失ってはならない人
第一章 トンビのネグラ
一
私は焦っていた。
「空港行きの列車ホームは、どっちだ?」と、怒鳴った。
(うん?)
その、自分の声に驚いて目を覚ましたのだ。
(夢だったか……)と、ぼんやり意識する。
鈍重なまぶたが開く。
見慣れた煤けた天井板。ぶら下がった白い裸電球、張り渡した洗濯干しの紐。
(自分の蒲団にいる……)
色あせたグレイのカーテンの隙間から差し込む金色の光の帯が枕元に届く。
ハッ! と緊張して、身をよじって手を伸ばし、畳の上の腕時計を取ると、七時。
(まだ、早い……)
大学三年の学年末試験は昨日で終わったから、まだ寝てていいのだ。
目を閉じる。
でも、ぼうっとした頭の中に、くっついたまぶたを開けようとする意識がある。
(荷造りしなければ……)
今日は二月末日の金曜日、私はこの寮を出る。
夜行列車で郷里の北海道へ発つ。その準備の慌しさを気にする神経が尖りだし、まだ寝ていたい重たいまぶたの筋肉と怠惰に浸りたい気だるい心に突き刺さる。
目を開けた。
夢の中の出来事が、まだ、意識の中で尾を引いている。
重い灰色の頭の中に、夢の残像が断片的に現われる。
中腹まで雲をかぶった白銀の山裾。
巨大なスキージャンプのシャンツエ。
大勢の白人観客。
そして、どよめきと歓声。
(どうやら、オリンピックの舞台で飛んでいた……)
カンテを踏み切って空中に飛び出した、私。
だが、失速し、ばたばた、うろたえて、着地した。
次は、異国の雑踏の街頭。
顔を伏せ、背の高い異人の人混みをかき分けるようにして駅に急ぐ私。
案内板の異国の文字。通じぬ言葉。
(列車の発車ホームは、どこだ?)
駅構内を迷って、発車時刻が迫って、焦っている私。
(この夢は、前にも見た……)
私の深層心理が夢に映るのだろう。
スランプを抜け出せないまま選手生活を断念する引け目、
自分で選んで突き進んできた道を挫折した虚脱感、
明日の居場所を探さねばならない不安、
追い詰められた、失意の私の焦りなのだ。
急に尿意を催して、起き上がった。
一瞬、戻ってきてまた蒲団にもぐろうかと鈍い頭で思ったが、たかぶった神経は許さない。
パジャマを脱ぎ、片足立ちでよろめきながらジーパンを履き、頭からセーターをかぶって、ジャンパーを羽織った。
がらんとした室内に火の気はないが、道産っ子の私だから、東京の冬が寒くて震え上がることはない。
二
時は昭和四十三年。
ここは、私立東都大学の伝統あるスキージャンプ部の飛翔寮、通称トンビのネグラである。
トンビは、晴れた空に輪を描く鳶。
「飛んで、飛んで、飛びまくれ」と、先輩連中に叱咤激励されるのは、スキージャンプの感覚を身体で覚えろということである。私たちにも叶うものならトンビのように悠然と滑空したい気持ちがある。
飛翔寮は、東京郊外の私鉄N駅から徒歩十五分の住宅地の外れにある。五十年以上は経つトタン屋根の木造二階建て寮舎と平屋の食堂は、おんぼろ建物である。大学は、庭の広いこの敷地をいずれ売却するつもりだから建物は改装しない、という噂だ。
飛翔寮には第一室から第六室まであって、各室に六名ずつ居る。
二階の右端の部屋が私たちの第四室である。二間あって、十畳の畳の間の一番奥端に、私の蒲団があり、十六畳の板敷の間の中央にダルマストーブがあって、壁に沿ってコの字型に置いた六ケの机の端が、私の机である。
第四室の他の五人は皆、遠征合宿に出ているので、ここ一週間、私一人で過ごした。
机の上の鉛筆立てから歯ブラシと歯磨きチューブを掴み、部屋に渡した物干し紐からタオルを取る。
廊下に出た。階段を降りる足元がふらつくので、ゆっくりサンダルを踏みしめる。
(すっきり目覚めないのは、夕べ寝過ぎたせいか? それともまだ寝足りないのか……)
昨日、最後の試験科目の心理学概論を終えて合宿所に戻ってきたのが五時。それから風呂に入って飯を食ってそのまま寝てしまったから、十二時間寝た。しかし、その前の十日間は、毎日、四、五時間しか寝てない。
トイレを済まし、廊下を洗面所に向かう。
(今日もいい天気だ!)
渡り廊下の窓ガラス越しに眺めた中庭は、いつのまにか太い白梅が満開だ。その向こうの隅に日本水仙がたたみ三枚分ほども咲き乱れていた。
(こんなにたくさんの水仙の群落は、初めて見た……)
梅の樹の根元の黒い土に点々と張りついているのは、背丈の低い白いスノードロップ。
(家にもあった……)
その横の、黄色い花をいくつもつけて盛り上がった緑の株は何だろうと思ったら、福寿草じゃないか。
(とうが立って花が小さくなっている……)
(春だ!)
このひと月、脇目も振らずに学年末試験の準備に打ち込んで過ごしたから、しのびよる春に気づかなかった。
私は三年間この寮で暮らしたが、これまで、この時期は遠征先の雪国で合宿していたから、初めてこの庭の早春のたたずまいを見たのだ。
(そして、今日で、見納め……)
私は庭の隅から隅まで目を凝らす。
大きな庭石を囲んで、赤松とサルスベリ、紅葉があるが、手入れが行き届いてないことは素人目にもわかる。
屋根の上に青い空が広がる。
今日もいい天気だ。
私が奇異に感じてしようがないのは、この季節の西高東低の気圧配置のことである。大陸高気圧が張り出すと、故郷の北国の空は鼠色の雲が垂れ込め人々は家に閉じ込められる。反対にこの関東平野では大陸高気圧が張り出すと穏やかな青空に覆われ人々は戸外に出て快適に過ごす。
(遠い異郷に居る……)との思いが募る。
これから向かう北海道はまっ白な雪の世界。まだまだ寒い日がある。
薄暗くてひんやりする一階廊下の端の洗面台。
七つ並んだ鏡の真ん中に立つ。
ふだんのこの時刻は四十数人の寮生で混み合う場所だが、しんとしている。
昨夜は、試験を受けた五人の下級生が泊まっているが、彼らは朝飯を放棄して昼まで寝るはずで、私のように今の時刻に起きてくるヤツは居まい。
ここに立つと、いつも痛ましく思うのは、どの鏡も二つか三つに割れその傷口に背面の朱を滲ませていることだ。
この傷は、誰かが拳で殴ったに違いない。
三十年の伝統ある我が飛翔寮の洗面所の鏡は、何百人もの先輩ジャンパーたちの顔を写してきた。青春のいろいろな悩みがあり、こんな鏡まで巻き添えにする若さの暴発があったのだ。
今の私たちの時代には、そんな派手な騒ぎは考えられないが、寮生は悩みを抱え、いろいろな出来事があった。挫折して去って行く私だって、他人から見れば、酒を飲んだら狂いかねない男に見えるだろう。
三年間この鏡の前で顔を洗ってきたが、今日が最後である。
私は、今年はじめて学年末試験を受けた。この試験はスキージャンプの試合とぶつかるので、一年生のときも二年生の時も私たちは特別の処置で、追試験とレポートでお情けの単位を貰っていた。
三年生になって、私はスランプに苦しみ、追い込まれた。最後に、一月末のHH杯選手権を飛んでジャンプ競技は止めようと決めていたが、そのとおりになった。
私は大学をやめる。
それで、最後の思い出にと、全力をあげて学年末試験に臨んだ。そして、昨日で終わった。
私の気分とすれば、ここひと月のあいだ根を詰めて勉強に打ち込み、やることはやったという解放感があり、もう少し満足感に浸っていたい。
しかし、荷造りをして、部屋を掃除し、いろいろな手続きをしなければならない脅迫観念が許さなかった。さらに旅立ちの寂寥と明日からの生活の不安が、早い時刻に神経を目覚めさせ、蒲団にもぐることを拒絶した。
私は、自分が退部することを、まだ、人ごとのように思っている。この寮生活が今日限りだなんて実感が湧かない。
(まだ退部届けも退学届けも出してないからだろうか……)
(部員たちは、遠征試合を拒否した私は、退部すると思っただろう……)
学校を辞めることは、両親と高校の恩師に伝えただけだ。私はクラスの友人たちや部の仲間の誰にも別れを告げてないのだ。
何人かのクラスメートの顔が浮かぶ。このまま去ってしまうのは、不誠実で、卑怯なようで悲しい気分だが、仕方がない。後で手紙を書こう。
(さあ、今から退学届を出す……)
これまでの青春のすべてを賭けてきたスキージャンプ競技生活を私は捨てる。
(明日からどうなるか、不安だ……)
(まずは勤め先を見つけなければならない……)
父母にはだいぶ前に電話で告げているから、今頃は、二人で顔を見合わせ、いつ息子が戻ってくるか話しているだろう。
(明日の朝着く、と電話しよう……)
蛇口をひねりカップに水を注いだ。
歯磨きチューブを塗り、歯ブラシを口にくわえた。
コップの水が溢れているのに気づき、コックを閉めた。
その時、廊下を挟んだ反対側の、食堂のテレビから流れてきた男性の声が、私の耳をとらえた。
三
「スポーツ選手なんかで、いざっ、試合! という時に、あがってしまって実力を出せない人がいます」と、テレビの声。
「うん?」と、聞き耳を立てた。
(聞き捨てならない話しだ!)
何歩か駆け寄り、ドアを開け、食堂を覗きこんだ。
(誰もいない。よし!)
「とてもあがりやすい人と、そうでなくあがりにくい人がいます。最近の研究で、そのような性格の差がなぜ出来るのかが明らかになりました」
画面に、穏やかな年配の心理学者らしい人が写っている。
「それは、小さい頃の親子関係に原因があるようです。自分はどんなことをやっても両親に信頼されている。そう思って育った子供は、大きくなってから、あがりにくいようです。
そうでなくて、学校の成績が良いとほめられ悪い成績だと叱られるので、いい成績を取らねばと、いつもそのように親を意識して育った子はあがりやすくなるようです」
(えっ? 違うだろう……)
と、私は反発した。
もっと詳しいことを聞きたかったが、インタービューする若い女性アナウンサーには突っ込んだことを聞く関心も意欲もなく、他愛ない質問に常識的な答を返してその学者の姿は消えた。
(今は入試の時期だから、たぶん受験に臨む心構えの話だったのだろう……)
私は、食堂入口の廊下で、歯ブラシをくわえ突っ立っている。
(試合直前に緊張であがってしまうスポーツ選手とは、まさに自分のこと……)
(しかし、いい学業成績を取らねば、と思って親に接していただろうか?)
(そんなことはない……)
小さなハンコ屋を営んでいる父と、和裁の内職をしていた母。仲の良い両親で、私はひとりっ子だった。小さい頃、友達と遊びほうけ、家の手伝いをサボって叱られたことは何べんもある。でも、気持の優しい子だと言われ、両親に信頼されていたと思う。
「勉強しなさい」と、叱られた記憶はない。中学に入って英語とか数学とかが面白くて机に向かうようになり、母に感心されたことがある。中学、高校時代は毎日スキージャンプの練習漬けだったが、その合間によく勉強したと思う。
私は大事な試合であがって失敗するスポーツ選手だが、小さい頃、学校の成績のことで親に叱られるのが嫌だとか、ほめられたいとか、そんなことは意識したことがない。
(だから、あの先生の話は違う……)
(あの先生は、あがりやすいかどうかの性格の形成は、子供の頃に植えつけられた自信と関連するという統計を言いたかったのだろう……)
(でも、そうではないと思う……)
あがりやすいのは、執着が弱いからだと思う。そのことにどれだけの執念を持っているかで、あがるかあがらないか決まるのだろう。有利な展開になっても気を緩めず、自分はやり遂げるという強い意思を持ち続ければあがらないのだ。
それが証拠に、私があがってしまった時は、どうしてもやり遂げるという気持がどこかへ吹っ飛んで、その瞬間、どうでもいいような気分で、ぼうっとしている。
我に返った時は、取り返しがつかない。ぼう然とするだけだ。
(気持を強く持てばあがらないのは確かだが、どうすれば気持ちを強く持てるのか……)
ひたすらスキージャンプに執着しているつもりでも、いつの間にか舞い上がってしまう私は、人間が甘いのだ。
(だから、私は人が良いと言われる……)
「欲を出せ!」と、スキー部長に言われる。
誰だって欲といおうか向上心があるからいっしょうけんめい練習する。でも、結果を出せない。
私は常に勝ちたいと願っている。そんな私の問題は、勝ちたいという意欲を失う瞬間が、大事な時にあることだ、と分かっている。
その自分を失う一瞬のことは、自分ではどうにもならない。
(そんなに、勝ちにばかり執着してたら、我利我利亡者になってしまわないか?)と、負け惜しみを言う私。
「自信を持て」と、皆に言われる。
でも、スキージャンプはやってみなけりゃ分からない要素が強い。いつも完璧にやれるわけじゃないのに、「絶対に勝つ」なんて、思い込めない。
(私は、勝てそうだと思うと失敗する……)
(自信を持つということは、うぬぼれることと紙一重じゃないのか……)
私は、この一年、悩みに悩んだ。
到達した結論は、小心者で執着心の弱い私は、恐怖に立ち向かう己の心の葛藤を衆目監視のもとにさらけだすスキージャンプの競技選手に向かないということだ。
(私には無理なのだ……)
しかし、私はジャンプが好きだ。あんなに壮快なスポーツはない。小さい時から飛び続けてきて、今、止めるのはつらい。これからも体力が続く限り趣味として飛んでいたい。
だから、私は北海道へ帰る。
歯ブラシをくわえた私は、食堂入口に突っ立っている。
集会所を兼ねた食堂は楽に五十名は収容でき、ここで祝賀会、送別会などの賑やかなセレモニーがあった。
ひと気のない食堂に最後の別れを告げる寂しい気分のまま、思いにふける。
第二章 栄光と挫折
一
札幌市の隣の町で育った。
冬のスポーツに恵まれた環境で、小さい頃からスキーになじみゲレンデのコブなどを跳んで遊んでいた。小学五年の時、二十メートル級のスモールヒルに挑戦して、最初の一回目こそ転んだが、その後は難なく飛べた。そして中学生になって五十メートル級のミデアムヒルに挑戦し、飛ぶたびに飛距離を伸ばした。私は数々の大会で勝った。
高校は先輩に誘われるままスキージャンプの伝統校に入った。選手層の厚い我が校はインターハイの常勝校だった。
空中で、ふわっと浮遊の力を感じる時、鳥はこのような感覚で飛んでいるのだと思った。私たちの気持の底には、普通の人がやれないことをやっているという優越感があり、それを成就させた時の充足感があった。そして、命がけで飛ぶ緊張感が日常生活を律し、日々の地道な練習に耐えさせた。
卒業時には実業団チームから誘われたが、大学生活への憧れがあり、そんな私を理解してくれた監督のダルマさんが、母校東都大学の授業料免除の特待生として進学できるよう骨折ってくれた。
私は新しい環境で張り切って練習した。
シーズンに入って、好調だった。
全日本選手権で、あの時は風に恵まれたフロックだったが、夢中で飛んで、終わって見れば二位だった。ジュニア選手権で優勝した。大きな大会で何回か入賞した。いつの試合も、大人の世界へ挑戦するつもりで何も考えずに飛んでいた。
飛ぶことが楽しかったし、結果がついてきた。
若手有望選手ということで、オリンピック候補選手に選ばれ、強化合宿に参加した。海外遠征の話しもあったが、授業への支障や個人負担の費用などの事情があって参加しなかった。
このように、私は順風万帆で一年生を過ごした。
でも、よかったのはそのシーズンだけだった。
無我夢中の段階が過ぎると事情が変わってきた。
二年目のシーズンは、周囲から期待されたし、事実、練習では調子を上げていたが、いざ試合となると勝てなかった。
(これまでのように、無心で飛べない……)
だんだん、勝てないプレッシャーが私を苦しめ出す。
(自分が勝たなければ、と思うと力む……)
そうやって、大会の優勝候補の一人と目されると、萎縮して惨敗する癖がついてしまった。
「ストレスに弱いヤツ」
「しようがないヤツ」
部の仲間の陰口を耳にした。
勝ち負けは考えまいとするが、勝つために努力してきたという気持が頭をもたげる。そして、「いざっ、勝負!」の瞬間、いっしょうけんめいやろうと緊張して、その意気込みが過ぎてガチガチになっている。
私が苦しんだのは、アプローチに跳び降り滑走に移る瞬間、十分腰を下したクローチングの姿勢がとれてないことだ。次の踏み切りの動作を意識して身構えてしまうのだ。中腰のままでは加速が充分でないし、踏み切りが弱い。
反対に、思いっきりしゃがみこむと、踏切が遅れてしまいそうで、怖くてそのまま飛び出してしまう。
ずいぶん練習した。練習の時は無心になって、飛べる。でも、いざ大事な試合となると、その瞬間、ぼうっとあがってしまって、体と意識がちぐはぐになって、失敗する。
「もっと開き直れよ。お前はくそまじめだから、駄目なんだ。たまには、破目を外して遊んで来い」
と、先輩に言われた。
(どうやって開き直るんだ?)
