7.縋り付いた腕の主
その突然の訪問者に、ピネウスは思わず息を呑んだ。その存在が彼を訪ねてくる事は、別段珍しくはない。彼が驚いたのは、常と全く異なるその様子だ。明瞭快活、ついでに喰わせ者で、何処までも我が道を行く。そんな印象しか与えなかった従弟が、暗い影を背負って、それこそあまりにもらしくなさすぎる表情で、扉の前にいたのだ。
「……何をやっている、エリアス?お前、父上は……?」
「…………今晩泊めてくれ。」
「いや、泊めろってお前、父上と話を……。」
「今は無理。絶対無理。伯父貴の前行ったら俺、絶対壊れる……。」
「はぁ??」
何を言っているんだお前はと言い掛けて、ピネウスは止めた。彼は、ふと思い出したのである。まだ彼等が少年と呼ばれていた頃、いや幼年期といった方がいい頃、両親と喧嘩をして飛び出してきた時の、傷ついたエリアスと同じだ。まさか大人になってまで、逃げ込まれるとは思わなかったが。
ただし、ここはシーリン家の本宅ではない。ピネウスの自宅ではなく、ここは王城内の彼の部屋である。したがって見回りの兵士達が、2人の姿を凝視していた。扉を開け放ったままで、ピネウスにエリアスが抱きついている。実際には顔を見られないように肩に埋め、震える腕で縋り付くようにしがみついているのだが。
あぁ、とピネウスはふっと遠い目をした。おそらく、噂は小一時間もしないうちに駆け巡るだろう。そしてきっと、嬉々とした顔をして、彼の主人がやってくる。何があったんだと問いかけるカドモスの、無邪気な笑顔が、考えるよりも先に脳裏に浮かんで、青年は溜め息をついた。
「解った、泊めてやる。だからとりあえず離れろ。」
「……悪ィ。」
ひょこひょこと寝台の方へと歩いていくエリアスを見送って、ピネウスはちらりと廊下を見た。興味津々といった風な兵士達を見て、ニッコリと笑う。さっさと仕事にもどれという威圧を込めた笑顔に、はっとしたように兵士達は散っていった。
まったく、厄介事ばかり増やしてくれる。血の繋がった弟妹達よりも、この従弟の方が騒ぎを起こす。ついでに、何時だってその被害はピネウスまで回ってくるのだ。別に構わないがと思いながら、何があったのかと問いかけられない彼である。
ピネウスは、エリアスをよく知っている。それこそ、エリアスの家族よりも彼をよく知っているだろう。脆い自分の姿など、意地でも他人に見せない青年だ。時折思いだしたかのように、不意にピネウスの前に弱さがさらけ出される。けれどそれも、幼年期を越えた頃にはなくなった。だからこそピネウスは、何故今更と問いかけたいのだ。
「夕食はどうした?私は食べたが、お前がまだなら、」
「いらねぇ……。」
「いらないじゃないだろう。三食きっちり食べないと、身体がもたないぞ?」
「お前、その発言、まるっきり母親のそれ……。」
「お前のような無茶苦茶な息子はいらん。」
エリアスが本調子でない事が解っているからか、ピネウスの言葉の鋭さも常よりも柔らかだ。そんな相手の無意識の心遣いを感じながら、転がり込む先を間違えたかも知れないと、エリアスは思う。
ピネウスは、優しい。口では厳しい事を言いながら、エリアスの味方でいてくれるのだ。幼少時に彼が両親に責められていた時に、只一人、当然のようにエリアスを庇ったのはピネウスだけだった。無論、その後ラフェドが仲裁に入ったのだが。
その時のすり込みか、窮地に陥るとピネウスを頼る。そんな自分をエリアスは知っていた。止めた方がいいと思いながら、抜け出せない。本当に極稀に、大人になってからは殆どなかったせいか、自分でもそんな風に縋っている事を遂うっかり忘れていたが。
「…………聞かないのか?」
「何があったのか、と?あぁ、私は聞かないさ。言いたくない時は何があっても言わないし、逆に聞いて欲しい時はこちらが嫌がっても話すだろう?だから私は、お前がしたいようにするのを待つだけだ。」
「……素敵だぜピネウス。流石我が従兄殿。」
「ただし、父上の方は知らないからな。明日何かを言われても、私を巻き込むなよ。」
