振れば粘つく蛙の刃
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
「抜けば玉散る氷の刃」。日本刀について触れる際に用いられるこの文句、名刀村雨が由来だっていうのはお前も知っているよな?
刀を抜いたならその身に露を発し、人を斬ったとしても覆う水気が血を流し、面には一切の濁りを残さないという。この村雨が出てくる「南総里見八犬伝」では多くの人に求められ、また多くの神秘を見せつける場面が、ちょくちょく姿を現す。
刀身を包んだり、何かしらの力を付与したりするという概念は、血を吸うという表現からもうかがい知ることができる。多くの人を斬った刀は魔剣となり、特別な力を帯びるというのは古くから伝わってきたことだ。
その力を用いなくては立ち向かえない事態というのも、過去にいくつかあったようだ。もっとも、為政者の名誉につながらないと、消されたり、改ざんされたりと悲惨な目に遭うことも珍しくない。
俺の地元にも少し特殊な、刀の手入れ方法とその効果があったと伝わっていてな。耳に入れておかないか?
戦国時代において、農民がそのまま兵として駆り出されることは、珍しくなかったのは周知の通りだ。更に生活の中においては領主に従うばかりじゃなく、村同士でのいさかいもあって、自衛や攻撃のために武器を手元に置いておくのは、ごく当たり前のことだった。家では各々が暇を見つけて武具を手入れしつつ、それが必要になる気配をいち早く感じ取ろうと意識していたらしい。
そして秋のとある日。年貢を納めて帰ってきた村の代表者が、顔半分に大きなさらしを巻いて帰ってきたんだ。着ている小袖のわき腹も、ぱっくりと裂かれている。
皆が事情を尋ねたところ、彼は次のように語ったらしい。
この村は近くに船着き場がある。そこから船で対岸に渡った方が、歩いて物を運ぶより大幅に時間を縮めることができ、年貢の納入の際もよく使われていた。その帰り、低い丘に挟まれた細い道に通りかかったところで、ふと右手の丘の上で茂みがそよぐ気配がした。
足を止めてそちらを見やると、今度は更に大きな音を立てて葉が揺れ、その中から黒い影が飛び出す。ひょろりと細長い四肢をムササビが飛ぶように広げながら、彼の目の前に降り立った。
犬のように手足を立てた四つん這いの姿勢。その口には横向きになった抜き身の小太刀をくわえている。歯に挟まれた峰の端からは、ゆっくり糸を引いて垂れ落ちる汁が見えた。
唾液にしても非常に長く伸びるその液体が、小太刀と地面を完全に結びつけた瞬間、男はぱっと刃を放す。左手で柄を握るや、ぐっと残りの四肢を深く曲げ、再度飛び上がった。大人数人分ほどの高さの空中から、一気に彼を目掛けて落ちてくる男。
幾度か戦を経験し、白刃をくぐった経験がなければ、まともに動くことができないまま、真っ向から切り捨てられていただろう。彼はほぼ本能的に、半身になりながら男との激突を避けたが、一拍子置いて、右頬がジーンと焼かれたように熱くなった。
降ってきた男がこちらを見上げる。わずかに拳三つほど下から見上げる瞳には、白い部分がまったく見えなかったという。
逃げるより先に、手が動いた。「目の前のこいつを始末しないと、まずい」と、腰に差している護身用の小刀を抜き、そのまま男の首根っこを斬り払いにかかる。
確かに肌に触れた感触。でもその後に、皮膚やその下の肉を裂く手ごたえが続かない。刃が表面でぬるりと滑って、食い込むのを嫌ったんだ。彼の身体がのめったのを見て、男の小太刀もまた、こちらを薙ぎ切らんと振るわれる。
紙一重だった。小袖の腰あたりがばっさり斬られたが、血は出ていない。
がっ、と彼は足元の土を蹴る。直接蹴りに行って、もしまた滑ったりすれば、それが致命の刹那になろう。それよりも砂利を巻き上げて、目を潰そうと判断したんだ。
狙い通り、男は両目を押さえながらうめく。彼はその後も走り出しながら、何度か石を拾い、いつでも投げられるようにしながらどんどん距離を開けていく。幾度も振り返ったが、あの黒目しかない男が追ってくることはなく、手近な木陰で斬られたところの手当てをしながら、ここまで帰ってきたのだという。
話を聞いたもののうち、もっとも年を召した老人が、彼にさらしを取って見せるように告げる。言われた通りにすると、たちまちどよめきの声が、あちらこちらからあがる。皆がいうには、彼の右目はすっかり白い部分を失っているらしい。
汲み置いた水に顔を映してみると、果たしてその通り。彼の右目には穴の開いたような漆黒が埋め尽くし、どちらを向いても、いささかも動きを見せなかったんだ。それが自分を襲った、あの奇怪な男の目と同じ。
そのうえ、斬られた頬に関しては、傷口の表面に黄ばんだ粘液がべっとりとくっついて広がっている。それに阻まれて出血が抑えられているかのように見えたが、彼自身、こんなものをくっつけた覚えはない。