(捨て鉢になることじゃないだろう……)
(遊び歩きたいが、私には金がない……)
スキー部長に意見される。
「リラックスせい!」
(リラックスすると、どうでもよくなりそうだ……)
「肩の力を抜け!」
(肩の力を抜いたら、腰が砕けてしまわないか?)
「イメージトレーニングしてるか?」
(表彰台に立つ自分の姿が浮かぶ……)
「観衆は、芋が並んでいると思え!」
(芋が叫ぶか!)
(何千人もの観衆の歓声を味方にすれば、私は力を出せるかもしれないが、どうしたらそんなに図太くなれる?)
「無心になれ!」
(どうしたら、無心になれる? 常に飛ぶことが頭にあるだろう……)
「精神統一せい」
(そんなことは言われなくとも、分かっている……)
私は不甲斐ない自分を認め、自己嫌悪に陥る。
自分の行動パターンは自分で分析できる。
私のジャンプには二つのパターンがある。調子に乗ると、悪天候でもなんでもかまわず無我夢中で猪突猛進でつっ走って、そこそこの距離を延ばし、望外の成績を収めることがある。その反対に、周囲の期待を意識した時などは、絶好の条件であっても、力んだりあがったりして失敗してしまう。特に二本目の最終走者で飛ぶ時は、優勝の最短距離に居るわけで、前の人たちの成績が分かっていて、どこまで飛べば勝てるか数字が目の前にちらつき、それが大きなハードルになって、そればかり意識して潰れてしまう。
そんなものは頭の中から消せばいいと思うが、だったら、どう開き直ればいいのだ?
私の生真面目すぎる性格は勝負ごとには向かない、と思うようになった。勝てるかも知れない、あるいはここで勝たねばならないと意識したとたん緊張が高まるのだ。残念ながら肝っ玉は小さいと認めざるを得ない。
部員仲間の活躍を見て、絶対に自分の技術の方が勝り、体力があって練習もこなしているから負けないと思うが、その自分の試合は、ぼーっとしているうちに力を出さないまま終わってしまう。
失敗の飛行パターンは決まっている。踏み切りで気負うか、反対にぼんやりしてタイミングをミスし、空中で狼狽し、あせって、わずかな風の変化でバランスを崩して飛行姿勢に耐えられなくなり、バタバタ、着地する。
二年生のシーズンを過ぎて、私はオリンピック強化選手から外された。
三年生になっても失意の状態が続いた。
そんな夏の、黒い積乱雲が重苦しく感じるある日、あまり興に乗らないサマージャンプの小さなプラスチック台で練習していた。アプローチにセラミックレール、そして着地斜面に人工芝を敷いてある。
飛び立った私は、横なぐりの突風にバランスを崩し、両手を羽ばたくようにして姿勢を制御したが、身体が横向きになり、辛うじて腰をひねって、スキーをそろえて着地したがテレマーク姿勢はかなわず、つんのめるように右手をついてころげた。そして右脚を骨折した。
それまでも、空中で横風にあおられたことはあるが、雪の上に飛び降りるのと、人工芝の上に下りるのとでは、着地の感触が違う。
入院は半月で済んだ。親には退院してから電話した。
退院後の半月、ギブスを付けた半身不随の状態で、この寮の皆の世話になった。
管理人の、賄をやっているおじさんが、親身になって面倒を看てくれた。誰もいない日中、私の部屋に来て、この寮で怪我をした選手たちの誰彼の逸話を語ってくれた。ふだん無愛想な彼が、私に親切にしてくれたのは意外だった。六十才の小柄な締まった体躯。若い頃、何かスポーツをやっていた人だろうと思って聞いたら、陸上の長距離をやったそうだ。
事故の二ケ月後には練習に復帰したが、ひどく臆病になっていた。
ジャンプ台のてっぺんの、スタートゲートのバーに座って身構えると、高いところに居る緊張で身体がこわばった。これから自分が飛び降りる着地点は、先っぽのカンテに隠れて見えないから、とても深いところまで落下するように思う。だから、アプローチを滑り降りるときは無意識の内にスピードを抑えている。そして、カンテではずいぶん手前で踏切り、空中では、無事に着地することだけを考えている。
(先端の無いすべり台!)
急斜面のアプローチの高度差五十メートルを一気に滑り降り、時速八十キロから百キロで空中に飛び出す。
(スキージャンプなんていうものは、飛ぶのじゃなくて、落ちるのだ!)
スキー台は、急斜面のアプローチの先端部分、カンテで弧を描くように勾配が緩まって、その端は下向き十度になっている。
カンテを踏み切り、上空に向かって飛び出すような気持だが、実際は、下向きの角度をやや緩めたに過ぎない。
ランディングバーンに向かって落ちていく。
空中にいるのは、わずか三秒かそこらの時間、ラージヒルでも最大五秒。
(それが、ずいぶん長く感じる……)
早く着地したい気持を、ほんの一瞬、スキーのテールが着くまで我慢し、落下点をできるだけ下の方に求める。
空中落下は爽快だと思うのは心に余裕がある時で、一度恐ろしいと思ったら、耐えられない。
(横風さえ吹かなければ安全だが、その突風は予測できない……)
アプローチで、そんな考えがちらっとでも頭をよぎると、自衛本能が働いて、中腰になってスピードを押さえ、踏み切りのタイミングを早め、空中飛行を小さくしようとする。
勇気をふるって飛び続けているうちに、少しずつ恐怖心は薄れていった。しかし、霧がかかったり、風が舞ったりするような条件の悪い時は足がすくみ、超安全飛行してしまう。
そうやって、三年生のシーズンに入って、私の持ち味の猪突猛進の飛行は出来なかった。
しかし、ふた月前に、転機が訪れた。
二
この正月前のことだった。ホームグランドのノーマルヒルの練習で、スキーをかついでジャンプ台に登って順番を待っていると、私の前に飛んだ他校の男が着地で、どうした加減かバランスを崩し転倒した。すぐ自分で起き上がって、大した怪我じゃなかったが、チームメイトに担架でかつがれた。
一部始終を見ていた私は、自分が怪我した出来事を思い出してしまった。
ジャンプ台のてっぺんに並んだ列の先頭から逃げ出したかったが、プライドが許さない。本能は危機の回避を命じ、理性がそれをためらわせている。私は動揺をさとられまいと、素知らぬふりをした。
すぐ練習再開となって、後ろから押されるように私はスタートゲートのバーに腰かけたが、その時になって、恐くて身がすくんでしまった。
(深い谷底へ飛び降りる気持……)
脚の筋肉も関節もスキー板のように固まってしまった。
(なんとか、この場から脱出しなければ……)
絶体絶命の窮地に立たされた。
(腰を上げて、階段を下りようか……)
本当にそうしようかと思った。
(歩いてこの台から下りるのが本当の勇気じゃないか? 私は飛べないかもしれない……)
そこまで醜態を見せることを考えたら、思わぬ別の気持が湧いてきた。
(歩いて降りるだと? そんなぶざまな真似しなくとも、安全飛行で飛び降りられる!)
開き直った自分がいた。
(弱虫だと思われたくないなら、飛べばいいんだろう……。飛んでやるさ!)
(カンテまで滑って行って、ランデングバーンへ飛び降りるだけさ!)
そう覚悟したら、気持が落ちついて、
「安全飛行で飛び降りるだけだ。そのくらいなら、いつだって出来る」と、自分に言い聞かせていた。
そうしたら、私は、それまでこわごわ腰かけていた鋼製のバーに、急にどっしりした信頼感を抱き、何気なく右の手で撫でていた。
「飛ぶから、見ててくれよ」
そして、私は、ゆっくりしたリズムで、
タァーン、タァーン、タァーン、と、バーを叩いていた。
タァーン、タァーン、タァーン、……
私はゲート台と一体になった気持になっており、高所の恐怖が薄れた。
身体の緊張がほぐれていく。
いつの間にか、私はうなずくように首を動かしながら、今度はふとももを叩いていた。
タァーン、タァーン、タァーン、……
足の先まで自分の感覚を取り戻していた。
そして、ランニングをしている気分になって、「ようし!」と、気合が入ってくる。
タン、タン、タン、タン、タン、タン、
身体のリズムが速まる。
ただ跳びおりるだけだ。
(よし、行け!)
ひょいと身を前に投げ出し、ふわり、アプローチに降り、スキーを揃えた。身を屈めてスピードに乗る。闘争心が高揚してくる。
力を抜いて飛ぶつもりで、ゆっくり身を沈めてカンテを踏み切ったのだが、ジャストポイントだったようで大きく跳び出した。
スキーと身体が浮き上がるような揚力を感じながら空中姿勢を維持し、スキーのテールが着いたので、膝を曲げ沈み込みテレマーク姿勢をとった。
すぐ赤線があって、ずいぶん下まできたと意識した。
周りから歓声が上がって、我に返った。
何と、標準距離六十メートルの青線のP点をはるかに越えて赤線のK点近い八十メートルの距離を飛んでいた。
K点を境に斜度が浅くなるので、それを超える飛行は危険である。
あの頃の自分はもちろんのこと、あの時あのジャンプ台でいっしょに練習していた連中の実力は六十メートルを下回り、まぐれで七十メートルでも飛べば大ジャンプだったから、素晴らしい飛距離だった。
私にとって、力まなくとも八十メートルを飛べるということは大発見だった。
また、ついでながら白状すると、あの時は、ひるんだ私の心中を哀れんで眺めているだろうと思った後輩連中が、私の着地を見届けて大きな歓声をあげてくれたので、思いがけずに私のプライドは守られた。
あの日以来、私は恐怖に打ち勝つ方法を身につけた。
私はスタートバーでひるんだ気持になった時は、右手で腰かけたバーを叩く。
タァーン、タァーン、タァーン、……
そうすると私とジャンプ台が一体になる。
そうやって気分がほぐれてくると、今度はふとももを叩いている。
タァーン、タァーン、タァーン、……
怖じ気ついて、ガチガチに硬直した身体の緊張が解きほぐれている。
そして、いつの間にか攻撃に移るリズムを喚起させている。
タン、タン、タン、タン、
この駆け足のリズムで、ジャンプに挑むことが出来る。
こうして、高所の恐怖心を乗り越えられるようになった。
どんなに高いスタートゲートに立っても、少々風が吹いても、タン、タン、タン、で闘争心が湧いてくる。
練習台の私は、遠くまで飛べるようになっていた。
私の心の中でこのような大きな転機があったことは誰も気づかず、また私も、それまでの自分は怖くて飛べなかったとは、誰にも話さなかった。
私はジャンプの恐怖心に打ち勝つことは出来たが、以前からの課題の、いざ大事な競技となると気持ちが舞い上がってしまって、リズムを忘れ、力んで失敗する癖は直せなかった。
一月中の私の成績は、練習では気まぐれのように距離を伸ばすが、選手選考の大事な場面では失敗ばかりした。
むらっ気のある選手だということで、部では三年生でありながら控え選手だった。
(このままじゃ、自分がみじめ過ぎる……)
密かに退部を決意した私は、最後の思い出にと、一月末に郷里の札幌に帰り、個人の資格でHH杯選手権の予選から出場した。
依然、私は食堂の入口で、歯ブラシを口にくわえたまま、回想にふけっている。
第三章 最後の試合
一
さっきの夢を思い出した。
あの夢では、私は、オリンピックのノーマルヒルの決勝の舞台に残っていた。そして一本目は飛距離トップだったが、二本目は失速した。
着地して、
「また、失敗した」
夢の中で、そうつぶやいていた。
(また、オリンピックの夢を見た……)
そうなんだ。二年前にオリンピック強化候補選手だった私は、心の奥で、オリンピックをひきずっている。
スキージャンプに青春をかけてきた私が、その競技を放棄して学年末試験のため机に向かっている。自分は挫折したという失意が、そのような夢を見させるのかも知れない。
そして、私は、この夢の直接の背景が、一月末のHH杯選手権ジャンプ大会だったと気づいている。
ずいぶん前のように思うけど、ひと月前のことだ。忘れようたって忘れられない舞台だった。
(HH杯! これを私の最後の試合にしよう!)
