ある日の「舞姫」授業 四
舞姫も大詰めが近い。
「貧しいながらもエリスとの家庭的な生活は一年以上続いた。そして、クライマックスとなる明治二十一年の冬。エリスの体調不良が続き、悪阻、つまり妊娠のせいでは、と母親が言い出す」
――嗚呼、さらぬだに覚束なきは我身の行末なるに、若し真なりせばいかにせまし。
「自分の将来も危ういのに、もし真なら、つまり、本当に妊娠なら、どうしたらいいんだ――自分で作っておいて、これも大概だよな。こういうところ、豊太郎はホント覚悟がない。そこに、新聞社の仕事を世話してくれた友人、相沢からの手紙が届く」
物語は、ここが大きなターニングポイントになる。ここからは相沢が、豊太郎を立ち直らせようと直接介入してくるからだ。
――昨夜ここに着せられし天方大臣に附きてわれも来たり。
「手紙の文面は『昨夜、日本の政治家である天方大臣の外遊に同行してドイツまで来た。大臣が君に会いたがっているから、ホテルまで急いで来い』という内容だ」
二人の稼ぎでギリギリの生活。見えない将来。妊娠したかもしれないエリス……彼女は踊り子なのだから、妊娠が本当なら収入もなくなる。そこに舞い込んだ、一国の大臣に会えるチャンス。
「この後の場面は、舞姫の中でも先生が一番好きな場面だ。エリスは体調がすぐれないまま、一番白いシャツを選び、しまっておいた正装を豊太郎に着せ、ネクタイを結んでくれる。少しでも立派な姿に、と愛情を込めて。そして、着替えの終わった豊太郎を見たエリスの振る舞い……現代語で見てみよう」
Ⅰ 「これで、見苦しいなんて誰も言えないでしょう。どうして、そんなにつまらなそうなお顔をするの? 私も一緒に行きたいのに」
最初は、明らかにエリスもはしゃいでいる。楽しそうだ。ところが……
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Ⅱ 少し、表情を変えて
「こんなに着るものが変わると、なんとなく、私の豊太郎さんじゃないみたい」
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Ⅲ また少し、考えて
「もし富貴になる日がきても、私を見捨てないで。病気が、母の言う通りでなくても」
「エリスは立派な格好になった豊太郎を見て、嬉しくてはしゃいだ。しかし、豊太郎という人間は、そもそも超のつくエリートだ。ここしばらく、貧しい生活をしているが、正装に戻ると、それが似合ってしまう。だから、立派な豊太郎を見るうちに、遠い、エリートの世界に彼が帰ってしまう不安がエリスの中に広がってくる。最後はその不安に負けてエリスは『見捨てないで』と口に出して言ってしまう。『病気が、母の言う通りでなくても』は『悪阻(=妊娠)じゃなくても』という意味だ――お金もちで偉くなっても、お腹に赤ちゃんがいなくても見捨てないで……こんなセリフ、どんな笑顔で言うのかと想像すると……言わずにいられなかったエリスが、哀しいと思わないか」
エリスの母親も一流ホテルに乗り付けるために豪華な馬車を呼んでいて、大きなチャンスを予感している。何も感じてないのは、豊太郎だけ、という場面である。
「豊太郎は、不安そうなエリスに言う――何が金持ちさ。大臣なんて会いたくもない。長年会えてない友に会うだけさ……おまえは! ってドツキたくなるくらいニブい」
男子生徒が「ダメだこいつ」と豊太郎にツッコミを入れているが、本当に豊太郎は肝心なところで鈍感で、優柔不断なのだ。
この後、豊太郎はカイゼルホオフ――大理石貼りの一流ホテル――で大臣に会い、書類の翻訳を依頼される。そして、相沢と二人でランチを摂る。クビになった豊太郎を責めない相沢だが、食事の最後に踏み込んでくる。
――学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかかづらひて、目的なき生活をなすべき。
「相沢は、本当に豊太郎を大切な友人、と考えている。しかし、その考え方は『豊太郎のような優秀な人間は、栄光ある人生を歩み、世の中の役に立つべき』という固い信念と結びついている」
豊太郎に「友人だからと君のスキャンダルをかばっても、お互い損しかない」ときっぱり言い放ち、その代わり「仕事で大臣に実力を見せるのが最良だ」とアドバイスをくれる。豊太郎の力を信頼していなければ、こんなことは言えない。
さらにエリスについては「惰性から生まれた関係でしかない。断て」と即断する。
「相沢は世の中から評価されない豊太郎の現状を、不当だと思って全力で引き上げようとする。どこまでもブレない」
豊太郎は、相沢の押しの強さに負けて、彼の指示を一応ではあるが承諾してしまう。相沢と別れたあと、豊太郎は「余は心の中に一種の寒さを覚えき」と、エリスを裏切った罪を感じる。
「こうして、物語は悲劇に向けて走り出す……号令、お願いします」




