へい彼女、俺で妥協しない?
駅前の周辺は、深夜になるとナンパ待ちの女が多いことが有名だ。それを知っている遊び人の男たちは、待っている女にナンパを仕掛ける。近くにはカラオケもゲームセンターもあり、ラブホテルも多い。カップルが夜を過ごすにはうってつけなのだ。
サトミは親と喧嘩したために家を飛び出し、初めて深夜の駅前にやってきた。どうせ彼氏もいないことだし、お金もないので男と夜を明かそうと考えている。
さすがに有名どころなのか、ナンパ待ちの女は時間が経つにつれ次々と増えていく。それを待っていたかのように、男たちが声を掛けてくる。そして、カップルとなった二人は、夜の街へと消えていくのだ。
しかし、サトミにはなかなか声がかからない。サトミより年上の女は自分から積極的に声を掛けているし、年下の子も慣れているのか、男を選びながらも次々とカップルになっていく。
積極性が足りないのだろうか。しかし、変な男にはついていきたくない。そう考えている間にも、どんどん駅前から人気が無くなっていった。
一時間も経つと、先ほどまでいたナンパ待ちの女たちは全員カップルとなってしまい、サトミだけが取り残されてしまった。別に他の女子高生と比べてかわいくないわけではなく、太ってもいない。そこらへんの女子高生と変わらないはずなのに、男はサトミに声を掛けない。全員、他の子に行ってしまうのだ。
「はぁ……今更帰っても仕方ないよなぁ……ヒトカラでもしようかな……」
そう思って夜の街に向かおうと立ち上がったとき、一人の男がサトミの近くまでやってきた。
身長は百七十センチほどでそれほど高くなく、着ている服もそんなにセンスがあるわけではない。特にイケメンというわけでもないがブサイクでもない、そこらへんを歩いている大学生のような、特徴のない男だった。
サトミを見つめる男を見て、彼女はついに来たか、と思って言葉を待つ。
すると、男は一言こう言った。
「へい彼女、俺で妥協しない?」
「……へ?」
サトミは一瞬意味が分からずぽかんとしたが、じわじわと来たのか、しばらくして吹き出した。そして、駅前中に響きそうな声で笑ってしまった。
「え、ちょ、ちょっと、何かおかしいこと言ったかい?」
笑いが止まらないサトミに、男は思わず尋ねた。
「い、いやだって、それツイッターか何かで流行った奴でしょ? まさか本当に言う人がいるなんて思わなかったから」
「え、あ、ああ、一度やってみたかったんだよ。で、どう? 俺で妥協してみない?」
必死に口説く男を前にして、サトミは何とか笑いを抑えようとする。
「面白い人ね。ちょうど私も暇してたから、付き合ってもらおうかな。あ、でもお金ないから、おごりね」
そう言うと、男とサトミはカラオケへと向かった。
彼はユウマという大学生で、駅前で何回か同じセリフをナンパで使ったらしい。しかし、やはりというか、何回も失敗したとのことだった。
「そりゃ、普通は引くでしょ」
サトミはジュースを飲みながら、ユウマに言った。しかし続けて、
「でも、私も相手にされなかったから」
と笑顔を見せる。それを見て、ユウマは少し赤くなっていた。
「あれ、もしかして、今まで彼女いなかったの?」
あまりにウブな対応に、サトミはユウマに突っ込んだ。
「え、い、いや、そう言うわけじゃ……」
「もしかして、童貞?」
「そ、そんなわけは……」
「風俗はノーカウントね」
「うぅ……」
サトミの一言に、ユウマは俯いてしまった。
「大丈夫だよ、私だってそんなに男と付き合ったことないし、気にすることないって」
ユウマの方をポンポン、と叩きながら、サトミは自分の好きな曲を入れた。
一晩だけの付き合いにしよう、と思っていたサトミだったが、結局ユウマとの時間が楽しくなり、連絡先を教え合って付き合うこととなった。
サトミには理想の結婚相手があった。そこそこの収入があって、家事を手伝ってくれて、子供が好きで、いつも遊びに連れて行ってくれる人。そんな話をすると、ユウマは「俺には無理かな」と肩を落とした。ユウマは自己評価が非常に低く、そもそもサトミとは釣り合っていないと考えているようだ。
ことあるごとに、「なら、その理想の相手が見つかるまで、俺で妥協してくれよな」とユウマは涙ながらに話す。サトミはそのたびに「そんなこと言わないでよ」とぼやいた。
そんな頼りないユウマだったが、こまめに連絡を取っていたし、「お金がないから」と言いながらも、月一度はサトミを遠くに遊びに連れて行った。
サトミが専門学校に進学し、「好きな人が出来た」と言えば応援し、振られれば一日中そばにいて慰めてあげる。そんな関係が、ずっと続いていた。
そうしてユウマが就職して一年が過ぎ、サトミが専門学校を卒業した後の休みの日のこと。月一度のデートの時に、ユウマはナンパした駅前へ、サトミを連れていった。
「こんなところに連れてきて、どこに行くの?」