どうしてもHH杯選手権を飛びたくなって、個人参加で出場した。
私はこの大会は高校時代からずっと飛んでいて、大学一年生の時は三位入賞した。そんななじみのジャンプ台なので、選手生活の幕引きの舞台にしたかった。
粉雪が舞って、天候は良くなかった。
タァン、タァン、タァン、……から、始まって、
タン、タン、タン、……
と、私は右手でふとももを叩いて、そして飛んだ。
飛び慣れたジャンプ台だったので、身体が踏切のタイミングを覚えていたし、風の癖を熟知していたので安心して飛べたのだろう。練習で飛んで、自分は楽しんでいると思った。
予選はそこそこの記録が出て、決勝に残れた。
そうやって迎えた決勝の一本目、このジャンプ台の晴れ舞台に立てるのが嬉しくて、タァン、タァン、タァン、……、バーを叩いて私はジャンプ台に同化していた。
タン、タン、タン、……
右手でふとももを叩いてリズムをとっていた。そして気合の入った攻めの飛行ができ、思いもよらぬ好記録を出せた。
そして、最終ジャンパーとして、二本目を飛んだ。
(ひょっとしたら優勝できる!)
そう意識してしまって……、そうしたら、その後のことは上の空で覚えてない。
我に返ったのは、着地の瞬間だった。
(こんな筈じゃない!)
そう思ったが、今さら時間は戻せない。
(また、失敗した……)
復活する機会を掴みかけた私は、またもや、不甲斐なさを思い知らされた。
(私はあがりやすい男だ。この競技には向かない……)
すべては、終わってしまった。
予定通りスキージャンプ部と学校を止める。
それで、試合後、高校時代のスキー部のダルマ監督に電話をかけた。
「ばかやろう。しっかりせい」と叱られる、と首をすくめてていたら、
「学校をやめるのなら、ともかく帰ってこい」だった。
郷里に帰ったら、まっ先に先生に退学の挨拶に伺う。
そして、私は職を探さなければならない。大学中退の身でどんな会社が雇ってくれるか分からないが、私はなんでもやる。
私には失う物はない。何でも耐えられる。
親には迷惑をかけないつもりだが、電話で、
「スキージャンプを止めます。学校もやめる。期末試験だけは受けて帰ります」と、決意を打ち明けた時、 父は、
「そうか」と言ったきりだった。母も、私の不調の苦しみを察していたのか、
「帰っておいで」と、言った。
(あんなに我を張って大学に行かせてもらったのに、両親の期待を裏切り、申し訳ない……)
二
洗面台に戻った。
鏡に映った私の顔は、寝癖の髪が立ち、無精ひげが伸び、頬がたるみ、目が腫れぼったい。それに口の周りがハミガキ粉で白く汚れ、見られない顔だ。
蛇口をひねって思いっきり水を出し、ジャブジャブ顔を洗った。濡れた手グシで髪を直した。
ようやく生気がよみがえってきた。
その時、
(この鏡を見るのもこれでお終い……)
との気分に襲われた。
タオルで、顔を拭きながら、鏡に写る自分の姿を眺めた。
走り込んで鍛え、よく締まった身体。百七十三センチの細身だから、ジャンプには恵まれた身体といわれる。
少しは目鼻立ちの整った顔だと思うが、女の子と付き合ったことがない。
これまで私の周りは男ばかりだったから、女の子は苦手だという意識がある。
クラスに気になる娘がいて、何度か口をきいたことがあるが、この状態では無縁のままで終わる。彼女は試験が終わってどこか旅行に行ってしまっただろう。親しくなりたいと思う気持は心の底にしまって諦める。
(この鏡に写る己の顔も今日でお終い……)
私は、ここふた月ほどの間、揺れ動いた心の軌跡に、ひょっとしたら飛躍がなかったか、思い直す余地はないのかと、冷静に振り返える。
四年の新学期が始まれば、すぐ就職活動が始まる。
でも、私の進路はオリンピック選手になること以外考えたことがないから、何をやればいいのか迷う。
今度の試験はまあまあの成績を修めるかも知れないが、一、二年の成績考査は酷く、前期は八十点前後だが後期は五〇点台、平均してやっと及第点の六〇点だった。私には、もう学業成績のばんかいの機会はない。そんな成績で、しっかりした会社が雇ってくれようか。挫折したスポーツ選手を拾ってくれる物好きな会社はあるまい。
もっと、差し迫った事情は、退部すれば、体育学部特待生の私は授業料を払わねばならないことだ。先日帰省した時、父の身体の調子が悪そうで、仕送りの増額は無心できないと思った。だから、退部届けを出せば、私には四月から学校生活を続けていくあてがない。それに、この寮を出れば、アパート代がかかる。
「アルバイトで稼いで、やっていける」と言う、逞しい級友もいるが、私には自信がない。
私の手元には遠征費の積み立てが三万円あるが、東京におればあれこれと出費の誘惑がある。
(旅費があるうちに帰ることだ……)
それに、ささやかながら私にもプライドがあって、
「あいつは、スキージャンプのオリンピック強化選手だったが、自滅したヤツ」と、後ろ指をさされながら過ごすのはつらい。
それに、もっと大きな理由がある。
(冬はスキーをして過ごしたい!)
(東京で、あくせく暮らす? 東京の生活は私には合わない……)
私には雪の生活が合う。
そう考えたら、無性に郷里が懐かしくなった。
HH杯の試合で帰った北海道の雪の世界が目に浮かんできた。
(明日は、雪の上に立つ!)
(北帰行!)
第四章 白い封書
一
食堂に入って配膳棚に近づいたら、気配を察した管理人のおじさんが調理室の奥から顔を出した。
「お早うございます」
坊主頭の小柄な彼は、いつものとおり、白い不精髭の顔を無愛想にうなずいてこたえた。
「今晩、田舎へ帰ります」
おじさんが、細い目でまじまじと私の顔を見た。
「いろいろとお世話になりました」
私が怪我をした時、この人は親身になって世話してくれた。
「帰るのか?」
「ええ」
「納会は?」
「出ません。あとで荷物をまとめたらあいさつに伺います」
「今日は、俺は出かける」
「それじゃ、ここで……。どうもお世話になりました」
「やはり、やめるのか。お前みたいな、事故に遭ったジャンパーは大勢いた。皆、この寮を出て行った。しかし、お前は、やけを起さずに、耐えた。この間のHH杯は、大したものだと思っていた。もう少しの我慢だと、思った。お前は、何事もやれば出来る。いちずさがある」
長年この寮の管理人をしている人だから、大勢の挫折した若者を見てきたのだろう。
でも、いちずさだけではスキージャンプは駄目だ。
(大成するには資質が要る……)
「納会に出ませんから、皆さんによろしく伝えてください。手紙は書きます」
彼は無言のままうなずいた。
私は会釈して、戸棚のセルフサービスの四角いアルマイトのお盆を取り出し、小さな炊飯器からプラスチックの食器にご飯を盛った。納豆にシシャモ、生卵。それに豆腐とネギのみそ汁だった。
テーブルに着いて、ふと振り返って壁の連絡棚を見ると、どのボックスにも白い紙が入っていた。
気になるので、すぐに取りに行く。
私のボックスには、さらに一通、白い封書が入っていた。住所が東都大学スキージャンプ部気付で、私の宛て名になっている。
(覚えのある丸みのある字……)
裏を見ると、札幌市北区長堤十九番地四。見慣れた、懐かしい札幌の住所が書いてある。私の母校に近いところだ。
(久しぶりの手紙!)
おととし、私がばりばり活躍していたころは、見知らぬ人から励ましの手紙をもらうことがあったが、その中でも、この人はまっさきに手紙をくれた人だし、一番たくさん手紙をくれた人だった。
私はその手紙を胸ポケットに入れた。
白い四枚綴じの紙は、スキージャンプ部の部会兼納会の通知と、部員の帰省連絡先であった。納会は三月六日十六時集合、この食堂で行う。
納会は卒業生を送る会でもある。
スキージャンプ部なんていうのは、一匹狼の集団のようだが、部員の連帯感はある。寮生活を送っていると、私生活のすべてをさらけだした付き合いになる。しかし、学年の序列は厳としてあり、それで各部屋の秩序が保たれている。しかし、私のように途中で競技に挫折すると、最上級生になるのがつらい。
最初、私は、納会に出席して皆に退部のあいさつをして、けじめはつけようと思っていたが、考えてみればお金のかかることだった。納会費用二千円も大きい。あと一週間このまま寮で過ごしアルバイトをやる手もあるが、つごうよく働き口が見つかるだろうか?
仕事が見つかってずるずる東京暮らしになるかもしれない。そんなことは嫌だ。
そんなアルバイトよりも、私は一日も早く身の振り方を決めなければならない。自分の身の始末は自分でするしかない。まずは、帰って職安に行く。
退部届け、退学届けは、朝のうちに出す。
食事を終えた私は、お盆ごと食器を棚に片づけ、おじさんに会釈した。
「それじゃ、これで。お世話になりました」
「何時ごろ出るのだ」
「電車は夜行です。荷物を出して、学校と役所に手続きをして、昼過ぎに一度戻って来て、それから出かけます」
二
部屋に戻った。
机に座って、白い封書の封を切った。
「日増しに雪が溶け出して、春が待ち遠しい今日この頃です。私は油断をして風邪で寝込んでしまいました。それに久しぶりにお便りを差し上げますので、どう書いていいか分からず、遅くなってすみません。
先日、思いがけなくあなたの御活躍をテレビで拝見しました。
HH杯選手権の二本目のジャンプは惜しかったですね。しばらくお姿を見ませんでしたので、どうされたのかと心配していましたが、長いスランプだったと解説者のお話しでした。それにサマージャンプで怪我をされたそうですが、もう、すっかりいいのですね。母は、『高校時代のあの頃、あんなに、ひたむきに練習されていたあなたのことですから、きっと努力は実ります』と、言っています。明日をめざして、がんばって下さい。
ご活躍をお祈りします。あなたのファンより」
もう十通近くもこの人から手紙をもらっているが、久しぶりの便りだ。女の子らしいカット入りのしゃれた便箋に、ていねいに書いた文章である。私の高校時代から声援してくれた人なのだ。
この人からの手紙はまとめて束ねてある。札幌の私の高校の近くに住む、若い女性だということで惹かれたのだろう。その人の名前も住所もしっかり覚えている。
(この人のお母さんも私のことを見守ってくれたのだ……)
(私はひたむきに練習したが、それだけでは競技生活はだめだ……)
壁にぶつかってしまった私には、スキージャンパーとしての明日はない。
(もうテレビに写ることはない……)
でも、HH杯は出場してよかった。最終ジャンパーで飛べたのだ。
ひと月前のHH杯選手権大会試合のテレビ録画を思い出した。
私の耳の底にこびりついているのは、解説者の言葉である。
この解説者は、私の高校の大先輩で、〔トンビのねぐら〕の先輩でもあるから、大会で出会うたびに、私をつかまえては声をかけて激励してくれる。
「この選手はですね、サマージャンプの練習で大けがをしましてね……、よく復帰しました。
この選手権も、一昨日の予選から勝ち上がってきました。大変な努力家です。
スキージャンパーにとって、いちど事故にあうと、つらいものです。空中を飛ぶ時に、『いつ横風にあおられるか』などと考えてしまうと、恐ろしくなって飛べません。無意識に身体が身構えます。ジャンプはものすごいスピードで空中に飛び出す命がけの競技です。練習で身につけるテクニック以上に、本能的なものが働きます。
でも、見てて下さい。この選手は変わりましたよ。
私は先ほどの予選の飛行でこの選手の成長に気づきました。
この選手は、右手でふとももを叩いてリズムをとっていますね。本人は、意識してないでしよう。恐らく無意識でやっていると思います。ほら、
タァン、タァン、タァン、です。
恐怖心に支配されて萎縮しそうな身体に、ああやって、タァン、タァン、タァンとリズムを与えほぐしています。
あれは、例えれば、高所恐怖症に打ち勝つ方法ですね。
いや、彼が臆病だと言っているのではありません。ジャンパーは、スキーを担いでジャンプ台に上がって行きますが、自分の番がくるまで突っ立って待ちます。そして番が来るとゲートのバーに腰かけて、風の合図の旗が振られるのを待ちます。そして、滑り出すのです。準備運動も助走もありません。飛び慣れていても、身体が冷えてこわばるとつらいものです。誰でも恐怖心に襲われますよ。
ほら、タン、タン、タン、リズムが速まりました。闘争心に火が付きました。
彼は勇敢に飛行に挑戦しょうとしています。あの速いリズムは闘いの前の気持を奮い立たせるものです」
(大先輩の言うとおり……。あのリズム!)