「これは責任をとってもらわねばいかんのう」
老人の物言いに彼はどきりとしたが、すぐにそれが自分を対象としたものでないことを知る。
村の子供たちが集められると、ある生き物を連れてくるように指示が出された。子供たちは少しだけ互いの顔を見合わせたが、やがて近くの川へ向かって一斉に走っていく。
求められたのは蛙だった。すでに水を張る時期を過ぎた田の近くには、その気配はない。が、それでも水気の多い場所の葉の影などには、ひっそりと暮らす姿が見受けられることもある。
子供たちが川の近辺を行き来しつつ、見つけた、見つけないと騒いでいる間。大人たちは家に保管してある武具たちを取り出し、手入れを始めている。戦の準備であれば、最もよく扱うことになる槍に重点が置かれるが、今回は刀を中心に見ていくように指示が出された。
一刻ほど(約2時間)が経つと、子供たちが各々、蛙を捕まえて戻ってくる。彼らの小さい手の中へ収まってしまうほどの大きさのものが主で、各家に1,2匹ほどが配られた。すると彼らは刀を土間に寝かせ、その刃の根元部分にカエルを乗せると、刀身全体へゆるゆると水をかけていく。
カエルは水を受けて、しばらくはじっとたたずみつつ、鳴のうを膨らませたり、引っ込めたりを繰り返していた。やがて跳びはねることなく、ぴとり、ぴとりと刃の上をゆっくり這い始める。その通った跡は、水と粘液が混じり合って、淡く五色の光を浮かばせていたとか。
蛙は時々、メスにするかのように、両手両足で刃を抱きしめる仕草をする。身体を斬ってしまうんじゃないかと思う者は多く、実際、手足を放す際に傷ができて、血を流す姿も見せたとか。それでも跳んで逃げてしまうことなく、ところどころで抱きつきを繰り返しながら、ついに歩みは刃の端まで及ぶ。
そこまで着いたカエルは、順次、放すように言われたが、刀身はすでにあぶくまみれ。好んで振るいたくはない、少々、気味の悪い姿になり果てている。だが、老人たちは満足そうだった。
「これでよし。『蛙の刃』として、上々の出来であろう」
この刀たちを抜き身で握ったまま、今晩は警戒態勢を取るように老人たちは告げる。
近いうちに、その話に聞いた奇怪な男が姿を表すであろう。その時に備えるためとのことだった。
夜半。村の各所にかがり火が置かれ、大人の男たちが交代で巡回に当たっていた。件の傷をつけられた彼は、「蛙の刃」の用意はあれど、村の中央にある広場で、心静かに待つように言い渡されている。
「そなたの傷は、奴にとっての目印だ。これを頼りに必ず、奴はここへやってくる。そこを叩くのだ」とは、老人たちの談だった。
巡回から半刻(約1時間)が経過したころ。男の背後、やや遠めのところからほら貝の音が響く。件の者が現れた時、鳴らすように示し合わせていたものだ。
巡回していた者のうち、およそ半数が現場に向かって駆けつけ、残りの半数は引き続き、周囲の警戒に当たる。相手がひとりであるとは限らないからだ。
ほどなく、右前方、左の真横からも声があがり始め、ついに広場で待つ彼の前にも、闇の空から四つん這いで降り立つ者が。昼間に見た時と同じ、口に小太刀をくわえこんでいた。
だが、今回は彼の近くにも数名の男が待機している。男が小太刀を握るより早く、左右から挟み込むかのように、件の「蛙の剣」を振るう。男は今一度、ぴょんと大きく跳ね上がり、いくらか距離を離したものの、着地と同時に右半身ががくりと、不自然に傾いだ。先の斬撃が、手なり足なりをかすめたのだろう。
その機を逃さず、これまで控えていた男は影へ突っ込んだ。大上段に振りかぶった蛙の剣。それの峰の部分を、目の前の男へしたたかに打ち付けたんだ。
男はばたりと倒れた。最初こそ剣筋に圧されて、そのまま這いつくばる姿勢を見せたが、すぐにごろりと寝返りを打つように転び、仰向けとなる。服の合わせが解けて腹がむき出しになるが、それを見て村人たちは唖然とする。
でっぷりと山のように膨れた腹の表面には、墨で書かれたかと思うような、黒い渦巻きが浮かんでいたんだ。それがびゃくり、びゃくりと音を立てながら、皮膚の中より一打ちうごめくたび、男の身体がしぼんでいく。
重なる鳴動が数を減らし、ついには完全に止まる。その時、ここでのびていたのは、おたまじゃくしだったんだ。ただし、その大きさは犬にも勝るほどだったという。その晩、村では同じようなおたまじゃくしが、5匹確保された。
放っておくとまた悪さをしかねない。老人たちの指示で一ヶ所に集められたそれらは土の中へ埋められ、重しとしての大きな石を乗せられて封ぜられる。
おたまじゃくしについて、老人たちは「育ち方が悪かったのだ」と告げる。
「動物の世界では、しばしば親を知らずに育つ者も多いゆえ、特異な育ちを遂げるものもおる。子の不始末は親の責任。大人に当たる蛙にな、こたびの尻拭いを手伝ってもらったのよ」