよね? キスしたらクビ、って」
ころり。
「なんでその内容を……と言いたいけど、金曜の時点で、おまえ、知ってたよな」
だから、あんな話を俺にした。いくら円城姫でも、生徒があの通知を知ってたとは……。
タネ明かしは、シンプルだった。
「私の父、教育長なんです……おまえにセクハラする教師がいたら、即クビにしてやる、とか恥ずかしいこと言うタイプです。あの通知も、ノリノリで作ってました」
驚きでアゴが外れる、という表現を作った昔の漫画家に賛辞を送ろう――あまりの衝撃に、あんぐりと口が開いて言葉が出ない。
「円城の、お父さんが……きょういくちょう?」
教育委員会のボスを、教育長、と呼ぶ。地元の名士が、よく就任するポストだ。
「だから内容も知ってます。業務の文書を家族にバラす馬鹿父ですから。そして、そんな通知が、神田先生と琴美を追い詰めた……」
円城は目を伏せる。
「……ごめんなさい。今回のこと、私のせいなんです。センセイのことが好きって、父に話しちゃったから……それで神田先生と琴美が大変なことになって……」
円城の目がすっかりうるうるになっている。
「円城……」
「父のこと、センセイにバレたら嫌われちゃうかもって……だから、ちゃんと話せなくって……ほんとにごめんなさい」
消え入りそうな声。
円城は優しい。そして、幼くて脆い。
それは前から――そう、一年前から知っている。
「円城が気にすることはないさ。通知を書いたのはお父さんだ。それに、あれのおかげでセクハラが減って、逆に救われた子だってきっといる。善し悪しは簡単に決められない」
「……でも……」
斜め下を向いたままの円城。
少し膨らませた頬の中で、ころ、ころと音がする。
「おまえも結城を励まして、俺と話すように言ってくれたり……いろいろ気遣ってくれたろ……ありがとな。元気、出せ」
近づいて、頭にそっと手のひらを置いた。
ぽん。
そのままの姿勢で、ふた呼吸分。
円城の息づかいが、かすかに手に伝わってくる。
「……センセイ、ありがと」
柔らかな、ささやき声がした。ゆっくり上げた顔に、大きな黒目が潤んでいる。
彼女がそっと目を閉じ、世界から音が消えた。
――センセイ。これでクビでも……いいですか? 私は……
イチゴが香った。
カーテンが初夏の風を受けて、はたはたと舞った。
――舞姫の時間 了