そして、私は無事、飛んだ。
この決勝の一本目は、私の会心のジャンプだった。
いい向かい風も吹いてくれた。さらに幸運だったのは、私が飛んだ最初の頃は視界が効いていたが、後半、有力選手たちが飛んだときにはガスがかかって、結局、一本目では私の記録が最長不倒になった。
さて、決勝の二本目が進んでいる。
大先輩の解説だ。
「この選手は素質がありまして、大学一年生で全日本選手権二位でしたし、このHH杯選手権でも三位入賞して、将来を嘱望されました。
しかし、この選手は精神面にもろいところがありまして、いざという時に実力を発揮できず、オリンピック強化選手を降ろされました。
彼にとっては、二本目のフライトが課題です。どれだけ飛ぶことに執着して、そして無心で飛べるかです。
ふだんは物静かな無欲な好青年ですが、そういう選手が急に欲を出して、力んで、タイミングを狂わしてしまうのです。
さあ、彼は成長したでしょうか……」
(厳しいことを言う人だ!)
(しかし、大先輩の言うとおり……)
この大先輩はオリンピック強化コーチだったから、私にきついことを言う。候補選手を外された時も、この大先輩から通告された。
しかし、次の瞬間、
「アー、だめです!」と、大先輩。
「えっ、どうして?」と、アナウンサー。
「次は、恐らく失敗します。なぜ、そのようなことを言うかと思われるでしょうが、彼の気持は舞い上がってしまいました。
ああやって、スタートゲートで待っている彼の姿にリズムがありません。彼は、勝ちを意識して、ガチガチになっています。
この二本目も、さっきみたいに身体をほぐして、そして攻撃のリズムを与えればいいのですが……、彼には、その余裕はなくなっています。
スキージャンプはとてもメンタルな競技です、どれだけ試合に冷静に臨めるか、自分を奮い立たせるにはどうするか、自分自身との闘いです。この二万人近い観客の声援を味方につければいいのですが……。
この選手は、このままじゃだめです。誰だって、あがってボウッとしたまま空中に高く飛び上がったら、身体が萎縮していては、状況の変化に対応できません。遠くに飛ばないのは生理的な自衛手段ですよ」
(ひどい言い方だ。ひどいよ、大先輩! 失敗を予告しなくともいいじゃないか……)
(でも、事実だ……)
(大先輩の言うとおりだ……)
タァンタァンタァンのリズムに乗った時は、私の気持が舞い上がることはない。でも、あの時は、タァンタァンタァンを忘れていた。
「スキージャンプは、ほとんど、飛び出す時の踏み切りで決まると言っていいでしょう。
その踏み切りは、これは、もう、動物的な勘です。
刻々状態が変わる中で、時速九〇キロも一〇〇キロも出ているところで踏み切るのですから、身体で覚えた感覚で、無心に飛ぶしかないのです。
完璧に飛んでやろうとかの邪念があっては駄目ですよ。
どんな選手にしても、ピタリ完璧に踏み切りを合わせるのは、無理なことです」と、大先輩。
(そのとおり、踏み切りのタイミングは一瞬だ……)
急斜面のアプローチの先端部分、弧を描くカンテの端ほど勾配が緩いから、そこで踏み切れば一番上に向かって飛び上がれる。
でも、踏み切りのタイミングが遅れて、もし、カンテを踏み外したら、落とし穴に飛び降りるようなものだ。
(そんな光景を想像したら、恐くて飛べない!)
「スキージャンプは踏み切って上に飛び出すと思うでしょうが、実際は水平ぐらいで飛び出しています。踏み切らなかったら、下向き十度の放物線の軌道に乗ります。
ジャンプの用語にマキシマムと言う言葉があります。これは空中で台から一番離れたポイントのことをさします。マキシマムが伸びれば伸びるほど飛距離が伸びます。
初速を高めることと、ぎりぎりの位置で力強く踏み切ることで、放物線の弧が大きくなってマキシマムを伸ばします。
スキー台からできるだけ離れるように、飛び出します。
より高く、そして、より遠くへの思いが飛距離を伸ばします」と、大先輩。
この大先輩はダルマ監督の親友だから、私のことは何でも知っている。
あの時、風が治まるのを待ってスタートバーに腰掛ているうちにだんだん緊張してきて、スタートする時には身体がこわばっていた。
画面を見ると、アプローチをやや中腰の姿勢で滑っている。
あんなかっこうでは加速しないし、どうしても気持ちの上で踏切のタイミングが早まってしまう。スキージャンパーにとって、踏切の瞬間がすべてなのに、そのタイミングがずれれば、空中でうろたえるだけだ。
大先輩が予言したとおり、二本目は失敗した。
すっかりガスも晴れて、各選手は二本目の距離を伸ばしたが、私は、一本目の七割も飛べなかった。
私が北海道に帰ってしまったということで、大先輩に何か言われるかも知れないが、ともかく、終わったことだ。
(もう、大先輩に会うこともあるまい……)
私は、我に返った。
「いつも励ましのお便りありがとう」と、口にしながら私はハガキを取り出した。あの人が、なんとなく、自分より年若い人のように思えたので、そんな書き出しになった。
私はこの人に返事を書いたことはなかったが、
(このような手紙をいただくのも最後だ……)
と、すべてにけじめをつける気持になっている。
「もう風邪はよくなりましたか? この間のHH杯選手権をテレビで見ていただいたとのことですが、あれは私が怪我から復帰して初めての公式試合でした。昨年の七月、サマージャンプで着地に失敗して右足の骨を折ってしまいました。もう後遺症はありません。
あのHH杯の試合の二本目、もっとしっかり飛べばよい成績を修められたのにと反省しています。まだまだ未熟な私です。
私は、明日に向かって模索しています。私も北海道の春が懐かしく思います」
スキージャンプ部を退部します、と書こうとしたが、理由も書かねばならないとためらって止めた。
なんだか、ぶっきら棒な文面で、最後の方になって余白を残したので、失礼な手紙だったかも知れない、そう思いながら投函した。
第五章 北帰行
一
三月初めの北海道は、まだすべてが雪の中である。でも、気づくたびに庭の雪が薄汚れてザラついて、沈んでいく。 人々は、あと何日と暦を数えながら春を待つ。
父も母も元気でいた。
「まあ、まあ」と、食い入るように私の顔を見る母。
「帰って来たか……」と、父はそれだけだった。
「元気そうね。今晩、何を食べたい?」と、母。
「うん、今晩、ダルマさんのお宅に行く約束をしたから、夕食はいいよ。退学のことを報告してくる。職安は明後日の月曜日に行く」
私は、札幌近郊の監督の家へ向かった。
監督は高校で体育を教えておられたが、スキー部監督もされていた。だから、私たちは、「先生」というよりは「監督」と呼んでいた。
授業を担当する教師は知識の切り売りをするだけだが、それに比べてクラブ活動の部長、顧問の先生方は学生と親密に接する時間が長い。学生にとって授業はただついていくだけの受身のものだが、クラブ活動は自分たちで自主的に活動プログラムを作って、部員が力を合せ実行して行かねばならない。まさに青春をぶっつけあって活動することだ。私たちは、部長に報告し、相談し助言を受ける。そして、至らぬことで叱られ、面倒をかけ、親しむ。
指定された時刻は、夕方五時だった。
玄関のベルを鳴らすと、背の高いエプロン姿の奥さんがドアを開けられ、
「まあ、待っていました」と、懐かしい顔で、にこやかに言われた。すぐ、監督が出てこられた。相変わらず、坊主頭の雪焼けした顔。ごつい身体が、少し細くなったように見える。
太い声で、
「やあ! よく来た」
私の方の事情は、二週間前の電話であらまし話してある。
「帰ってきたか」
「ええ、退学しました。いろいろお世話になりましたが、すみません」
「そうか、退学届を出してきたか。ゆっくりしていけ」
座敷に通された。
気のせいか、監督には前ほどの元気がない。
「残念ながら、俺は酒は駄目なんだ。肝臓が痛んでいて、医者に脅かされた」
「それは寂しいですね。監督のイメージは酒呑みでしたからね。遠征先の晩御飯でも、ワンカップを二、三本ポケットに入れてきて自分だけ晩酌されていました」
「そんな時期もあったな」
「監督が酒を取りあげられたら、お気の毒ですね」
この監督のあだ名は「ダルマ」だった。中背のがっしりした体格。今も身体を鍛えているから腹などは出てない。しかし、アルコールが入って赤い顔をした雰囲気がダルマに似ていた。「お前たちにダルマと呼ばれていると知った時は、そんな体形になってしまったかと、ショックだった」と、語ったことがある。
「俺は達観してるからいい。
しかし、お前は気をつけろよ。どんなことがあっても、酒で紛らすことは、するなよ。
でも、嬉しい酒はいいさ。よく来てくれた。
おい、母さん、まだかい?」
と声をかけると、台所から、
「今、用意してます」
「遠慮します」
「ばか、お前が酒の強いことは知ってたぞ。夏休みの合宿だったか、お前らが一升瓶を買ってきて飲んで、皆、赤い顔をしているのに、お前だけがケロッとしてるから……。あの時は一瞬、お前だけ飲んでないのかと思った」
「いえ、飲みました」
「あの時は参った。
お前らが酒飲んでいるのを見つけても、俺のような酒呑みにお前らを叱る資格はない……。
あとで、生徒監にばれると面倒くさいことになる。仕方がないから、俺が叱ったよ」
「あの時は、出場停止になるぞ、って言われました。それから、誰も酒を買ってこなくなりました」
「そうだったな。
あの時、お前らが成人したら家で一緒に飲もうと言ったんだが、その前に俺の方が降りたんじゃ、しようがないや」
「悪いですから、肝臓が直ってからいただきます。皆で酒飲みに来ます」
「ばか、俺の家に来て何を言うんだ。
大丈夫! 俺は眺めるだけでいいから、お前が飲め。俺は平気だから、遠慮するな。
俺は、飲んじゃいけない、いや、飲まないと決めたら、飲まない。
目の前で飲んだら悪いとか、気の毒だとか、そんな同情は俺には要らない。誘惑されてそれに乗るようなヤツなら、酒飲んでくたばりゃいいんだ。そんなことは本人しだいだ。
お前も、そんなに気をつかってばかりいたら、だめだ。
気持はうれしいけどな……」
「あら、まあ、あなたったら、またお説教ね」
料理を運びながら、奥さんが冷やかす。
「この人がそう言うときは一滴も飲みませんから、安心して下さい。
この人は相変わらずお酒の席が好きで、自分が飲めなくとも雰囲気を楽しんでいます。どうぞ寛いで、主人の代わりに飲んでいって下さい」
そうやって、テーブルに料理が並びお銚子が運ばれ、私の杯にお酒がつがれた。
「おーい、お母さん! もう一つ、チョコ。さあ、おいで!」
(どうして?
監督は乾杯の真似を付き合ってくれるの?)
「さあ、乾杯しよう。お前が相手してやれ。一人じゃ飲んだ気がしないだろうよ」
と、先生は奥さんを座らせ、その杯に注ぎ、自分は湯飲み茶碗を持った。
「さあ、乾杯」
三人はそれぞれの器を掲げ、口に運んだ。
奥さんはコケシのように目の細い、スマートな人である。色白の顔をほんのり赤らめながらも、監督に注がれるまま飲みほす。それで、私も気がつけばお酌した。もちろん私もしっかり頂いた。
「お酒呑みが、急に止めると調子狂いませんか?」
「それは狂うさ。でも、飲めない理由が厳然とあるから仕方ないと思う。
これまで急いで酒を飲んだのは失敗だった。もっとゆっくり、明日の分を残して、大事に飲めばよかったと思う。自業自得だ。
幸い、俺はアル中ではなかったから、それほど苦しんでない。
酒の席では、俺は一口も飲まない。我慢などと思わなくとも耐えられる。
俺はこれまで十分に飲んで生涯の定量を飲み尽くしたので未練はない……と、思うことにしている」
と、監督はさばさばした口調で言った。
「かんぺきに止められたのですか。すごい意志ですね」
「なあに、完璧になんか止めてないよ。俺は月に一度飲むことにしている。酒の味を忘れちゃ寂しい」
(おやっ?)
私は首をひねった。
「俺は一合だけ飲む。
酒を口にしたらすぐにくたばってしまうというわけではないから、かんぺきに止めた、なんて気張ると、厳しい。その決意が破れた時に、衝動でどんなことをしてしまうか分からない。完全主義では持たないよ」
(そんな……?)
私は、ますますついていけない。
「そのくらいはいいですわよ。この人は、ちゃんと身のほどをわきまえています」
奥さんも助っ人にまわる。
「でも、な、俺は人前では絶対に飲まない。
だから、宴席で乾杯の音頭を頼まれても断る。俺は酒の席ではウーロン茶を飲んでいる。
呑ん平どもと一緒になって、俺の大切な飲み分を一口にあおったりはしないよ。俺にとってはものすごく価値の高い酒だから、ひとりでチビチビ味わっていただくよ。
俺のような病持ちの価値観は普通の人とは違う。飲みたいか? などと聞かれても、そんなことは超越している。人は人、俺は俺だ。俺はな、自分のペースでやる。
今までどおり俺の家で来客が酒飲んで騒いでくれれば楽しいよ。俺は見てるだけでいい。同情してもらう必要はない。
なあ、母さん」
笑いながら奥さんが杯を干す。
「この人はいつも楽しいお酒で、酒に溺れる人ではなかったです」
その杯に注ぎながら、
「俺はな、病院で月一回の検査を受けて、その結果、数値が上がってなくて問題ないと分かった時だけ、自分に祝いとほうびの酒を与え、それまでの自制心をいたわることにしている。
俺には、また来月、酒を飲む希望がある。これからも酒の匂いを嗅いで生きていきたい。俺は酒を止めないよ。そのために節制する」
(了解! 監督の、酒への執着……)
そういえば、末期の水は清酒を頼むと豪語していた監督だった。
「俺は若い頃、飲み過ぎて生涯の定量に達したのだが、でも、俺の身体から蒸発した分の空き容量が少しはあるだろう。は、は、は、……。
しかし、こっちはまだまだ容量があるから、どんどん注いでやってくれ」
そう言いながら、奥さんをうながして、杯を空けさせた。
「そんなにいただきますと、後片付けができません」
「そんなことはいいよ。せっかくこいつが来てくれたんだ。楽しくやるんさ。お前が付き合え」
(監督のことだから、完璧に断酒するぐらい大したことではないだろう。しかし、この家で酒の気がなくなったら、奥さんがお気の毒……)
私には、監督の気持が読み取れた。
この監督と奥さんとは熱烈な恋愛結婚だったと、いつだったかの納会で話してくれたあの解説者の大先輩の顔が浮かんだ。
「俺の代わりにお母さんが相手をしてくれる。今までどおり、酒呑みが来て寛いでくれればいい」
酒を飲まない監督はおしゃべりだった。
「なあ、お前は怪我から良く立ち直ったな。
サマージャンプなんて俺は嫌いだ。プラスチックのレールの上を滑って人工芝に下りるなんて、スキーじゃないよ。空を飛ぶのは雪の上がいい。雪の中に転がるのがスキーだ」
「そうです」
「しかし、お前は、よく立ち直った。あのまま怪我で消えていったら、お前には、スキージャンプは苦い思い出しか残るまい。 怪我でスキージャンプを止めていった選手はたくさんいる。怖いと思ったら、この競技はおしまいだ」
「ええ!」
「最近は、テレビに写るせいか、ジャンプ競技が派手になった。審判団は選手のことをもっと親身に考えるべきだ。練習で誰かがK点を越えたら、すぐにスタートゲートを余裕を持って下げなければいけない。
テレビのアナウンサーが、バッケンレコードなどと言って、もてはやすのがいかん。スキー台の構造は、飛びすぎたらスタートゲートを下げて調節することになっているんだ。選手の安全を考えにゃいかん。
K点を越えて飛ぶというのは、複雑骨折覚悟でやるばかなことだ。お前も無理するな」
「はあ……」
「俺もずいぶん大勢のスキージャンパーを見てきたが、いずれ年が経てば止めて普通の人になる。飛べるうちが華だ。
この道で食っていけるのは教員とか協会関係者とか、わずかな人だよ。俺なんか、教員としてジャンパーの卵たちを育てているのは、幸せな部類だ」
(そういうものか……)
「お前が、選手生活を止める、と言うのも一理ある。二年間もの長いスランプだったものな……。
ただ、せっかくの才能を花開かせないで、もったいないという気持はある。それより、お前はスキージャンプで燃え尽きたのか?
