6 小さな歪み
6月15日(金)
変わらず結城琴美は休んでいるし、神田先生も休暇を申請している。
須藤奈々は苛立ったまま校内を歩いている。
放課後、創作部に顔を出した。休み時間に廊下で会ったとき、円城咲耶から、今日は寄ってほしい、と声をかけられたのだ。
第二特別教室のドアを開けると、おなじみの部員たちが、めいめい慣れた席に座り、創作に勤しんでいる。一年生の固まっているゾーンから、二年生ゾーン、三年生ゾーンと、一通りを見て回る……といっても、総勢十数人なので、あっという間だ。この時期になると、緊張していた一年生もそれなりに上級生と馴染んでくる。
一人一人の作品について小声で「いいところ」を褒める。そして、直すとよりよくなる点も、一点だけ、指摘する。これは、部員それぞれの現在の創作力から考えて、ほんの少し、高いハードルを求める。ほんの一言でも、その作品へのこだわりが認められると、それだけで創作は力が入るものだと思う。
室内をゆっくり、ぐるりと一周。
それから円城の席の横にかがむ。
円城の前には、書きかけの漫画原稿があった。鉛筆によるネームの段階らしいが、既に完成品が見える程度に書き込まれている。どう見ても、男性二人が絡み合ってるように見えるのだが……。
「で、今日のコレはなんだ?」
「辰巳センセイが教授してくださった舞姫を、独自に解釈して芸術に昇華しています」
「俺の目には、男性が男性を口説いているように見えるんだが」
痩せ型の男の顎を指先で引き上げ、唇を重ねようとしているがっしりした男。
何をどうしたら舞姫が男性同士の恋愛になる?
「自分のことを決められない豊太郎と、彼を導いて逃げ場をなくしていくドSの相沢――もうカップリングするしかないです」
「いやいやいや。そういう作品じゃないから」
円城の感性に付き合っていると、こちらまで軸がズレそうだ。
「でも、センセイ、いつも想像力が大切だ、とおっしゃってますよね」
「ああ。その世界に入っていかないと、作品の鑑賞は薄くなるものだ」
じゃあ想像してみてください、と円城は前置きした。
「相沢は東京にいながら、ドイツで失脚した豊太郎の面倒をみただけでなく、直接会いにきた。大臣のもとで働くようになったあとは、日本に帰ってもこうして一緒に、と言って……最後にはエリスを、精神的に殺して排除した……」
「……その通りだ」
作品理解としては、満点である。
「すべては、豊太郎のため……そこまで深くつながった二人が、二十日以上かけて、船旅で、日本へ戻ってくる」
円城が、にんまり、と笑う。何を頭の中で想像しているのか。
「しかし、豊太郎の心には、相沢への『恨み』が彫り込まれているぞ」
作品の品位を保つため、こちらも応戦する。
「だからこそ、です」
円城はふふん、と笑う。
「豊太郎は相沢に、どうしてあそこまで、エリスを破壊しなきゃいけなかったんだ!と問い質すでしょう。すると――相沢は涙を浮かべて、どうして、わからないんだ!と。豊太郎のアゴをぐいっと引き上げ……」
――冒涜だぁ……。
「豊太郎、キミをただ救いたかった。キミを救えるなら、僕は憎まれたっていい。悪魔にだってなれる――そしてたくましい腕で豊太郎の……!」
円城の目が爛々と危うい光を放っている――しばらく放置することにした。
……それにしても、一定のつじつまを備えているところが恐ろしい。
森鴎外が聞いたらどう思うことか。
円城の×××な妄想が一段落したところで、切り出す。
「その……カップリング? が適正かどうかはちょっと脇に置いて、だ」
ここから声を潜める。
「……顔を出すように言ったのは、結城の件か?」
円城の目が、前を見据えて、本来の落ち着いた色に戻る。考え深げな、澄んだ色。
「センセイ、琴美のところに家庭訪問、行ったそうですね」
「どこから聞いた?」
「……琴美とは、PCでもやりとりできるので」
「そうか」
「また、行くつもりですか」
「学校に来られないままじゃ、よくないからな」
円城が考え込むような顔をして、しばし黙る。
「……センセイ……私、本当は琴美に」
目が合った。
「……すみません。何でも……ないです」
言葉に詰まって、また黙って前を向いてしまった。何かを伝えようとする彼女と、それを畏れる彼女がいるように見える。
しばらく、円城は考え深げな表情のまま動かない。
――どうした?
