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十話「胃薬は常備しましょう」



 全・鍛埜雄志が泣いた瞬間だった。

 感動……まあ、確かに感動したな。含意(ニュアンス)としては間違っていない。いや、この際の正誤はどうでも良いのである。命の危機が迫っている。

 俺としては、校舎裏で連絡先を交換しなかった事こそ、一番の失着だったな。この展開を予想しなかった俺が悪い。あの時、森の問題を素直に解かなかった俺が……悪いのか?いいや、俺は矜持(プライド)を貫いただけだ!間違っちゃいない!

 いや、居残りしたのも含め、これは恐らく杜撰に物事を処していた俺に対する天罰だ。


 結論を言おう――我が校が誇る美少女トップ2が俺の眼前で正対している。しかも、この難事の発端は恐らく俺だ。

 逃げ場が無い……助けて、謎の同居人さん!いや駄目だ、あの人の有効範囲は家の中だけだった!活動領域は広くても、直接助けてくれる事はしない。

 カフェで険悪だったから、出来る限り俺と夏蓮さんが一ヶ所に居る事は避けたかった。いや、春が心配して教室を訪ねる、これについて失念していた。存外仲良かったのね、俺達!


 背後から肩を摑まれ、振り返ると中野が口許から涎を滂沱と迸らせていた。斯様に醜い生物を、俺は今まで見た事がない。

 下卑た食欲に分泌された体液が床に滴り落ちる。おい、制服が汚れるからやめろ。


「おい、鍛埜……選り取り見取りだな……!」


「俺は梓ちゃん一択だ」


 二人は黙って見詰め合っている。

 夏蓮さんは戸惑い気味であり、春に関しては冷然とした表情。ほら、二人とも笑って、じゃないと俺の胃が爛れちゃう。

 トップクラスの美少女が二人揃う、幻想的な景色の筈が修羅場じみた緊迫感を催す。

 室内で談笑していたリア充どもが事情を知らずとも凍り付いている。良い気味だぜ、君達の畏怖する顔が俺の胃薬だ!


 春は正面から視線を外し、俺の机の上に腰を下ろした。……ねえ、課題が出来ないよ。別にやりたくもないけど、これでは帰れないよ。

 しかし、軽口を叩く余地がある生易しい状況でも無いため、俺は固く口を閉ざした。いつもの冗談かました途端に殺される。

 俺の顔を見た後に、春の指が鋭く額を指で打つ。痛いっ、デコピンの威力じゃない、軽く踵下ろし並みなんだけど。何で俺の周囲には腕力が凄まじい女ばかりなんだ(代表例は梓)。


「生徒会室でずっと待った」


「課題を出されてしまいまして」


「謝罪は?」


「お詫びに世界を半分やろう」


「…………」


「ごめんなさい」


 無言の圧力って凄いよな。

 五時限目に手を振ってた可愛い子は何処に行ったのやら。もし居るなら出ておいで、大丈夫、怖くないよ。だから帰って来い、大至急。

 全身が縮み上がりそうな俺の隣では、もはや課題など無視して二人の顔に合掌して頭を垂れる中野。祈るな、助けろ。


 中野を除く全員が萎縮している間、春は机の上から降りて俺の課題を眺める。不意に夏蓮さんから提供して貰った参考のノートに目を留めると、それを取り上げて閉じた。

 筆跡から誰の所有物かを判別したのか、夏蓮さんへと躊躇いなく返す。無言で返却された彼女は、理解できず受け取った後も呆然としていた。

 いや、それ必要なんだが。夏蓮さんの優しさ無下にするのか。


「雄志、勉強を怠っているでしょ」


「き、帰宅部なんて……勉強以外にやる事ないし」


「ナンパ」


「暇っス!!超暇でした、すいやせんッ!!」


 完全に弱味を摑まれている。

 俺は確実に春からは逃れられない。情けない事に、夏蓮さんのノートが欲しいなどと口が裂けても言えない状況になってしまった。

 事情を知らぬクラスメイトに暴露されたら、確実に明日からぼっちライフの過酷さが増す。


 春による教授で、問題を解いて行く。

 丁寧な解説は、森よりも分かりやすかった。大事だからもう一度、森よりも分かりやすかった。

 呆気なく終了した課題を森に提出すると、やや苦々しい顔だが、どうでも良い。振り返れば、春が俺の手荷物を勝手に整理していた。おいおい、俺が持ち帰りたい物がなんでそうすらすら判っちゃうの?