この間のHH杯は復活の兆しだと思った」
と、監督の目が坐ったように思って、
(口説かれる!)
と、私は身構えた。
(でも、もう何を言われても遅い……)
と、私の気持は開き直っている。
「私はジャンプが好きです。趣味で飛び続けます」
「壁にぶっつかったのは事実だな。前みたいに俺が付きっ切りで面倒みてやるわけにはいかんし……。それよりお前は俺の手の届かんレベルまで行っちゃった」
(おや……)
私は、放免されると、思った。
「お前しだいだ。自分でそう決めたのなら仕方ない。
競技生活を止めるのならこっちで暮せ。やっぱり、雪の世界がいいよ。
スキージャンパーは体力があるうちは飛び続けたいもんだ……。ひたすらトレーニングに耐えるのもいいものだ。あんな壮快なスポーツはない。
俺のように年取って飛べなくなると、飛べるヤツがうらやましいよ。俺の青春もすべてジャンプだった」
(監督にも若い時があった……)
「就職先は、心当たりあるのか?」
「いいえ。職安に行きます」
「お前の勤め先なら、俺があたってやる。いいな!」
「はい」
「希望はあるか?」
「いえ、何でもやります」
「よし、わかった」
私は、ほっとした。
二
次の日、晴れわたった朝。まっ白な大地のりんとした冷気が、いささか二日酔いの私の顔を引き締める。
私は、これまでの自分にけじめをつけるつもりで、札幌の母校を訪れた。隣町のわが家からバス十五分と徒歩十分の距離だ。
スキージャンプ部の部室のガラス窓を遠くから覗くと、日曜日にもかかわらず、中に何人かの後輩がいる様子だった。
私は、引き返した。
彼らは私の卒業後に入ってきた連中だが、先輩としての私のことは聞いているだろう。
私の同級生に力のあるライバルが二人いて、三羽がらすと呼ばれた。だから、インターハイでもその他の大会でも、わが校は常勝であった。団体戦を制覇し、個人戦でも三人のうちの誰かがトップになった。私ら三人はユース代表として海外遠征もした。そんな華やかな部の歴史を作った私たちだった。
部室を離れ、グラウンドを横切り、土手に上がろうと思い立った。
高さ七メートルほどのきつい斜面を横向きになって登る。
硬い雪はサクサクと音を立て、長靴は沈まない。
グラウンドと校舎を眺める。
もう少し下流側に、土手に上がる道があって、私たちのランニングのコースが続く。
下流へ向かって歩いた。
この土手は、雪のない時期に毎日のように走った。雪に覆われていても、懐かしい景色である。
「ここが私の原点……」
と、思わず口に出た。
当時三十人ほど居た仲間たちの懐かしい顔が浮かんできた。彼らは皆、元気で、飛んでいるだろう。
(いつか、会える……)
土手の急斜面を下り、下の道路に出た。
その時、道路脇の雪だまりを避けたひょうしに、ふと道ばたの家の住居表示を見た。
札幌市北区長堤十八番地の二
「あっ!」
(あのファンレターの人の所番地に近い!)
注意して探すと、その番地のその姓の家は、下流側から土手に出る道の曲がり角の、見慣れた古い二階家であった。
この家は、ランニングコースの折れ曲がる目標になっていたので、いつも遠くから見すえて走った。ライラックの大きな株があった。
(きっと、あの人は、ずっと私を見守っていてくれた……)
私は、道なりに、再び土手に登った。
(どなたか姿を見せないだろうか……)
と、まっ白な土手にたたずんで、しばらく様子をうかがったが、その家はひっそりしていた。
その日、私は、懐かしい部室に入ることが出来ない自分を認識し、過去に決別したと思った。
(栄光は過去のこと。もう、あの頃の自分には戻れない……)
そして、少しばかり華やいだ感情が残った。
(あの手紙の人が、まさかあの家の人だとは……。どんな人だろう?)
その日、家に帰った私は、近くのスキー場ですべりまくった。次の日もその次の日も、滑った。この二年間失っていたものを取り返した気分だった。
ジャンプ台への憧れは、心の底にしまった。
第六章 松葉杖の少女
大学を止めて郷里の町へ帰ってきた私は、高校の監督に地元の建設会社を紹介された。
簡単な筆記試験と面接を受けて、三月五日から勤め出した。
高校卒の待遇だが、私に文句はない。すぐに勤め先が見つかってありがたかった。
その会社にはスキージャンプ部があった。そこの監督、コーチも高校時代の自分を知ってくれている人ばかりだから、
「こちらで、やり直せ」と、当然のように入部を誘ってくれた。でも私は、
「自信がないので、選手は出来ません」と固辞した。そうしたら、
「うちのスキージャンプ部は部員が少ないので、練習なんかでもジャンプ台の雪踏みで四苦八苦している。飛ぶのが好きな連中ばかりだ。わが社じゃ、飛べるヤツは皆、部員だ。ともかく仲間が多い方がありがたい。
お前は趣味でやるつもりでいいから、入部して手伝ってくれ。ただし、練習に関して会社からの優遇処置はいっさい無いことは承知してくれ。
その代わり、お前は総務の係だから、マネージャーを手伝ってクラブの仕事をしてもらう時は仕事とみなす」
と、スキージャンプ部長を兼ねる総務部長が半ば強制的におっしゃるので、そういうことにした。
建設関係の会社だったので、冬は仕事が暇になり、一部の社員は内地の工事現場へ出向するが、残った者は除雪作業に当たる。そうやって、合間にスキーに専念する環境が出来るということだった。
(趣味で飛び続けたいという私の望みが叶えられた……)
札幌に勤める顔なじみの先輩に挨拶した。彼は、私を歓迎してくれた。そして、
「スキージャンプの競技人口はなかなか増えない。せっかく力をつけた少年たちが途中で止めていく」と語った。
私は耳が痛かった。
実家から札幌の会社に通えるが、両親の期待を裏切って挫折した自分だから毎日顔を見て暮らすのがつらいと思ったし、父の体調も盛り返していて家のことは心配なかったので、寮に入れてもらうことにした。
会社勤めがはじまった。
建設会社の総務部の一員として書類整理、宛名書き、連絡係、そして忙しい工事現場の交通誘導員などに駆り出された。
「最初のうちはなんでもやれ。総務の仕事は雑用係だ。その間に保険でも、経理でも勉強してプロとしての知識を身につけろ」と、総務課長に言われた。
そして、シーズン最後の試合に臨むスキージャンプ部員の練習を手伝った。
部の納会に出席した。部員十五名。皆、飛ぶことが何よりも楽しい人達だ。皆、私に心を開いてくれた。
ダルマ監督に報告に伺ったら、励まされた。
「現役スキージャンパーの実力は、過去の栄光は関係ない。今の瞬間、どのくらいの調子なのか、それだけだ。しかし、選手は、去年いくら飛んだとかいうプライドがあって、それに達しないと苦しむ。それはそれで、目標となって励みになる。
しかし、お前は、退学した時点で過去のことはすべて棄ててしまったから、お前には失うものはない。これから好きなだけ、燃焼するだけだ。
思いっきり、明日に向かって生きてみろ」
私の気持は吹っ切れた。
(私には失うものはない……)
そして、スキージャンプ部の地味なトレーニングに加わった。週に一回、土曜日の午後に合同練習するだけで、あとは自主トレだ。これまでも私の一日の生活のリズムの要はトレーニングだったが、社会人では限られた時間しかないので、効率良く練習しなければならない。
私は練習に励んだ。身体の筋力のバランスをとり、敏捷性を養う。スキージャンパーには、筋骨隆々の身体は重たくて不向きで、少年のようなしなやかな体形が望ましい。そのような筋力に瞬発力をつける。
上背のある方が有利だが、百七十三センチ、六十キロの私は、スリムな体であることで満足しなければならない。
私は一人で、雪解けの黒い土を踏んで縄跳びをしたし、また路面を走り込んだ。
もちろん、私は会社の仕事に夢中で励んだ。総務部の係員として、労務、福利厚生、経理の実務に早く習熟するよう、秘かにハウツウ物の本を買いこんで読んだ。
そうやって仕事と練習に励むと、時間が足りないので上手に切り替えて、何事にも集中して能率良くこなすようになる。
(ボヤーッとしている暇がない……)
そんな四月半ばの日曜日、私は、あの人をたずねて見ようと、思い立った。
私の出した葉書に折り返し、
「お便りをいただくなんて思ってもみませんでした。お忙しい学生生活でしょうに、御返事ありがとうございました。とてもうれしく思います」と、躍るような文面の手紙が、トンビのネグラ経由で届いた。その中で、
「私は松葉杖で歩けるようになってから、毎日がとても楽しくなりました。今度の試合はぜひ応援に行きます。出場される試合をお知らせください」と、思いがけない内容があった。
健常者ではない様子が気になって、まずは退学したことを知らせねば悪い、と思っていた。
期待を裏切った身で、おめおめファンの前に顔を出すのは気後れし、まして相手が若い女性だということで気恥ずかしい思いもしたが、また、それが引力となって、
「郷里に帰って来たからには挨拶にうかがって、これまでの声援にお礼を言うのがけじめというものだろう……」と、自分に言い聞かせた。
北海道の春はいちどきにくる。
庭の雪がどんどん溶けて黒い土が顔を出すと同時に福寿草が花を開く。競って首を伸ばすように、スノードロップ、水仙、ヒヤシンス、クロッカスの花がほころびる。タンポポの黄色い群れが低く地を這い、いつの間にか芝桜、忘れな草が咲きだしている。
やがて、コブシ、梅、桜、桃がいっせいに咲く。桜なんかは花ビラが散るのを待ちきれずに葉が茂る。
懐かしいランニングコースの土手に通ずる曲がり角の家。
門を潜ると、甘い香りがして、太い樹に白梅が咲いていた。
玄関の呼び鈴を押すと、着物姿の年配の小柄な婦人が出てきた。
(どこかで見た人?)
眼鏡をかけた理知的な人だった。驚いたように、まじまじと顔を見つめられた。私が名乗りを上げようとすると、
「あなたっ! 一体どうしました?」
私はめんくらった。
そして、母親は、奥の部屋にいる、その人に向かって私の名前を叫び、珍客の来訪を告げた。
姿を現したその人は、両腕に松葉杖をついていた。清楚で小柄なその人は、上気した面持ちで私の顔を見つめていた。白い顔に黒いお下げ髪が可憐だった。青いセーターにジーパンの飾らない姿。高校生ぐらいの年頃であった。
居間に招き入れられて、私が挨拶した。
「いつもお便りありがとうございました」
娘は、微笑んで頭を下げた。
そうしたら、
「しばらくでした」と、母親に挨拶され、私はとまどった。
(ひょっとしたら、私の知人? そうすると、私はこの人たちに返事も書かず、失礼していた……)
しかし、どう考えても、この娘の姿に心あたりはない。
「私たちは、毎日あなたのランニング姿を見ていました」と、母親。
娘も微笑んだ。やさしそうな、瞳の輝く人だった。その人は左足が萎えている様子だった。
「松葉杖に慣れました?」
その人が、うなずきながら、口を開いた。
「あの頃は、私は車椅子でした」
よく響く小さな声だった。
穏やかに微笑んだ母親が、
「道路工事で、道がぬかって車椅子が反対側に渡れなくて困っていた時、あなたはわざわざ立ち止まって、それも通りの向こう側から駆けよってくれて、車椅子を抱えて運んでくれました。覚えていますか?」
「いえ」
私には、ランニング中のそんな一瞬のできごとの記憶はない。でも、雪解けの時や雨上がりには長靴で走っていた。
この母親には前に何回もどこかで出会っているような気がしたが、当時中学生で車椅子だったという娘のことは覚えていない。
「私は松葉杖で自由に歩けるようになりました。ほら、こんなに手ががっちり大きくなりました。早く足にも筋肉がついてくれればいいのにね……」
きれいな透明感のある声。
「この子はがんばりましたよ。あなたが高校二年のシーズンで活躍されてる頃でしたね、松葉杖に取り組みだしたのは……」
娘がうなずいた。
「それからこの娘もリハビリの壁にぶっつかって、投げ出したくなった時に、こう言ったのね。お兄ちゃんが東京の学校へ行くそうよ。今度はあなたが自分で歩いて、お兄ちゃんの試合を見に行きましょうって、約束したのよ、ね」
(私がお兄ちゃん?)