横から、円城の顔の様子を窺おうと距離を詰めた。
―― !
円城が、突然こちらに顔を向け、そのまま急接近してきた。
とっさに全身で後ろにのけぞる。
彼女の唇が、俺の唇に……触れた? いや、かわした、はず……。
どんがらがん。後ろの机を倒しながら、思い切り転んだ。
頭を引き上げると、部員たちが驚いた顔で一斉にこちらを見ている。
一番近くにいる円城がこちらの顔を覗き込むように見て、軽く首を傾げた。
「……センセイ、何してるんですか?」
「何してるって……おまえ、今……その……」
――キスしようとしただろ!
言葉にするのが怖いのだ、と自覚した。
バレたらクビ、のプレッシャーで「キス」という言葉まで無意識に忌避している。
円城が俺にだけ聞き取れる位に抑えた声で続けた。
「キスなんて、私たちにとって、そこまで大事じゃないですよ? 女の子同士よくしますし。センセイって大人なのに、そんなにウブなんですか?」
女の子同士うんぬん、が一般的かどうかは別にして、円城の言わんとすることはなんとなくわかる。
――キス一つが、大事になってしまっているのは、こっちだ。
「琴美の問題って、神田先生との関係ですよね」
「……ああ」
もう円城はわかっている。隠す意味はない。
「……琴美は知らなくても、神田先生は先生だから知ってるってこと、ないですか?」
「ん?」
「きっと二人の間には、認識の違いがあったんです」
それだけお伝えしておいた方がいいかと思って、と円城は締めくくった。
部員たちの様子を、もう一周、見て回った。
この時期にしては、作品の取り組みペースは早めだ。今年は毎晩延長で地獄の夏休み、とまではならずに済むだろうか……。
そろそろ職員室へ戻ろう、そう思って、第二特別教室のドアへ向かった。
「先生」――呼びかける声がした。
振り向くと、円城が目の前に立っている。
「……くれぐれも、琴美をよろしくお願いします」
まだ不安げな瞳。それをこちらにまっすぐ向けて、頭を下げた――信頼されているのだ、と気付いた。
こっちの問題も、いよいよ大詰めだ。
◇
夜8時40分
静かな住宅地を進み、俺は神田先生のアパートまでやってきた。
呼び鈴のボタンを押すと、小さくピンポーン、と聞こえた。家の中で鳴っている。
一度では反応がなかった。しばらくあけて、二度目を鳴らす。覗き窓からこちらの姿がよく見えるよう、ドアの正面に立つ。
ドアの向こうに、かすかに気配がした。
「神田先生、辰巳です。結城のスマートフォン、預かりにきました」
察しの悪い人ではない。これだけで、意図は伝わるはずだ。
アパートのドアが静かに開いた。すかさず、声をかける。
「大体の事情はわかってるつもりです」
「……すみません」
神田先生が、そっと、押し頂くようにスマートフォンを差し出す。
画面がヒビ割れている。
「……すみません。結城の怪我に、スマホに……ものすごくご迷惑おかけしてるのはわかってます。でも、もうどうしたらいいのかわからなくなって……」
そっと受け取って、静かに話しかける。
「少し、話しませんか」
神田先生の部屋は、殺風景だった。
寝起きと炊事に必要な家具と、絵を描くための道具と、描きかけ、描き損じの作品たち。あとは、小さなCDコンポが隅にある程度。
「神田先生、最初は結城にデータを消してくれるよう、頼んだんですよね」
「あの日、美術室で奈々……一年の須藤といるとき、結城が写真を撮っていることに気付きました。だから、結城に頼みました。写真を消してくれ、と」
「写真の内容は……須藤……さん、とのスキンシップだった」
「……はい。もう話は……聞かれてますよね。美術室で……須藤に抱きつかれて、キスをせがまれました。まさか、結城が見ているとは思わなくて……つい……」
出会って十年。今は正真正銘の婚約関係――家族同然に思っているのだろう。じゃれつきたくなる須藤の気持ちは理解できる。
「でも、彼女は写真を消してくれなかった。きっと先生に、説明を求めた」
「はい。須藤と婚約してることを話しました。そのうえでまたお願いしたけど、消してもらえなかった」
「先生は彼女のデータを消させるために、手を掴んで、取り上げようとした」
