8.裏切りにも似た一歩
翌朝、エリアスはラフェドの執務室に呼び出された。王宮内の執務室に呼び出される事はひどく珍しく、片時も国王の側を離れようとしない伯父のその行動に、余程昨夜すっぽかした事が逆鱗に触れているのかと、エリアスは思った。
とはいえ、恐縮しながら扉を開けた彼の目の前にあったのは、いつもと変わらず、何処か掴み所のない表情の伯父だった。少なくとも、怒りが表に現れているわけではない。もっとも、この伯父の場合、表情と感情が一致しているとは限らないのだが。
「おはようございます、伯父貴。」
「おはよう。昨夜はよく眠れたのか?」
「えぇ、それなりには。……お伺いせずに、申し訳ありませんでした。」
「何か、理由があったのだろう?」
穏やかに問いかけるラフェドの双眸が、偽りを許さないと言いたげに強く輝く。相変わらず怖い人だと心の中で思いながら、エリアスはその感情を一欠片も表に出しはしなかった。その辺り、彼も狸の血を引いているという事だろう。誰よりもラフェドに似ている青年は、同時にラフェドに似ているという事実を少しばかり嫌っていた。
促されるままに伯父の目の前の椅子に座ったエリアスは、緊張している自分を宥める為に深呼吸を繰り返した。そんな甥を見ても、ラフェドは顔色一つ変えない。真っ直ぐと自分を見てくるラフェドの瞳を見返して、エリアスは不敵と取られてもおかしくはないような笑みを浮かべた。
「それで、例の青年はどうなった?」
「まだ何も確認していません。それなりに仲良くはなりましたが。」
「ほぉ……。お前にしては珍しい事だな。仕事は迅速に行う質だったのではないのか?」
「えぇ、そういう性格です。…………仕事なら、ね。」
思わせぶりな口調で言葉を切ったエリアスを、ラフェドは静かな瞳で見ていた。この伯父の、凪いだ海を思わせるような瞳が、彼は苦手だった。何故苦手かと言えば、凪いでいるように見えてその奥に、荒波よりも尚質の悪い激情が潜んでいると知っているからだ。
「伯父貴。」
「何だ?」
「……俺は、俺個人として、あいつを手に入れる。ケフェウス・フリーデンが、『不死者』であろうと関係ない。任務放棄でも何でも構わないんだ、伯父貴。俺は、アレが欲しい。」
「…………。」
躊躇いなく言い切ったエリアスを見て、ラフェドは目を見張った。彼は、自らが目をかけている甥の性格を知っていた。彼に誰より似ていながら、異なる道を歩もうと必死になる姿も。特別な誰かをつくる事をあくまでも拒み続ける、シーリン一族としては何処までも異端な青年だった。
その彼が、欲しいという。血縁者以外の、赤の他人を、欲しいという。不覚にも、喜びを感じてしまった自分をラフェドは自覚した。彼は甥を可愛がっている。その不器用な性格も、彼を恐れる気質も、何もかも含めて。もう1人のわが子と言っても過言ではない程に、愛しているのだ。
だからこそ、目を細めるだけだった。咎めの言葉を口にする事はない。それが任務放棄という名の裏切りであったとしても、ラフェドは別に気にしたりはしない。その事実は、実は意外にエリアスにもピネウスにも知られていないが。
「引き入れるという事に変わりはないのだな?」
「引き入れるつもりは、あります。ただ、あいつがなびくかどうか……。」
「お前が本気で欲しいと思うならば、なびかせるのは出来るだろうな。」
「……は?」
「今までお前が本気になったことがあるか?」
「…………ありません。」
特にやる気を出さなくとも何でも出来るエリアスは、必死に何かをやるという事がなかった。武芸も、学問も、この特殊な任務も。それ程焦らなければならないような事はなかったのだ。彼はいつもそうだった。それが、満たされない飢えを与えていたのも、また事実。
本気になれなかった。これまでの半生を振り返って、エリアスはそう思うのだ。ケフェウスに出会って、初めて本気になったのだ。しばらく双眸を伏せていたエリアスが、瞼を開けた。その瞳に宿る光の強さに、ラフェドは満足そうに笑った。
強い、光。エリアスという人間の持つ、最大の強さを封じた光。何の根拠もない事ではあるが、何もかもが彼にひれ伏すように見える。それ程までの力が、その瞳には溢れていた。不可能さえも可能にしてしまうような、強さが。
「期限は問わぬ。彼の青年を手に入れろ。ケフェウス・フリーデンの腕前を確かめ、引き入れるのだ。」
「承知しました。……家の為でも国の為でもなく、俺自身の為に。」
「それでいい。己の為に利己的に生きる時にこそ、ヒトは何よりも強い力を発揮できるのだからな。」
「……伯父貴、それって自分の経験談?」
「私がどういう人間か、お前は誰より知っているだろう?」
「…………そだですね。」
一度でも利己的以外の目的で行動した事があるだろうか。伯父には失礼だと思いながら、エリアスはそんな事を考える。それでも、この伯父を好いている。この伯父にならば、裏も表も全てさらけ出せると知っているからこそ。
エリアスは、ゆっくりと立ち上がった。扉の前に立った彼を見て、ラフェドが口元に笑みを浮かべる。その後ろ姿に、常にはない気迫がある。己さえ軽んじていた青年の本気が、そこにあった。
「今度会う時は、吉報をお持ち帰りします。」
「期待している。……後悔だけは、しないようにな。」
「当たって砕けるなら、それまでです。……逃げるよりは、マシだ。」
一度は逃げた。だからこそ、二度逃げるわけにはいかない。その決意を、エリアスは固める。ドアノブを握る掌が、じんわりと汗を持って滲み始めた。けれどエリアスの双眸は、濁る事はなかった。揺らぐ事も。
扉の向こうに消えた甥の姿に、ラフェドは笑う。ようやっと本気になったかと、彼は独白した。嗾けただけの甲斐があると、楽しそうに笑った。幸いな事に、それを見た者は、誰一人としていなかった……。