「そして、この子は今では松葉杖で歩けるようになりました」
(車椅子のこの少女と、毎日出会っていたのだろうか? 私は気づかなかった……)
私はこの二人を思い出そうと懸命だった。
「あら、お兄ちゃんだなんて! 勝手になれなれしく呼んでごめんなさいね。
私たちの間では、あなたはお兄ちゃんだったのよ。だって、あなたのスキージャンプ部の人たちは毎日、この家の前を走って行ったんですもの……。夕方になると、この娘は、今日はまだお兄ちゃんたちは来ないね……って、窓からカーテンに隠れて眺めていたんですよ」
(そうだったのか、二階の窓から私たちが走るのを眺めていたのか……)
学校から土手に出るのは、この家の角を折れる道である。私は、雪が積もってない限り、あるいは雨が降ってない限り、この家の前を毎日のように走っていた。
往復約五キロをタイム測定しているのでコースは変えない。
「休みの日なんかは、あなたは独りで走っていましたね」
私は学校が休みの日にも、体育館で筋力トレーニングを行い、ランニングを欠かさなかった。だから独りで走ることもあった。
「私たちはあなたの学校のスキージャンプ部のフアンです。特にあなたのファンでした。もちろん、今も、ですよ。スクラップブックにあなたの記事がたくさん取ってます」
(大会では、いつでも私らの学校は優勝候補だったし、また私も活躍したから、よく新聞に載った……)
「人間が百メートルも空を飛ぶということは、この子には驚きだったのですよ。そして、そんな人がこの家の前をトレーニングしているのですから、憧れたのです」
(そのとおり。私たちは百メートルほど滑空する……)
「あなたはりりしかったですね」
(えっ、なぜ?)
私のけげんそうな顔に、母が答えた。
「ほら、あの頃、私は、あなたの学校の華道部の講師でした。放課後の部活でお花を教えましたし、お茶も教えました……。あなたたち男子生徒には関係なかったわね。
それで、クラブの生徒たちがこの家に来てね、あなたのことをずいぶん噂してましたよ。あの頃あなたが一番尊敬されていたんじゃないの。私なんかが見ても、輝いていたわね」
(そうか、それで分かった! どうりで見たことがある人だ……)
母親は私の顔を見て微笑み、そして横に座っている娘の方を見た。
「私はこの家でお花、お茶、踊り、着付け教室を開いていました。でも、そのうち、車椅子のこの子が物心つくと、健常者の生徒の人をうらやましがっているようで、私はつろうございました。
でも、どうしようもないことでしょう。この子なりに自分の気持を整理して、耐えなければならないことですもの。この子もつらかったでしょう。
その頃、あなたが優勝した写真を新聞で見つけたのですよ。
あっ、あの人だ! ってね。
あなたが高校二年のインターハイでした。
この子のリハビリ生活の目標は、あなただったのです。鳥のように空を飛んで、あんなに勇気のあるフライトをするお兄ちゃんだって、毎日、懸命に練習に励んでいるんだから、私だってがんばらなくっちゃって、やる気を引き出してくれたのです」
(そうだったのか!)
「それからこの子は松葉杖に取り組みました。あなたのトレーニング姿を見ては、励まされていました」
「私は、最初は、杖にすがっても、立てませんでした」
母親が大きくうなずいた。
「何度も倒れました。そして椅子につかまって起きられるようになって、とうとう自分一人で立ち上がれるようになったのよね」
「そう、あの時、私は初めて自分で立てて、自分の身体が自分の自由になったと思いました。
松葉杖が使えるようになって、だんだん身の周りのことが自分で出来るようになって、私は生き返りました」
「あらあら、生き返るだなんて。大げさな話しだけど、この子にとっては、そのとおりだったのでしょうね」
「今ではずいぶん自由になりました。好きな所に行けるんですもの」
「この子が松葉杖で自由を獲得した時、私は心からあなたにお礼を言いたいと思いましたよ。この子に生きる目標……、手段を与えてくれて、本当に感謝いたします。
生涯、車椅子の生活なんて残酷ですわ。私がいなくなったらどうなるかって、ずいぶん悩みました」
「お母さんったら、もう私は大丈夫。
私が手紙を出した、あのHH杯の試合、お兄ちゃんが出るとは知りませんでした。
テレビを見ていて見つけたんですよ。
今だったら私は松葉杖で試合を見に行けるので、応援に行きたかったわね」
と、娘は私に微笑んだ。
「そう、この子は松葉杖でどこへでも行けるようになりました」
と、母親が私にうなずく。
「今は片足を使って歩いていますが、両足を使えるように挑戦します」
「両足を使えればね……」
「雪の中は不便でしょう。松葉杖だと雪に突き刺さるから、誰かに助けてもらわないとね……。だから、杖に頼らずに歩きたいの。
私はとても楽しいの。歩けるかも知れないんですもの。少しぐらい痛くとも、苦しくとも平気平気。自由に歩きたいわ。
もうすぐ私は手術をします。そうすれば左足がまっすぐ出るようになって、歩きやすくなると言われました」
「あなたが松葉杖なしで歩けたら、すばらしいわ」と、母親が娘を励ます。
「今、できるだけ足を地面につけて力をかけるようにして、少しずつ歩いているの。足に筋肉をつけるのよ。休んだら駄目なの……。スポーツ選手も三日休んだら筋肉が落ちるそうね」と、私を見る娘の黒い瞳が輝く。
私はうなずいた。
二人に退学したことを告げたが、心の中に、前にも増してスキージャンプへの執着が湧いてきた。
ひっそりと、つつましく暮らしている母と娘であった。
私は、休日はその家に通って、娘の歩行訓練を見守るようになった。
歩くというより、まずは松葉杖を外して両足で立つことである。
私が訪れると喜んでくれるので、居心地がよかったせいもあるが、私も彼女のリハビリの力になってあげられるような気がした。
そのうち、ウィークディでも退社後の練習の合間に時間を作っては訪問した。短い時間でも親娘と話していると気が休まった。
けなげな少女を見ていると、自分が勇気づけられた。
また、私には全力で生きている彼女の姿がまぶしかった。
そして、ゴールデンウイーク明けに行う、彼女の手術の成功を祈った。
第七章 誕生祝い
五月の上旬、病室に活けたライラックの花が散る頃、彼女は手術した。
私は一日置きぐらいに見舞ったが、彼女はすぐにベッドから起きだし松葉杖を頼りにギブス姿で病院内を歩きまわっていた。
そのうちギブスもとれ、リハビリ室に通うようになった。補助具のバーで両腕を支え、一歩ずつ足を踏み出す感触を身につけようとしていた。右足はずいぶん達者になったが、左足の機能は麻痺していた。彼女の場合、リハビリというよりも新たに歩行機能を獲得しようとしているのである。
退院してから、ふだんは松葉杖を離さないが、そのうち、私が訪れると、
「ほら、見てて!」と言って、杖を離して二本脚で立って見せた。左足が体重の一部を担うだけの筋力を得たのである。
そして、その次は、両足をそろえて立った状態から、片足を一歩踏みだそうとした。しかし左足に体重を乗せると身体が崩れ落ちた。
六月になって、差し出した私の腕に強く掴まり、ほんの少しだけど右足を踏みだして、私の胸に飛びこんでくるようになった。そしてだんだん歩幅が広がってきた。
右足の踏み出しができるようになって、次に萎えている左足を踏み出そうとした。
やがて夏になると、ついにその左足で一歩踏みこんで、私の胸に身体を預けられるようになった。
私は彼女の身体を抱きとめると、とてもいとおしい人をかばっているような気持になった。そして、ときどき、抱きかかえて運んであげたりした。
そんな時、母親が、
「あら、まあ」と、おどけた顔を見せた。
娘もはしゃいで、
「私は空飛ぶ人に抱かれているのね」
私の腕から伸ばした両脚を、ブラン…、ブラン…、させようとするのだが、左脚がうまくいかない。
それで彼女は両手を叩いてリズムを取って、
「タン、タン、タン、タン、タン。
お兄ちゃんのランニングの足音よ。あのリズムが懐かしいわ。
私も、あのように、足を動かしてみたいわ」
ある日、私は思い立って、彼女を温水プールに連れていった。
水着の彼女の脚は細かった。
水中では浮力が働いて身体が軽くなるので、萎えた足も動かしやすい。でも、彼女は左脚をゆっくりしか動かせなかった。
壁につかまりバタ足を、バチャッ…、ポチャ…と試みた。
そうやって何回か通っているうちに、バタ足の数が増え、少しずつ大きなしぶきがあがるようになった。
プールから濡れぼそった彼女の裸を抱き上げ、更衣室に運んだ。冷たい鳥肌が立ったような皮膚だったが、密着した肌にだんだんと彼女の体温が伝わってきた。私の首筋にまわした白い腕と、美しい顔立ち、量感ある上半身……、大人の女の肉体がまぶしかった。
そうやって、だんだん彼女の左脚はたくましくなっていった。
九月になると、彼女は壁とテーブルを伝って何歩か歩いて見せるようになった。
そして、そのうち、私が玄関をあけて案内を請うと、
「ハーイ」と、弾んだ返事が先にきて、しばらくして、奥の部屋から壁伝いに歩いて彼女が顔を出すようになった。
ある日、彼女は断髪した。
照れたような顔をして、玄関に出て来て、オカッパ頭を私にみせた。
「髪を洗うのが大変でしょう、だから、思いきって切りました。今は、自分で髪を洗えるんですよ」
そばで母親がほほえんでいる。
「お母さんのはさみの腕前はじょうずでしょう。私は満足してます」と、娘。
「長い髪の時は揃えるだけでしたから、簡単でした。このような短い髪になると難しいですね。うまくいったかしら?
でもこの娘には似合うでしょう。活発な顔をしてますからね」
「今にも走り出しそうですよ」と、私。
「まあ」と、母親。
二人は顔を見合わせて笑った。
母親のくすくす笑いが止らないので、娘がおどけて両腕を振って走る真似をして、そしてまた二人で笑い転げた。
ずいぶん変身して大人びたように感じたので、よく見ると、彼女は薄く口紅を引いていた。
やがて彼女は台所で調理を手伝うようになった。流し台に長時間立つことはできないので、椅子に腰かけて野菜をむいたりしている。味つけにこりだして、
「甘すぎる?」
「からい?」
「だしが効いている?」
「おいしい?」と、私にも問う。
「私たちったら、これまで仙人みたいな食事だったんですよ。この娘は食事が細かったからね……。造りがいもありませんでした」
「お兄ちゃんに元気が出るお肉を食べてもらわなければって、今じゃお肉が多いわね」
「今じゃ、この子も大食漢ね」
「何でも食べて、体力をつけなくっちゃ……。おいしい、おいしい」
「私は体重が増えすぎると飛べなくなります」
「それは困るわね。でもこの娘の料理の試食に付き合ってくだされば、食べ過ぎはないわよ」と、済ました顔の母親。
「まあ、ひどいわ。今に私の料理の腕は花開きます。お母さん色々教えてね」
ある日のこと、二人の心のこもった手料理が並んだテーブルにビール瓶が出ている。そして丸いケーキがあった。娘の十七才の誕生日だった。
私一人がグラスを勧められるので、
「お母さんもどうぞ」
「私はいいわ」
彼女は、断った。
「形だけでも……。乾杯して下さい」と、勧めるうちに、
「それじゃ、いただきますか」
と、グラスを二つ取りだした。
「未成年者は駄目よ。お兄ちゃんは成年ですからね! あなたは、ちょとだけですよ」と言いながらも、娘のグラスにもビールを少し注いで、三人で乾杯した。
「何年振りのお酒でしょう……。私は、お酒は好きです。でも、お父さんが亡くなってから、六年間、いただいていません」
母の飲みっぷりに、娘は目を見開き、自分もコップ三分の一ほどを飲み干し、すぐに真っ赤な顔をして胸に風を入れていた。
「こんなに楽しい食事は、夢みたい……」と、母親。
第八章 オコタンぺ湖
一
短い夏が過ぎようとする、ある日、ひたむきに歩行訓練に取り組んでいる彼女に、私は言った。
「君の長い人生だろうが、そんなに無理することはないのに……。ゆっくり、リハビリしたら……」
「訓練は若い方がいいらしいの……。私は早く歩けるようになりたいわ」
「大丈夫、きっと歩けるよ」
「そう、何とか出来そうな気がするわ」
「きっと、そうなるよ」
「私の人生で、早く、歩くことを取り返したいの……。私はそんなに待てないの……」
そう言って、キッと、口を結んだ。
(どうしてそんなに焦る?)
