7 追加講義 「結城琴美」
6月16日(土)
「神田先生から、預かった。届けにきたよ」
結城の家を訪れた俺は、スマートフォンを差し出した。
結城は、何も言わずにうなずいて、画面の割れたそれを受け取った。
俺の手からこれが帰った――もう隠し事はしなくていい。
――追加講義を始めよう。
「君は、神田先生を困らせたかった? 先生が学校を辞めることになっても、いいって思った?」
「そんなはず、あるわけないです。先生がいたから、私、ここまでこれたんです。いっぱい感謝してます」
「でも、ただの先生と生徒ではなくなってた。君は、先生に恋をした」
――もう、バレちゃってるんですね――
強張っていた顔が、ふっと緩んだ。
本来の、結城琴美の顔に戻ってきた。
「……いっぱい先生と時間を過ごして、ずっと熱心に教えてくださって、一緒に賞をとって喜んでくださって……好きになるな、って、そんなの無理です……」
「先生と、スキンシップというか……そういうこと、あった?」
「誰にもヒミツですけど……」
そう前置きしている顔が、ほころんでいる。誰かに話したかったのだ。
「冬に一回だけ……キスしました。凄く寒くて、暖房が効かない日で……なんか、先生が近くて。どちらからともなくというか、自然にというか、そうなったんです。本当にそのときだけ――先生、ごめん、ごめん、ってすごく慌てて謝ってきて、それっきり……私はそれでも、幸せでした」
結城の中で、大切な思い出になりかけていた話。
「でも、春に須藤さんが入ってきたら、なんか先生、ずっと不自然な感じで。彼女が先生をおかしくしたんだ、って思いました」
ふんわりした二人の時間に、本物の婚約者が入学してきてしまった。きっと神田先生も戸惑った。
「そこはどっちもどっち、かな。須藤さんは、君をずいぶん怖がってた」
「……だって、あの子は……」
続きをどう言っていいのかわからないのだろう……結城が言葉に詰まる。
「……わかってるよ。そのスマホに、その、写真が入ってるんだよね」
「……」
神田先生と、須藤奈々が二人で写った写真。
「神田先生は君のスマホのパスは知ってたんじゃないかな。知らなくても、壊すことだってできた。でも、先生なりの誠意だろう。データは一切触ってないそうだ。今、セクハラの罰則が厳しくなってて、先生は生徒とのキスだけでもクビになり得る。だから、神田先生は写真が気になって仕方なかった。ただ今回のことを君が許せない、というなら、写真を公表されて罰を受けてもいい、と覚悟してる」
「……そんな、私、神田先生をそこまで困らせたいなんて……思ってないです。……そんな事情知りませんでした……本当に……」
「うん……君は、きっと先生を罰したかったわけじゃない。須藤さんの話ばかりして、写真を消してくれと言う先生に、腹が立った……ちゃんと、向き合ってほしかっただけ……違うかな?」
結城の目が、じわぁっと潤んでくる。
「……辰巳センセイはお見通し、なんですね。咲耶に言われた通り……もう、ヤだなぁ」
「そうじゃなかったら、君は本気でスマホとデータを取り戻そうとしたはずだ」
ぼろっと涙がこぼれた。
「須藤さんと、先生がどういう関係か、知ってるね?」
「婚約者、という説明を、あの日、神田先生から聞きました。それまでは、一年生のくせに神田先生を横取りした、ひどい後輩、って憎んでました。でも、先生がうちの学校に来る前からの婚約者って聞いて、私、頭がめちゃくちゃになりました。ひどいって。あんなに好きにさせておいて。キスしたのにって。ずっと騙されてたんだって」
結城は、深く息を吸った。しゃくりあげそうになるのを堪えている。
「でも、先生の話し方とか、態度とか……先生が守りたいのは、私じゃなかったって。私の方が邪魔だったんだって、理解というか、わかっちゃって……辰巳先生、この前授業で、『舞姫』やりましたよね。あれと、そっくりだって。私、エリスみたいだって。好きって言いながら、そばにいることで先生の邪魔してた……」
瞳から大粒の涙がどんどん溢れてくる。
「悔しくて、哀しくて。自分がいらないって思えて、もう迷惑かけたくないって……もう外出たくないって……」
「……つらかったね」
「……はい……はい…………」
結城はひとしきり、時間をかけて嗚咽した。
誰にも言えなかった気持ちを、きっと、やっと言えたんだ。
彼女がスマホ捜しをやめたのは、突き詰めたら神田先生に疑いがかかる、と気付いたからだ。神田先生が持っていることを彼女は当然推測した。だからこそ、神田先生を困らせないために、捜すのをやめた。彼女は恋を失ったことを悲しんだが、育ててくれた神田先生を本心から憎んだわけではなかった。
結城の呼吸が落ち着いてきた。話題を変える。
「さっきの『舞姫』なんだが、授業では話さなかった追加の講義があるんだ」
「……はい?」
「実は、作者の森鴎外もドイツへの留学をしていた。豊太郎は法学だったが、鴎外は医学。あの小説は、ディテールこそ変えてあるけど、大筋では鴎外自身をモデルにしている」