 六年間の空白が嘘のようだ。俺の心の中が見透かされてるというか、完全に場を制御(コントロール)していた。これが美貌と能力にて一大組織を築き上げた老練な統率者。


「行くよ、雄志」


「えっ……雄志くん?」


 夏蓮さんが当惑で俺を見つめる。


「そう、今日の放課後に遊ぼうって話になってさ。春の誕生日プレゼントを買う約束したんだよ」


「早く行くよ」


 俺の腕を摑んで、強引に教室の外へと引き摺り出そうとする。凄い力だな、成長したんだよな春も。俺だって成長したぜ!例えば…………うん、まあ成長したよね!し、したよね?

 しかし、進行方向とは逆に俺の手が摑まれた。まさか、美少女二人が俺を取り合う展開か!?おいおい止してくれよ、照れるだろ?はてさて、摑む手の持ち主は――。


「鍛埜、貴様ァァァアッ……!」


「お前かよッ!」


 解、中野だった。残念賞なり。


「俺も連れて行けぇぇ……」


 俺の襟首を摑み上げ、半ば懇願するように囁く。至近距離で嫉妬に狂った男の面を見るのは、存外心に堪えるものがある。中野なら尚更だ。

 久しく幼馴染二人きりで、というのも楽しいだろうが、別に付いてきても問題無いだろう。寧ろ会話に詰まる場合がある、喧しい中野が居れば雰囲気は柔らかくなる……かもしれない。

 すると、意を決した様に夏蓮さんも挙手する。


「私も良いかなっ?」


「夏蓮さん、部活は?」


「顧問の先生が体調を崩しちゃって、今日は休止なんだ」


 何て都合の良い……だが有り難う、バレー部顧問の先生。貴方の犠牲で、俺は美少女とまた買い物デートが出来そうだ! 


「お、俺は構わないけど。春はどう?」


「遠慮する」


 間髪入れずに拒んだ。

 すると、夏蓮さんが微笑みながら春の顔を見詰める。


「私達が来ると、何か気まずかったりする?」


「六年振りに幼馴染と遊ぶから、二人きりで楽しみたい」


「雄志くんは?」


「家が隣だから、遊びに来ればいつでも二人きりだぞ。……ソウ、フタリキリダゾ」


 言ってて恥ずかしくなった。

 夏蓮さん、笑顔だけど何故か挑戦的な視線を向けている。その意思は判らないけれど、春に何らかの勝負を挑んでいた。

 あれか、雄志くんの財布は私の物だ!的なやつか。おいおいモテモテかよ、俺の財布。金しか取り柄が無いって!?貯金尽きたら見捨てられるのかよ、薄情者め!この世は金か、なら梓ちゃん……買える訳がない。

 すると、一瞬だけ春の表情が曇ったが、腕を引く力が弱まる。


「判った、行こう」


 春が認めたので、中野と夏蓮さんが歓喜する。

 一時はどうなるかと思ったが、いやはや助かったぜ。これで胃痛も和らぐもんよ。

 二人の様子を見ていた俺は、ふと袖を引く感触に振り向く。そこでは、俺の背に隠れてこちらを睨む春がいた。


「家、今日行っても良い?」


「え、あ、はい」


「覚悟……しておいて」


 そう言って、春は先に退室した。


 よし――取り敢えずトイレ行こう、胃がもたん。






アクセスして頂き、誠に有り難うございます。

胃薬、自分はめちゃくちゃ胃が弱いので、すぐお腹を壊してしまう質です。それでも胃薬は準備してません!人間の自然治癒力って凄い!


次回も宜しくお願い致します。

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