――よほど強く握ったのだろう。それが右手首の内出血になった。
「はい。でも彼女は左手にスマホをもったまま、私の手を振りほどいて、飛び降りるように階段を降りました。私はそれを追って……」
神田先生は写真を消させることに必死で、結城の気持ちを慮る余裕がなかった。きっと、結城が聞きたかったのは、須藤との婚約の話などではない。
「神田先生に追われて三階から二階へ降りる途中、結城は階段を踏み外した」
「……はい」
「彼女は、左手のスマホをかばうように転び、気を失った――神田先生、あなたはそこで彼女のスマホを盗んでしまった」
――スマホをかばって床に打ち付けた左手首。
ガラス片は、そのときに割れた画面だ。
「倒れた結城を見て、介抱こそ、まずやるべきだとは、わかっていました。だけど、スマホを盗った私には……そこに別の生徒がやってきて怖くなり、隠れました。辰巳先生が結城を介抱してくださったこと……本当に、感謝してます……ありがとうございました」
確かめてみれば、単純な話だった。
「神田先生、あなたは生徒思いの、熱心な先生です。そのあなたが、結城の介抱より、写真のデータを優先して、スマホを盗んだのは……」
神田先生は、本当に苦しそうな表情をしている。
自分を恥じているのだ。
「自分の問題だけなら、迷わず結城を助けたと思います。でも、キスの写真、あれが表に出たら……婚約も、美大の話も……須藤家のみなさんや、奈々の顔にも泥をぬることになる……それを考えたらもう、怖くなって……」
昨日の円城の言葉。
――きっと二人の間には、認識の違いがあったんです――
「神田先生……先生は、あのセクハラ処分の通知を、気にしたんですね」
教育委員会からの、セクハラ処分の基準改定の通知。キスだけで「懲戒免職」になるとあった。
「……半月前くらいに通知を見て、本当に冷や汗が出ました。奈々からは今までもときどきスキンシップをねだられることがありました。でも、学校でそれをして、表沙汰になったら……全部を失いかねない……」
脅しは、神田先生に効き過ぎなほど、効いてしまった。
俺は正直、くだらない通知と思った。バカバカしい脅しと。
でも、一度役所が出した通知は、公務員にはそれなりの力をもつ。
一人の誠実な若手教師の判断を、ほんのちょっと、歪めるくらいには。
神田先生はがっくりと肩を落とし、部屋の隅を見つめたままだ。
生徒とのキスに、スマホの窃盗……処分を受けるつもりで、覚悟をしてるのか。表沙汰になれば、規定どおりの「お裁き」が好きな教育委員会によって、本当に「懲戒免職」にされるかもしれない。
――アホらしい。
誰も幸せにならないルールなんて、糞食らえだ。
こんな話、どこにもっていこうとも思わない……ここから先は、本人たち次第でいい。
しかし、彼には言っておくべきことがある。
「神田先生、あなたは一つ、見落としてます」
「見落とし、ですか?」
「結城琴美の気持ちです」
神田先生が、少し意外そうな表情をした。
「彼女は、本当にあなたを困らせたくて――キスの写真であなたを破滅させたくて、消すことを拒んだと思いますか?」
美術準備室で、神田先生が管理していた大型ロッカーを調べたとき、大量の習作が見つかった。スケッチブックに、各種の描画用紙、練習用のカンバス。すべて結城のものだった。その多くに、丁寧な添削をした跡が残っていた。結城の腕前は枚数を経るごとに上達していた。
「独学で、あんな上達が不可能なことは、俺でもわかります。あなたが結城に徹底して指導をしてあげたから、彼女はあそこまでになった。結城は母子家庭で、経済的に恵まれてない。でも、あの子のポテンシャルを神田先生は引き出して、美術の道に進めるようにしてあげたかったのではないですか。あなたが学生時代に、須藤家の人たちから助けられたように――」
神田先生の顔がしわくちゃに歪んだ。
「彼女が腕をあげた理由は、才能だけじゃない。毎日居残って努力して、あなたはそれに立ち会い続けた。だから、彼女の大量の習作が、あなたのところにあった。そこまで濃密な時間を過ごした師弟の感情が、いつしか恋の形になった……これは、悪意や罪の問題ではなくて……ありふれた恋の話です」