そして、普通の娘なら、今が一番楽しい時期だろう、と私は思った。
「私には失うものがないの……。なんでも挑戦してみるわ」
きらきらと黒い瞳が輝いている。
「私は、精一杯がんばるわ。今日やれることをやれば、明日は少しよくなっているでしょう。そうやって、明日、がんばって過ごせば、また、次の明日が来るわ。いつか、願いは叶います」
私は、この年下の娘に会うたびに、励まされているような気持になる。
そばから母親が、
「お兄ちゃんが家のそばを走っていた頃、この娘は、不自由な身体のことでずいぶん悩みました。でも、今、この娘はリハビリと勉強に夢中です」
「あの頃は、車椅子の自分のことを絶望していました。お母さんにも大変、苦労をおかけしました」
「そうね、あの頃、あなたが苦しんでいるのは分かっていましたが、私は何もしてやれませんでした。
いずれ、あなたは、独りで生活する時がきますから、何でも自分でやらなければ……、と、私は突き放していました」
「私は、松葉杖に挑戦しなさいって先生に言われていましたが、そのことの意味が分かりませんでした」
「あの頃、病院の先生に、右足には何も問題がないんだから松葉杖で歩けるようになります。左足だって麻痺の程度は軽いからもっと強くなります、って言われていました。
甘やかしてはいけませんって、私はずいぶん先生に叱られました。でもこの娘がその気になってくれなければどうしようもないでしょう。あなたが毎日、家のそばを走っている頃のことでした」
「でも、ある時、くよくよしていてもしようがないと気づきましたわ。
あんなに空中をジャンプできるお兄ちゃんだって、毎日、いっしょうけんめい走ってトレーニングしているんですもの、私だって、先生から勧められていた松葉杖の訓練に取り組もうと決心しました。
甘えないで、自分の運命は自分で切り開こうとしました。
だって自分の体のことだから、自分で解決するしかしようがないのです。
あの頃、そういうことが分かりました。
それで松葉杖に挑戦して、なんとか歩けるようになりました。私は、とうてい、お兄ちゃんのように、タン、タン、タン、タン、と走ることは出来ないでしようが、でも、ひょっとしたら、杖なしで遠くまで歩けるようになるかも知れません」
大きな目に小さく結んだ口。美しい白い顔がまぶしかった。
彼女は本来なら高校三年生の年齢であるが、通信教育で学んでおり、大学検定を受けるつもりでいる。毎日、養護施設に通って後輩の中学生身障者たちの勉強の手伝いをしながら、彼女自身も勉強している。そして、彼女の将来は養護施設の教師になることと決めている。
彼女に学科の分からない所を問われるので、家庭教師のつもりで一緒になって勉強した。
私は会社の勤めとトレーニング、そして経理の勉強に励んだ。そして、昼休み時間の居眠りの達人だった。
彼女はそんな勉強の合間に私のマフラーを編んでくれた。
気分転換になるのだそうだ。
無地の濃い茶色が私によく似合ったそうだ。
二
十月末の日曜日の朝七時半。
だいぶ前から、私は母娘をドライブに誘う約束をしていて、会社から借り出した車でやってきた。
免許取りたての私は、車を転がしたくてしようがなかった。
約束の時刻よりだいぶ早く着いたが、この家の周囲には駐車スペースがないので、車を土手の上に置いて、二人に連絡しようと家に向かった。
裏の庭の方に回りかけたら、突然、
「お母さんなんか、嫌い!」
と、悲鳴のような、娘のいきどおる叫びに、足を停めた。
(どうした?)
続いて娘がなじる声、
「ひどいわ! 勝手に見ないでっ!」
「…………」
「そんなひどいこと言わないでっ!」
「ごめんなさい……。でも、私はあなたの親ですからね」
母親の開き直った、静かな声が聞こえた。
どうやら娘の大事な、秘かな日記か手紙が母親の目に触れて、意見された様子だった。
娘の泣きじゃくる声。
「あなた、あなたは子供じゃないから現実を見すえなければいけません。あなたはハンディのある身体です。
お兄ちゃんは、あなたがいっしょうけんめいリハビリをやっているので、気の毒に思って来てくれているのです。そのうちお兄ちゃんに好きな人ができれば、時間がなくなって、うちには来てくれなくなります。
あなたがお兄ちゃんを好きになるのは、あんな立派な優しい人ですから、仕方がありません。しかし、あなたがお兄ちゃんを恋人と思うのは、自分勝手な判断です。あの人があなたに同情していることと、異性としての愛情を持ってくれるということは別なことですからね……。
お兄ちゃんは、うちの家族じゃありません。自由な立場の人です。そのことだけは覚えておきなさい」
「…………」
「ねえ、あなた。私はひどい言い方をしますが、好きとか嫌いとかで、誰もが悩みます。片想いとか、失恋する人は大勢います。でも、皆、そんなことは乗り越えていくんですよ。
あなたは他の人と違うということをよく承知しておきなさい。
それは、神様があなたに下さった試練です」
私は、その場に立ちすくんだ。
しばらく経って、玄関から案内を請うた。
赤い目をした彼女が出てきたので、わざと、
「おや、どうしたの?」
「母娘喧嘩。何でもないの」と、目を落としほほえんだ。
母親も出てきた。珍しくスラックス姿だった。
私は素知らぬふりをして快活にふるまった。
「さあ、けんかの仲直りは済みましたか? どちら方面へ行きます。ご希望は南の方角でしたね」
すると、娘が、
「私、支笏湖へ行きたい」
彼女は物心ついてから、いわゆる観光旅行はどこにも行ったことがないが、ガイドブックをよく読んでいて知識は豊富だった。夕べの電話では、「海、山、湖、行きたい所はたくさんあって、決められないわ。地球岬や噴火湾の海岸にも行ってみたいし、でも、どこでもいいわ、お兄ちゃんのお勧めコースへ連れていって……」と、話していたのだが、今になって急に支笏湖と言いだしたのだ。
「そう、支笏湖。いいわね、私も、久しぶりね。紅葉がきれいでしょう。ぜひ、支笏湖に連れてってくださいな」と、先ほどの冷酷な母が、気持を取り直したように娘に合わせている。
私は、登別から洞爺湖まで足を延ばして、そのあと噴火湾沿いに走ってみようかとも思っていたが、支笏湖がご希望とあれば、それはそれでぜんぜん問題ない。
「了解。すぐ出かけられますね」
私は車をとりに土手に向かった。
いつもの娘なら、真っ先に助手席に座っただろうに、今日はおとなしく母親に、「どうぞ」と、前の席を譲った。
支笏湖と洞爺湖は、支笏洞爺国立公園のふたつの湖である。支笏湖は周囲四十キロ、洞爺湖は周囲四十二キロと同じぐらいの大きさである。
両方とも火山の噴火口が陥没して出来たカルデラ湖だが、洞爺湖と支笏湖とでは雰囲気がぜんぜん違う。陽の洞爺湖に対し、陰の支笏湖である。
洞爺湖は中央に四つの島々があって比較的浅いが、支笏湖は最大深度三六〇・一メートルで、日本で二番目に深い湖である。訪れる人の数は圧倒的に洞爺湖の方が多い。
(この娘は、さきほどの出来事があって、支笏湖を選んだのだ……)
車中でも母娘の表情は固かった。
娘は、はしゃぎもせず静かに景色に見とれていた。私は、憂いに沈んだ彼女の表情が気になった。
運転している私は、絶えずバックミラーに目をやり、後続の車の様子を確認していなければならないが、そうやって、鏡の中の彼女の顔を眺めていた。
そして、時々、バックミラーの彼女の強い視線と交わった。何かを確かめようとする、真摯なまなざしだった。
私も彼女の瞳に強い意志を送った。
(私は、君を気の毒に思って、そばに居るのではない……)
高速道路に乗って、千歳を過ぎ、大きな白樺林の間の道を通ると、あっけなく支笏湖に到着した。
山々の頂きは雲に隠れて見えないが、裾野の紅葉が美しい。
恵庭山にも間もなく初雪が訪れよう。
湖畔に出ると霧が私たちを包んだ。
車の外に出ると、コートの下にセーターの支度をしていても寒い。
白い湿った冷気が、頬をなでていく。
湖面を這う霧の白色に濃淡がある。
白い幕の流れが部分的に途切れる瞬間があって、神秘的な青い湖面が映る。
まるで墨絵の世界。
「まあ」
「素晴らしいわ」
と、母娘は、それ以上の声もない。
緩やかに小さく波打つ水面。
湖面のたたずまいが幻想的に移って行く。
風が出て、刻一刻、白い気流がながされる。
霧の中から現れた湖面が広がり、対岸の山の端の緑に混じった赤と黄が映る瞬間がある。
身体が冷えてきたので、私たちは車に移った。
だんだん上空から晴れ出してきた。
やがて、湖面の霧は消えた。
私は、先を急ぐように、景観場所を探して湖岸沿いに車を走らせた。駐車できるスペースを見つけては車を停め、景色を楽しみ、二人を写真に撮ったり撮られたりした。
しかし、車の乗り降りなどで、いつもなら甘えて私の肩にすがったり腕を取ったりする彼女が、今日は、 私の差し伸べた手を、首を振って避け、かたくなに松葉杖を頼りに自分でやろうとしている。
(今朝のことで、すねるような彼女ではない……。彼女は何ごとかを決意しようとしている!)
(私も、妹のように扱ってきた彼女と、少し距離を置かねばならない……)
(それが、あの母親の暗黙の要望かも知れない……)
景色のいい場所がもっとあるかも知れないと、まずは、ひとまわり湖周を走ってみるつもりで車を動かした。
そして、ある入江に、陽が当たって風の来ない岩陰があったので、そこでシートを広げ早めの昼食を頂いた。
魔法瓶の、甘みを抑えた紅茶の香りが口中に広がりその暖かさが心地よかった。
海苔で真っ黒く包んだ梅干しのお握りがおいしかった。
「美味しいですね」と、私が言うと、
「おいしいでしょう。お母さんが握ったのよ。私の玉子焼きは甘すぎたかしら?」と、娘。
どうやら屈託は除かれだした。
「うちでお握りを作ったのは初めてね。夢みたいね」と、母。
お腹が一杯になれば、寛いだ気分になる。
いつのまにか山の端の雲が消え、周囲の山々が姿を現し、私も、だんだんこの湖の姿を把握でき、雰囲気になじんできた。
また車を走らせた。
道際の案内標識を、母親が目敏く見つけた。
「あらっ! オコタンペ湖!
あの湖に行けるんだわ。
すみませんが、オコタンペ湖に連れてって下さらない。
小さな、とても神秘的な湖なのよ」
いつも私には控えめな言い方をする母親が、珍しく興奮している。
支笏湖の湖面を離れ、標識の方角の坂道を上がっていった。
そうしたら、突然、その場所に到達した。道端の駐車場に案内板があって、それと分かった。
真っ先に母親が車を降りた。
頑丈な擬木の手すりにもたれて覗くと、遙か真下の谷間にその湖が見下ろせた。
「小さいのね」と、娘。
母親が息をころして見入っている。
「昔は、普通の人は簡単には近づけない秘境の湖だったのよ。こうやって、眺められるなんて……」と、呟くように母親。
確かにこの道路が出来たから、誰でもオコタンペ湖を眺められるようになったのである。
湖面は、やや緑がかっていた。黄と赤の紅葉の谷間に、青緑の宝石のように小さな湖が映える。
ガイドブックによると、周囲五キロ、最大水深二〇・五メートル。湖面の色が、ある時はエメラルドグリーン、またある時はコバルトブルーと、神秘的に変化し、季節によってさまざまな表情を見せる、とある。
母親は擬木の手すりに両手をおろし、身じろぎもせず湖を眺めている。その姿に、声をかけられなかった。
何を回想しているのか、思いにふけっていた母親が、私たちの方を振り返った時、眼鏡の奥の両眼が光っていた。
「私が娘の頃よ。登山で来た人から、この湖のことを聞いていました。
来てよかったわ。素晴らしいわ。
あなたのお父さんよ。この湖のことを話してくれたのは……」
娘は目をまん丸にして、大きくうなずいた。
私は気づかぬ振りをして、二人に背を向けた。
娘は母親の感動を壊したくなかったのか、私の側に寄ってきた。
私と娘は、景色に溶け込んだかのような母親を、そっとしておいた。
「私たちの他に、誰もいないのね」と、娘のひそめた声。
時々、車が通過するが、車を停めてこの小さな湖を覗き込む人はいない。
そしてこの湖は、そうっと眺めるだけに置かれている。
身を乗り出すように、擬木の手すりに体をあずけて、娘がつぶやいた。
「この湖には誰も来ないのね……。小さくて寂しそうで、まるで私のような湖ね」
(そうかも知れない……)と、私はうなずいた。
「お兄ちゃんなら、ここから湖まで、スキージャンプで飛び降りられるわね」
と、私の側の娘が、また、つぶやくように言った。
「そうね。日本にはないが、フライングヒルといって、二百メートルぐらい飛ぶ大きなシャンツエがある。それよりは、こっちの方が、だいぶ大きいね、でも、この斜面なら飛べそうだ」
「空を飛ぶ人だものね」
そう言って私の顔を見た娘が、すぐ、その小さな湖に目をこらした。
白いうなじだった。
(いつもの彼女なら、笑顔を見せるのだが……)
私は、思いつめた表情の、その小さな肩を抱きしめたい衝動を抑えた。
そのかわり、私は車に戻って地図を取りだしてきた。
オコタンペ湖へは、車の道路から谷沿いに登山道の印の点線があった。
「あそこへ行ってみるかい?」
「えっ!」
「いつか、連れてってあげる」
彼女の黒い瞳がまばたきもせず私を見つめている。
「そうだよ。夏なら行ける」
彼女はうなずいた。
私は彼女に、湖へ至る点線の道のりを示した。
「このぐらいの距離なら、すぐ行けるさ!
通る人がいなくて道が荒れて枝や草が繁って大変かも知れないから、一日がかりで行こう。身支度を整えて足ごしらえをして、手袋をして来よう。
いつか、あの湖のほとりに連れて行ってあげる。君は歩けるところまで歩いたら、その後はおぶってあげる。約束する」
その日の午後はすっかり晴れ上がって、だいぶ気温も高まり、そうなると娘も母親も表情が快活になった。
私たちはもう一度支笏湖に下り、湖畔をひとめぐりした。あちこちで車を停め、おおらかな青空と雲と紅葉の山々を写した湖面の景色を楽しんだ。
先ほどのガスにつつまれた湖面は神秘的だったが、こうやって晴れ上がった湖面は私たちの親水の気持をやさしく受入れてくれる。
なごりつきない私は、彼女らに、湖畔のホテルの温泉入浴を誘った。
母親は、タオルと洗面具は入手できるということで納得し、
「まあ、思いがけないことね」と、娘の顔を眺めた。
娘は、少しためらったが、母に従った。
湖面につながった露天の湯に浸かると、この支笏湖がとても親しみ深く思え、この旅が、私の生涯で忘れられないものになるような気がした。
湯上がりの上気した顔の二人と合流した。
黒髪を濡らした娘の顔は美しく輝いていた。
「この娘ったら、お風呂の中でバタ足の練習をするのよ」と、母親の告げ口。
はにかんでうつむく娘。
私は、あわてて帰るのがもったいない気持になっていた。
「のんびり寛いでいきません?
