第一話 花嫁修業
「お前は自分に興味が無さすぎる。こんなにも魅力があると言うのに」
耳元で甘く囁く声は、脳天を蕩けさせそうだった。
項に息がかかり、ぞくりと背中が疼く。
サラサラとした黒髪、月明かりに照らされる整った顔立ちが、目の前にあった。
「小夜……」
「健さん、な、何を……」
私はじりじりと近づく彼から逃れようと、後ろにのけ反った。
倒れたのが引いたばかりの布団の上だったからまだ良い。これが畳の上だったら腰を痛めていたかもしれない。非難の一つでも言ってやりたいが、鋭い眼光のせいで言えない。
「俺がこれからやろうとしている事を分かっていないのか?」
それでも引く事なく彼は、ツゥと指を私の頬に撫ぜる。
「明日も朝早いですし――まだ、嫌です」
否定の言葉を吐けば、黒い瞳が驚きに揺れた。
「……まぁいい」
スッと体が離れる。
「また今度、な」
部屋から去りゆく背中を見て、私は凍っていた息を吐き出した。
――あんな言葉を吐く人だったろうか?
私がこの家に嫁入り修行に来た、初日の夜の事だった。
軽快に廊下を走る音と、箒で砂利の上を掃く音が静まった朝の空気に響く。
まだ日が顔を出しきらない時間に、薬問屋の仕事は始まる。
「「おはようございます、小夜様」」
「おはよう」
まだ春の底冷えする空気に身を固めて廊下を歩いていると、坊主頭の子が二人、声を合わせて挨拶をして来た。彼らも歴とした小僧で、この店の使用人だ。
返事を返せば、嬉しそうに顔を見合わせて駆けて行く。そのお尻には可愛らしい黄色の尻尾が生えていた。
頭上の梁の上を寝ぼけた家鳴りが歩いる。危ないと声をかけるには既に遅く、継ぎ目に頭を打ち付けていた。
微笑ましい光景に口元を緩めている場合ではない。私は足早に台所へと足を向けた。
十六歳になると、親が決めたこの薬問屋の息子との縁談がとんとん拍子に進んだ。嫁入り修行に来てから二日目。婚姻まであと二月という状況である。
相手方は、根は優しい方ではあるのだが――初日の夜の事を思い出しては頬が熱くなってしまう。
和泉健。薬問屋『和泉屋』の長男。彼は半分鬼の血を引いている。
陰陽師の家計である私の家、萬屋の千里家と良縁を築いており、女が生まれたら各々の家に嫁がせるという妙な習慣があった。
とりわけ夢も恋人もおらず、この風習を生まれてから聞かされ続けた私にとっては、特に拒もうという思いは無かった。
寧ろ、今日も朝ご飯を「うまい」という言葉で褒めてくれるだけで、温かい思いに満たされる。
この家で一番大きな居間では、朝晩に全員顔を揃えて食事をする。奥座敷には一家の長である健さん。その左隣に私。さらに隣には番頭の総一郎さんが座っている。真向いの反対隣には、健さんの母である、竜胆さんが座っていた。
目が合うと優しく微笑んでくれた。彼女はこの居間の中でも唯一の人間だ。私の叔母で、千野家から嫁いだ嫁である。姑が嫁をいじめるなどとは縁が遠く、優しく美しい人だ。
さて、狐、首長女、氷女といった妖――家鳴りの数も考えると、この居間には総勢四十人程が集まっていた。
皆が食べ終わった後の片づけをするともなると、大変な事になる。
「小夜さん、お椀を重ねて運んだら、先に畳を掃いてくれる?」
「はい」
竜胆さんに頼まれた通り、お椀を台所へと運んだ後、家鳴り達の食べこぼした金平糖を箒で掃う。それを終えると再び台所へ戻り、水で一つ一つ椀を濯いだ。まだ春になったばかりで、手がかじかむ程水が冷たい。それでも水から離れる事はできず、立て続けに大量の洗濯をしなくてはならない。
パンッと最後の一枚を干す昼時には、一つ手に傷が増えていた。汗一つかかずにこれを終える竜胆さんは凄いと思った。
漸く前垂を外して、湯呑一杯の水を喉に流し、ほんの僅かな休憩を挟むと、店先へと移動した。
「小夜様、今船から積み荷を降ろし終えた所です」
一番に私の姿に気づいたのは総一郎さんだった。片手に商品名と値段が書かれている台帳を持ち、もう片方の手で筆を持って立っていた。
「じゃあ、これから中身の確認?」
「ええ。なかなか上等なものが入っていますよ」
気前の良い笑顔でニコニコ笑う彼もまた、人間ではない。彼は東山からこの遠い江戸まで来た烏天狗だ。
今は人の形に化けているが、黒々としたしなやかな髪が烏を連想させた。
突然、その黒い頭に鋭い平手が入った。ぐえっと鈍い声を総一郎さんが上げる。
「おい、あまり俺の嫁を誑かすな」
「誑かされていませんから」
私はハァとため息をついた。聞こえていないのか、それとも反応されただけで嬉しいのか、パァと健さんの顔が明るくなる。
「小夜、面白いものがあった。来てくれ」
私の手を引き、健さんは走り出した。私は半ば転げそうになりながら、必死に後をついて行く。
「これだ」
「えっと……?」
見せられたのは遠い異国から来た薬ではなく、装飾品や家具といった類だった。
その一つを手に取って渡される。それは銀細工の施されたペンダントだった。
「ここを押して見ろ」
言われたままにペンダントの横の出っ張りを押してみる。すると、ペンダントが開いた。
「面白いだろう、ロケットと言うらしい」
「ろけっと……?」
「そう、ロケットだ。中に愛する者の写真を入れるんだそうだ」
何か期待を込めてそわそわと返事を待つ姿に、私は冷や汗を流して考えた。
「健さんの写真って、ありましたっけ?」
「ない。欲しいのならすぐに撮りに行く」
どうやら期待していた言葉を返せたらしい。さらに上機嫌になった健さんは、「今すぐ着替えて行こう」と言い出した。
一ヶ月に一度も無い海外貿易船が来ていると言うのに、一家の長が居なくて困るのはその下で働く者達だ。
「今すぐだと皆さんが困るので、明日、撮りに行きましょう」
「……何?それもそうか」
腕を組み、うむ、と健さんは唸った。
「それよりこれ、高いんじゃないですか?」
手に乗るほど小さくても、銀細工だ。とても一般庶民が簡単に手を伸ばせる品ではないだろう。
「俺を誰だと思っている。日本一の薬問屋の長だぞ。気にするな」
笑顔でくしゃりと頭を撫でられる。
「ほら、付けるから髪を避けていろ」
「は、はい……」
手からロケットを取られ、首に腕を回される。どうやらフックを止めてくれるようだ。
「ん?中々上手く止められないな……」
――近い。
思わず体に力が入る。私はまた頬が熱くなるのを感じた。
まったくこの人は、もう。
「よし、できた」
熱が体を離れるまで、ほんの少しの間が、何時間もの長い時間に感じられた。
――この時間がずっと続けばいいのに。
きっと、そう言えば健さんはここに暫く居てくれるだろう。
その思いを内に秘め、私は「ありがとうございます」とただ一言返した。