サトミはユウマに尋ねたが、ユウマは黙ってサトミの手を引く。そして、花壇の前まで来ると、ユウマはそこで足を止めてサトミの手を放した。
いったい何が始まるのだろうとサトミが見ていると、ユウマは持っていたかばんの中から、小さな箱を取り出した。
「へい俺の彼女、俺で妥協して、結婚してくれないか?」
小さな箱の中には、小さなダイヤモンドがはめ込まれた指輪が入っていた。昼間の人通りが多い中、ユウマは突然サトミにプロポーズをしたのだ。
通り過ぎる人は、ある人はチラ見をして通り過ぎ、ある人は立ち止ってその様子を見守っていた。
周りを気にしながらも、サトミは顔を真っ赤にして、差し出された指輪を受け取る。
「わ、私でよければ……お願いします」
サトミがそう言った瞬間、周りからパラパラと拍手が沸き起こった。
「ごめんな、給料が少なくて、安い指輪しか買えなかったんだ。今はこれで妥協してくれ。そのうち、もっといい指輪を買ってあげるから」
そう言うと、ユウマはぎゅっとサトミを抱きしめた。
結婚生活が始まるにあたって、ユウマは2DKのアパートを借りた。「給料がよくなったら一戸建ての家を建てよう。今はこれで妥協してくれ」とユウマは落ち込んでいたが、「いいわよ別に」とサトミは励ました。
結婚すれば考えるのは子供のことだ。サトミは、できれば子供は立派に育ってほしいと思っていたが、ユウマは「俺の子供じゃあなぁ」と、なかなか子作りに乗り気ではなかった。サトミは冗談で、「じゃあ他の優秀な人の子供だったらいいの?」と尋ねると、ユウマは「よし、優秀な人の子供を作ろう」と言い出した。冗談だというサトミを振り払い、ユウマは片っ端から知り合いの頭がいい人に電話をしていく。
当然、「妻と子供を作ってくれ」などと言われて承諾する人はおらず、「馬鹿なことを言うな」「俺には嫁がいるんだぞ」とあっさりと断られた。
サトミは「もうバカなことはやめて」と落ち込むユウマに怒鳴りつけると、ユウマは自信なさげにこう言った。
「なあ俺の妻、俺の子供で妥協してくれるか?」
それを聞き、サトミは「もちろんよ」と、泣きじゃくるユウマを優しく抱きしめた。
こうして二人は、初めて一夜を共にした。
その後は順調な結婚生活だった。二人の子宝に恵まれ、ユウマは仕事ぶりを評価されて、どんどんと昇進していく。
サトミも子育てのかたわら、サトミ自身少しでも家計に貢献しようと、時間を見て働きに出かけていた。
しばらくすると、子供が大きくなったということもあり、そろそろ家を建てようという話が出た。しかし、ここでユウマとサトミで意見が食い違ってしまう。
サトミは二階建てで、個室がたくさんあってプライベートを重視した造りを希望した。しかしユウマは、家族一緒に過ごせる広いスペースを希望したのだ。
予算の都合上、同時に希望を満たすことはできず、そこで言い争いとなる。それぞれの主張がヒートアップし、ついにはサトミが子供を連れて家を出てしまう事態にまで発展してしまった。
一人になったユウマはひどく後悔し、数日間ひどく悩み、仕事も手がつかなくなってしまった。そして仕事仲間の説得もあり、ユウマはサトミに電話することにした。
「なあ俺の妻、俺が妥協するから、帰って来てくれないか?」
久々に聞いた涙声。サトミは呆れながら、
「まったく、情けないわね」
とぼやきながらも、無事家に戻ってきた。
子供たちも手を離れ、夫婦水入らずの生活をしていたが、そんな幸せな時間もやがて終わりがやってくる。
ユウマももう七十歳。いつ亡くなってもおかしくなかった。そして、ユウマはガンを患い、長い闘病生活を強いられることになった。
近くの病院に入院し、ほぼ毎日サトミが看病しにやってくる。子供たちも様子を見に来てくれるが、仕事や家事に追われてなかなか来るのが難しいようだ。
余命数ヶ月と宣告され、その日が間近になっていたある日のことだった。
サトミがリンゴの皮を剥いていた時、ユウマはこうつぶやいた。
「なあばあさん、今までわしで妥協してくれてありがとう。ばあさんに会ったあの日から、わしは毎日が幸せじゃった。わしはもうすぐいなくなるけど、ばあさんはこれからの幸せに妥協しないでおくれ」
それを聞いて、サトミはリンゴの皮を剥く手を止めて言った。
「バカですね、じいさん。私はこれまで一度も、恋や人生に妥協したことなんてありませんよ。私も、あの日じいさんに声を掛けられて、とてもうれしかったんですよ。今まで五十数年間、私といてくれて、本当にありがとう」
サトミの言葉を聞き、ユウマは涙が止まらなかった。
「そういえばじいさん、私はこの言葉を、じいさんに一度も言ってなかったですねぇ」
そういうと、サトミはユウマの体を抱きかかえ、耳元でつぶやいた。
「あなた、愛していますよ」
その言葉を受け、ユウマもサトミにつぶやいた。
「わしも、愛してるよ、ばあさん」
それが、ユウマの最後の言葉だった。
この二人の人生には、どうやら「妥協」という言葉は必要なかったようだ。