帰って、寝るだけにしましょう。レストランで晩御飯を食べていきましょう」
「お腹が空いたわ」と、屈託のない娘。
第九章 シーズンイン
一
とうとう、冬を迎えた。
彼女が立っていると、やや左肩が下がってわずかに背が曲がって見えるが、注意深く観察しない限り、身障者であるとは誰も気づくまい。
バランスをとることに慣れた彼女は、一歩ずつ足を踏み出し、歩けるようになった。
脚の長さの揃わない彼女は、大きく身体を揺すって歩く。
ゆーらっ…、ゆーらっ…、ゆーらっ…、と、彼女の歩くリズムがある。
口を固く結び、頬のゆがんだ表情を見れば、関節と筋肉の痛みに耐えていることが分かる。
立ち止まっては休み、また何歩か歩き出す。
そうやって遠くまで行き過ぎて、くたびれ果て、見栄も恥じらいも棄て、雪の上を膝と手をついて這って戻ってくる。
彼女にとって、萎えた左脚を使って這うことも大変な苦痛であることは、歯を食いしばったその顔に表れている。
そんな彼女はいつもジーパン姿。
「私もスカートを履いてみたいわ」と、笑う。
シーズンを迎え、私はスキージャンパーに戻った。
無心で飛んでいると、クラブの仲間うちで一番遠くまで到達することがある。
「さすがに、元候補選手だね」
そうやって、私は復活した。
シーズンも深まり、一月末の、なじみのHH杯スキージャンプ競技大会である。
今年も、あのオリンピックコーチの大先輩がテレビ中継を解説することは承知している。例によって試合前、私は彼につかまり、肩を叩かれ励まされた。
そして、今シーズン、私に付きまとうようにして何度もインタービューを受けた、チャーミングな人気女性レポーターも居た。
競技も大詰めとなって私の飛ぶ番がきた。
あいにく、またもや風が舞いだして、私はゲートバーに座ったまま待機している。
二
テレビ実況中継室。
「いよいよ、あと一人。最終ジャンプです」と、アナウンサー。
「強風のため、当たり外れの多い試合でしたが、この選手にはどう出るでしょう」と、大先輩の解説者。
「飛距離に、どのていど、風の影響があるのでしょうか?」と、女性レポーターの心配そうな顔。
「例え秒速一メートルの風でも、向かい風と追い風では、距離にすれば三十メートルほどの違いになります。
スキージャンプはその時の風で飛距離が違いますから、運、不運があります。でも、トータルしてみれば強い選手は勝っています」と、解説者。
「はじまりました。ほら、彼は両腕を伸ばしました。
さあ、はじまりました。
タァーン……、タァーン……、タァーン……。
彼の身体は、右手で太ももを叩いて、ゆっくり、リズムをとっています」と、解説者の弾んだ声。
「これは、彼のスタンバイのリズムですね。そうですね。コーチ」と、アナウンサー。
「ええ、そうです。スタンバイのリズムです」
「さあ、この選手のフライトに期待しましょう。この一発に彼の優勝がかかっています。
しかし、風の状態が悪いようです。こういう時の選手の心境は察せられますね。
どのくらいの風におさまったら飛ぶのでしょうか?」と、アナウンサー。
「風速五メートル以上の時は飛びません。でも、練習では十メートルぐらいでも飛んでます」と、解説者。
「そんな強い風は、恐くありませんか?」と、レポーター。
「恐いです。もちろん技術で補う要素もありますが、どんな上級者でも何パーセントかの、危険に至る確率はあります。
恐い気持を押さえて平気な顔をして飛びます。スキージャンプはそういうものです」と、解説者。
「勇気を試されるスポーツですね。誰彼が簡単に挑戦できる競技ではありません」と、アナウンサー。
「風で待たされるのは嫌なものです。
でも、リズムがあります。彼は大丈夫です。
合図が出たら、彼は、タン、タン、タン、リズムを速めて、跳び出していきます。見てて下さい」と、解説者。
「スタートバーで、ああやって腰かけている間、この選手は、何を考えているのでしょうね。
右手で、タァーン……、タァーン……、ゆっくり、ふとももを叩いています」と、レポーター。
「おやっ、風が強まりました。
こういう時は本当に嫌なものです。
横風に流されて、着地のランディングバーンを外れそうで、怖いものです。それと、突風にあおられて、空中姿勢を崩すのが恐ろしいです。
でも、そんなことを考えていたら飛べませんね。
この風が落ちつくのは、しばらくかかりますね。かわいそうですが……」と、解説者。
彼は続けた、
「この選手は完全に立ち直りました。彼はリズムを身につけました。
彼のリズムのことを話しましょう。
今は、タァーン……、タァーン……、ゆっくり肩が揺れて、静のリズムです。彼の右腕を見てて下さい、右脚のふとももを軽く叩いています。
このあと、静から動のリズムへ移るのが、彼のパターンです。
タン、タン、タンの、動のリズムは、彼本来のリズムです。
昨年のこの大会で彼は怪我から立ち直って復帰しましたが、あの時から身につけたリズムです。
タン、タン、タンは、私が想像するに、勇気を鼓舞するリズムです。
そして、今、気づきましたが……、これは、ランニングのリズムです。
ほら、イチ、ニイ、イチ、ニイ、……、
右、左、右、左、……、
タン、タン、タン、タン、です。
さっきの一本目を飛んだ時は、タン、タン、タンと、うなずくように、上半身で動のリズムを取ってました。
あの時もしばらく待たされて、追い風の切れ目で飛んだでしょう。
あのフライトは勇敢でした。
不利な追い風を受けてもK点近くまで飛んで、着地で姿勢を崩しましたが、よく立ち上がりました。
私は、感動しました。
タン、タン、タンのリズムに入った時は、この選手には恐い物なしです」と、解説者が熱っぽく話した。
すると、女性レポーターが、
「まあ、なるほど……。そうでしたの。タン、タン、タンは、ランニングのリズムですか!
たしかに、そうですわね。
でも、私は、彼の、タァーン……、タァーン……の、静のリズムにとても惹かれます。
このあいだの全日本選手権の二本目の、タアーン……、ターン……、ターン……が、とても素晴らしく思いましたの……。
あのフライトは完ぺきでしたわ。
スタンバイしてからの集中時間がずいぶん長くって、タァーン……、タァーン……、と落ちついて身体を揺すっていたのが、とても印象に残りましたわ」
「そうでしたとも。全日本選手権の二本目の時は絶好の向かい風が吹いていました。
そんな中で、彼はていねいに、タァーン……、タァーン……、と、ふとももを叩いて肩を揺すっていました。スタートの合図が出てから十五秒の間に飛ばなければならないのですが、あの時は、ずいぶんやっていました。残り五秒ぐらいで、タン、タン、タンに切り替え、飛び出しました。
今もやってます、このタァーン……、タァーン……の静のリズムは、何でしょうね。
彼は、ある瞬間、意識したように両手を伸ばし、それから、タァーン……、タァーン……と、ふとももを叩いてリズムをとりだします。何かの動きに合わせるようにも見えますが、無念夢想、何も考えない境地だと思います。無我の境地で、このジャンプ台に同化しようとしています。
彼はあの静のリズムで冷静さを取り戻し、復活しました」と、解説者。
すると、女性レポーターが語った。
「私は、あのタァーン……、タァーン……のリズムが好きです。とても落ちつきますね。勝負の前にあのような落ちついた動作は、とても魅力的です。
私は、全日本選手権のあと、彼にインタービューしましたわ。
『ゲートバーに座って待機している時、あなたは、両手を伸ばしてから、タァーン……、タァーン……と、肩を揺するようにしてふとももを叩いて、ゆっくり、リズムをとっていますね。
どういうきっかけで、あのリズムを身につけるようになったのですか?』と、私は聞きました」
「どう答えました?」と、アナウンサー。
「あのとき、彼は、自分が両手を伸ばして、リズムを取り始めることに、気づいてなかったと思いますわ。けげんそうに、私の顔を見てましたもの……。
そのうち思い当たることがあったのでしょうね、閃いたように笑顔になりました。
でも、返事は素っ気ないんですよ、
『そうですか』ですって、
とぼけているんですよ。
きっと、明かしたくない秘密があるんだわ」
「そうですか、秘密ですか」と、アナウンサー。
「彼は自分で意識して、タァーン……、タァーン……と、始めるのだと思いますよ。それで、最初に両手を差し出すように伸ばすのでしょう。あれがはじまりです。
そして、いったんあのリズムに入ると、後はまったく自然な振る舞いでしょう、いつの間にか、タン、タン、タン、のリズムに移りますが、その切り替えは、恐らく意識してないでしょう。
こんど、私も彼にその秘密を聞いてみましょう。
でも、答えてくれますかな」と、解説者。
「あっ! 合図が出ました。さあ!」
アナウンサーが叫ぶ。
「彼の右手は、タァーン……、タァーン……、タァーン……、タァーン……、
あっ! 変わりました。
タン、タン、タン、リズムを速めました。上半身が、
タン、タン、タン、動いています。
あっ! 跳び出しました。
身をかがめて……」と、アナウンサー。
「しっかりしたクローチング姿勢。大丈夫」と、解説者。
競技は終わった。
「ところで、コーチ。
あなたには昨年のこのHH杯選手権試合でも解説をお願いしましたが、あの試合のことを覚えていますか?
あの時、この選手は怪我から復帰したばかりで、決勝の一本目、素晴らしいジャンプをしましたね。しかし二本目は完全に失敗しました。
あの時、あなたの解説はこの選手にずいぶん思い入れて話されていました。覚えておいでですか」とアナウンサー。
「もちろん、覚えてますよ。この選手のことは、私はとても気になります」
「それでですね、あなたの解説が、厳しくてしんらつで、あの選手がかわいそうだと言う、視聴者からの電話が何本か局にありました。
彼はあなたの高校・大学の後輩だそうですね」
「そうですか。私の話は過激でしたか……。
でも、私はこの選手が好きなのです。
後輩ですし、高校の監督が私の親友ですから、私はこの選手のことは何でも知ってます。素質のある、真面目に練習する選手です。高校時代、彼はキャプテンでした。当時、三羽がらすと言われたチームメイトが居まして、他の選手たちは立派に活躍しているんですが、大学二年になってから彼はひどいスランプになりましてね……。なんとか立ち直って欲しくて、そんなひどい言い方をしたのでしょうか……。ごめんなさい。
あれから彼は東都大学を退学しましたが、でも、立ち直りました。彼は、たくましくなりました」と、解説者。
「ええ、勇気があって、かっこいいですね。この選手のジャンプは大空を飛ぶように見えますわ。少しでもシャンツエから離れて、遠くへ飛ぼうとしてます」 と、女性レポーター。
「そうです。マキシマムを伸ばそうとしてます」と、解説者。
「この選手を見てますと、勝とうとする気持ちよりも、より遠くへ飛ぼうとする気持ちの方が強いのではないでしょうか」と、レポーター。
「そうだと思います。
この選手は目覚めました。
スキージャンプという競技は、風の運、不運がありますから、勝ち負けにこだわると厳しいことになります。
大事なのは、その瞬間、少しでも遠くへ飛ぼうとする闘争心ですね。
この選手のこれまでのジャンプは守りに入って自滅したのですが、このように攻めると、勇敢な強い人です。練習熱心だし、それに踏み切りの技術は天性のものを持っています」
と、解説者は自分の話にうなずく。
「この選手はこれからどこまで伸びていくか楽しみですわ。私は応援します」と、レポーターの笑顔。
三
試合が終わって、私は寮に引き揚げてきた。
部屋に戻ってテレビの音を消した録画を見ている。
画面にはあの大先輩の顔が写っている。アナウンサーと女性レポーターがなにやらしゃべっている様子。
(次に、自分の二本目のフライトをチェックしよう……)
私はビデオを早送りした。
画面の中で、私はジャンプ台のてっぺんのスタートゲートのバーに腰かけている。
あの時、私は、雲の中に彼女の姿を思い浮かべていた。
彼女がほほえむ。そして、私は、
「さあ、おいで!」
と、両手を差し伸べる。
彼女は私に向かって歩き出す。
懸命に足を運ぼうと、踏み出した左脚に体重をかける苦痛に耐える。
上気した美しい顔をゆがめて歯を食いしばり、大きく身体を揺さぶりながら歩む。
揺れるように肩を動かして、ゆっくりした動作でないと彼女は歩けない。
ゆーらっ……、ゆーらっ……、ゆーらっ……、
私は、彼女が脚を運ぶリズムに合わせ、右手で太ももを叩く。
タアーン…、タァーン……、タァーン……、
私の意識は彼女と一体。
タァーン……、タァーン……、タァーン……、
彼女の動のリズムは、私の浮足立とうとする心を沈ませる静のリズム。
苦痛に耐える彼女の気持が私に乗り移る。強い意思で明日を切り開こうとしている彼女の精神が私といっしょに飛ぶ。
(いとおしい人。私が守るのは、この人……)
今日を精一杯生きる彼女は、明日の希望に輝いている。
(失ってはならない人……)
さあ、合図が出た。
(ようし!)
タン、タン、タン、タン、タン、タン、
(いくぞ!)
アプローチの斜面に身を屈めて跳び降りた私は、スキーの先端をそろえる。
私は眼前のシュプールを見つめ、膝を抱えるようにして滑降する。どんどん加速する。
カンテの勾配緩和で重力の垂直分力の微妙な変化を感じた瞬間、上半身が伸び上がり、円弧曲線の遠心力がスキー板に反力を与える瞬間、両膝が踏み切る。
練習で刻みつけたとおりに身体が反応し、何も考える余地はない。
そうやって私は空中に飛び出した。
前傾姿勢の身体に 揚力を受ける。
(ジャンプ台から、出来るだけ離れるのだ……)
風を切り、滑空する。
私は人々のどよめきの中に飛び込んでいく、
録画の最後に、解説席の大先輩、レポーターとアナウンサーが映し出された。
(大先輩がなにやら話しているこの部分はカット……)
私はこの大先輩が苦手なので、いつも、音量をゼロにして録画を見る。
(私は自分の飛ぶ姿勢をチェックしたいので、解説は不要……)
滑走姿勢はほぼ完璧。踏み切りもいい。
飛ぶフォームに問題ない。
着地姿勢も、アウトランもOK。
ビデオは終了。
さて、私は、これから彼女の家へ行く。
今日、応援に来てくれたはずだが、あまりにも多い観客で、姿を見つけられなかった。
彼女は、松葉杖を使わずに、雪の上をどれだけ歩けただろう。
了