「……了解。」
釘を刺されたエリアスは、寝台の上に俯せになった状態で、顔だけをちらりとピネウスに向けて答えた。そんな彼を見て、やれやれとピネウスは肩を竦める。その顔が、はたと真顔になった。こめかみを指先でぐりぐりと押しながら、彼は口を開いた。
「お前、何処で眠るつもりだ?」
「…………寝台、却下?」
「ソファで寝ろ。私が眠れない。」
「んじゃ、2人一緒って事で……。」
「眠れないわけではないが、大の男が2人、仲良く並んで、同じ寝台で一晩を明かすのか?」
「………………従兄弟だし、いいんじゃねーの?」
少しばかり引きつった笑顔でエリアスは告げる。ピネウスは、無言で首を左右に振った。だよなぁ、と彼は従兄に同意した。本人達は別にただ眠っていただけなので全然平気だが、もしそれを起こしに来た誰かに目撃されたら、困る。物凄く、困る。
過去に一度、妙な噂が流れたのだ。その時は、きっちりばっちり2人で眠っているところを見られた。宴会騒ぎで飲み過ぎたエリアスを、ピネウスが引きずって連れてきたときのことである。 あの悪夢は何年前だったかと、2人揃って遠い目をした。
「解った。ソファ借りる。毛布一枚貸してくれ。」
「ほら。夜は冷え込むからな。風邪を引くなよ。」
「平気平気。野宿もしょっちゅうやってるから。」
「まぁ、そうだろうな。」
病原菌の方が逃げそうだ。ぼそりと呟かれた暴言に、エリアスは片眉を跳ね上げた。言うに事欠いてそれは無かろう。そんな風に言い返そうとして、止めた。半ば以上本気で、何の躊躇いもなく思っているのだ。従兄の中の自分というモノを、彼はよく知っている。
ゴロリとソファの上に横になり、エリアスはピネウスに背中を向ける。寝台に入って眠る体勢を取ったピネウスは、何も言わなかった。視線を向けるわけでもなく、ごく平然と眠ろうとする。そんなピネウスのさり気ない優しさに、エリアスは感謝する。
ぽつり、と言葉を零したのは、その所為だろう。この従兄は、何があっても自分を見捨てない。その確信があったからか、彼は口を開いたのだろう。明確に纏まっているわけではない思考を、纏める為であったのかも知れないが。
「……俺はさ、昔から一人でいいって思ってたんだ。一人の方が絶対いいって、お前みたいに、大切な誰かなんて、俺には絶対に、必要ないって思ってた。そう思い込んで、今までこうやって、生きてきたんだ。」
「そうだな。お前は一人で立てる、強い人間だ。」
「でもそれは、俺が、逃げてた証拠なんだと、思う。大切な誰かを作るのが、俺はひどく怖くて、逃げてた。…………逃げて、たんだ……。」
「…………。」
毛布の端を握りしめる指先に力がこもり、うっすらと血管が浮かび上がる。背中を向けたエリアスの肩が震えている事をに、ピネウスはあえて気付かないフリをした。自尊心の高い従弟の精神を、傷付けないように。
「……俺は、卑怯者だ。醜くて、愚かで、俺は……。」
「それでも私は、お前のその生き方を羨ましいと思うぞ。何があっても揺らぐ事のない信念を、自分の思いだけで貫き通せるお前の、その強さが。」
「…………ありがとう。」
お前はいつでも優しい。言葉に出来ない感謝の念が、エリアスの胸中を駆け抜けた。それに気付いているのかいないのか、ピネウスは寝息を立て始める。眠りについた従兄の気配を感じながら、エリアスは目を伏せた。
欲しいと、思ったのだ。目の前の優しい従兄以外に、自分を認めてくれる伯父以外に、初めて欲しいと思った、存在だった。他の誰にもそんな感情を抱かなかったエリアスが、初めて欲しいと願ったのが、ケフェウスだった。
それが、彼が『不死者』であるからなのか。それとも、全く別の何かであるのか。その答えは、エリアスにも解らなかった。ただ、脳裏に浮かんだ漆黒の髪の青年の、影を宿した寂しげな双眸を思いだし、不意に、腕を伸ばして、掴みたいと願ったのだ。
自分でも、その感情が何であるのか気付かぬ内に。ただ漠然と、彼の青年が欲しいなと、彼は思った。傍らにある、大切な存在として。唯一の、特別として。