「……エリスも、実在したんですか」
やっぱりそこ、気になるよね。
「鴎外が勉強を終えて、日本に帰国したあと、ドイツ人のエリーゼという女性が、日本まで訪ねてきた記録が残っている。鴎外に会いたがって、何週間もかけて旅してきた。大変な行動力――きっと、愛情だね。心が壊れたエリスとは違って、しっかりした、聡明な女性だったようだ」
「じゃあ……」
小説の悲劇とは違う結末を期待したのか、声に明るさが混じる。
「しかし、鴎外の家は名家だ。親族のものが鴎外とエリーゼを会えないように引き離してしまった。結局、再会は叶わなかった」
「……そんなの……余計、かわいそうじゃないですか。ひどすぎます」――しょぼん。
「それがね、まだ続くんだ」
ここで終わるなら、追加講義なんてしない。
「エリーゼは手作りの額を鴎外に残して帰国した。鴎外は日本の女性と家庭を築いたけど、エリーゼからもらった額が捨てられることはなく、百年以上経った今でも現存している。それだけじゃない。鴎外とエリーゼは晩年まで、手紙のやりとりで交流を続けた。心ではずっと支え合っていたのかもしれない」
――伏せがちだった結城の顔が、上がった。
「そんな、人からは祝福してもらえなかった愛から『舞姫』という傑作が生まれた。作品の中で、エリスをとことん美しく描いてる、と授業で話したよね。そして、結末で豊太郎は加害者として、エリスを壊してしまう……自分が幸せにできなかったエリーゼへの愛と贖罪の思いを小説に残したかったんじゃないか。そうやって結晶になったのが『舞姫』なんじゃないかと、先生は思う」
――伝われ。
「目の前の人と、ただ抱き合えるだけが、意味のある恋じゃない。鴎外とエリーゼのように。師弟関係だって。友情だって。いろいろな形で人は繋がっていける。君にとって、神田先生と出会えたことは、決して無駄じゃなかった。それは、君という才能を育てることができた神田先生にとってもだ。だから――」
――だから、自分の存在を、いらないなんて、もう言うんじゃない。
しばしの間があった。
結城が、少し、笑顔を見せた。
「……大丈夫です。神田先生には、今でも感謝してます。学校にもどったら、しばらくギクシャクしちゃうかもしれませんけど、大丈夫です。きっとまた、絵を教えてもらって、もっと描けるようになって……それに……」
「それに……?」
「自分を大切に思ってくれる素敵な男性は、世界に一人じゃない、というか……なんかそんな気持ちになれたので……本当に、大丈夫です! はい」
彼女は、今度こそ、にっこり笑った。
ずいぶん、明るい笑顔で。
……なんだろう、この違和感は。と思った。
◇
6月18日(月)
一学期の期末テストまで、あと二週間。
どの科目の学習も、テスト範囲修了へ向けて収束しつつあった。
神田先生は登校を再開。校長には、高熱が出て、一人暮らしのアパートから動けなくなっていた、と説明したそうだ。
テストが近いので、創作部の活動もあと一週間ほどで停止となる。それまでの数日を有効に使うべく、部員は今日も頑張っていた。
「えっと、テスト前なんだが、新入部員がいるんで、紹介しておきます」
バラバラと座る部員の前、教壇に立って話し始めたところ、食い入るような、痛いような視線が飛んできた――炎上、ならぬ円城咲耶から。
俺の隣で、色白のほっそりした女生徒がペコリ、と頭を下げる。
「結城琴美です。美術部と兼部ですが、こちらの活動を通じて、より表現の幅を広げたいと思いました。よろしくお願いします」
「――はぁ?」
円城のツッコミ方に、遠慮がない。結城は、あくまで落ち着いた歩みでスタスタと進み――円城の隣にすとん、と座った。
「琴美、あんた、美術部で油くさい絵の具塗ってたんでしょ。なんで創作部くんの?」
「美術を志すものとして、魅力的な人に触れるのは勉強のうちです。咲耶、エロイラストのデッサン直してあげよっか?」
橘が、うわー、しゃれになってねぇーと、和ませたいのか、荒立てたいのかわからないコメントをしている。
「あの二人、小学校からの腐れ縁なんすよ。ずーっとあのノリでやりあいますよ」
まったく初耳なんだが。
部活が始まってからは快速なペンと鉛筆の音にまじり、ぶつぶつぶつぶつぶつぶつ――
「……あっちダメでこっちとか、サカったネコかしら」
「執着はもうやめるの。あっちはちょっとカタすぎかなって。売約済みだし……」
「ほんと惚れやすいよね。すぐハマって。またボロ泣きするつもり?」
「ボロ泣きはあなたかもよ? 私、欲しいものはもう遠慮しないから」
「……あたしのだけはやめなさいよ、恩知らず。取ったら、マジ許さねぇし……」
「こわいこわい。あたしのとか言って、どうせまだ何もしてないでしょ。お・姫・様」
「勝手にそう思ってなさいよ。私だってセンセイと……」
……
…
「とりあえず!」
顧問として、はっきり言わねば。
「……お願いだから、仲良くやってくれ。お願いだから」
円城と結城が、くふ――――っと、柔らかくて毒のある笑みを浮かべた。




