6.芽生え始めた初めての感情
ケフェウスと別れたエリアスは、伯父との約束となっている夜にはまだ程遠い事を思いだし、殆ど足を運ぶ事の無くなっている実家へと向かった。彼を出迎えたのは年老いた執事で、その柔らかな笑みだけが、彼を迎えた暖かいモノだった。
帰ってきたのかと、少しばかり不快そうな声がした。見上げた階段の先には、不機嫌そうな顔をした父親。白いモノの混ざり始めた純金の髪に藍色の双眸を持った実父が、エリアスを軽蔑するような眼差しで見詰めていた。
「お久しぶりですね、父上。お元気そうで何よりです。」
「……ふん。久しすぎて貴様の顔など忘れたわ。」
「相変わらず性根の拗くれまくった性格で、俺も大層嬉しく思います。お陰で貴方を尊敬できない自分が、ひどく普通に思えますからね。」
「エリアスッ!」
「俺などいらぬと、異端は必要ないと、そう言いきられたのは父上でしょう?ならば俺に構わず、お好きに生きて下さい。」
後の事は弟妹達に頼んで下さいよ。低い声で脅すように呟いた後に、エリアスは冷気さえ纏った微笑を浮かべてみせた。父親がビクリと身体を強張らせるのを見届けた後に、彼はスタスタと殆ど使ってもいない自分の部屋へと向かった。
扉を開けて中に入り、何年ぶりに足を踏み入れるのだろうかと、そんな普通ならば考えないような事を考えた。国内にいる時の殆どは、本家の本宅へと厄介になっている。自宅に、彼の居場所はない。嫡男でありながら何処までも異端である彼を、父親を初めとして家族は誰も受け入れない。弟妹達も、母親ですらも、彼を軽蔑してみているのだから。
いや、そのように彼を異端扱いする人々が、正しい。彼を信じられない程に可愛がる伯父・ラフェドも、ごく平然と言葉を交わし怒鳴りつけてくる従兄・ピネウスも、エリアスという存在の異質性を考えれば、おかしい感覚の持ち主になる。無論、シーリン家当主とその跡継ぎに向けてそんな事を言うような、明らかに馬鹿な真似をする者達はいないが。
彼は、シーリン家の人間としては、明らかにおかしいのだ。本家の人間は、直系王族の警護役として生きる。その存在だけを護る為に、他の全てを斬り捨てる。その気質は分家にも受け継がれ、そしてその類い希なる才を求め、多くの貴族達の護衛として職に就くのが、シーリン家の習わしだ。
分家の跡を継ぐ者達だけが、後に職を辞めて家を継ぐ。その時の当主の弟妹にあたる『ルタ・シーリン』の一族、そしてそれ以外の『エル・シーリン』の一族。当主が代われば、『ルタ・シーリン』は『エル・シーリン』になる。そうなってもあり方は変わらないのだから、何の不都合もないが。
そういう風に、皆が誰かを護る為、唯一のヒトを求めて、大切な、心の奥底をしめる存在の為に、生きる。シーリンの一族というのは皆、そうやって、誰かの為に、他の全てを斬り捨てるだけの強さと、惨さを持ち合わせていた。そしてそれは、時に、信じられない程の自己犠牲を生む。だが、そうでなければシーリンの血を継ぐモノでは有り得ない。他の誰よりも、一族の者達がそれを知っている。
その中にあって、只一人。エリアスだけは、そうではなかった。彼は、自らが仕えるべき相手も、護るべき相手も、持たない。求めてもいなかった。そんなモノはいらないと平然と口にする、彼はそういった意味で、限りなく異端なシーリン一族だった。
「今まで一人で生きてきた。これからも、一人でいい……。」
揺らぎそうになる自分を押し止める為だけに、言葉を綴る。そう、今、エリアスは揺らいでいた。彼は、自分の中に誰かの存在が住み始めている事を、本能的な恐怖と共に自覚していたのだ。
恐怖。その理由は、彼の伯父であるラフェドにあった。エリアスは、日頃どれだけで否定していても、自分が伯父である男に誰よりも酷似している事を自覚している。それ故に、彼は怯えるのだ。
ラフェドの現国王に対する忠誠は、怖い程に深い。反逆の意志ありと見なしたならば、一族ですら斬り捨てる。妻子ですら、彼は眉一つ動かさずに断罪するだろう。そして、その彼の一面を理解しているのは、エリアスだけだ。
周囲は、誤解しているのだ。現在のテバイ国王は元来病弱で、だからこそラフェドが、過保護なまでに彼の身辺に気を配るのだろうと。そうではないと言いかけて、エリアスはいつも止める。それは、告げてはならない言葉なのだ。開けてはならない小箱の鍵のように、封じられるべきモノなのだ。
エリアスは恐怖していた。その忠誠が、いきすぎた自己犠牲と歪んだ親愛の情に基づいていると知っているからこそ。だから彼は、自分にとって大切な誰かなど作らなかった。特別な存在を持たずに、一人で生きてきた。
特別を持てば、自分が伯父と同じモノになる事を彼は知っていた。
それで良いと思っていた。今までも、これからも。一人で、大切な誰かなど作らずに、皆同じで。もしくは、興味の対象にすらならない程に、意識から追いだして。そうしなければ自分は、何より危険な存在になる。それが、彼には解っていたのだ。
けれど、ジワジワと感情が広がる。そんなモノは知らなかった。ケフェウスに出会い、その瞳を見て、彼を少しずつ知っていく。その過程のうちに、何かが彼を蝕んでいった。それが『情』というモノだという事を、エリアスは知らない。
何故、あいつなのか。何故、ケフェウスでなければいけないのか。何故、任務放棄をしてまで、繋ごうとしたのか。何故、彼の拒絶をあそこまで恐れたのか。
その理由が、解らなかった。特別にしてしまう理由が、彼には解らなかった。他の誰でもなく、何故ケフェウスであるのかが、解らないのだ。その理由が解れば、まだ、戻れるのではないか。そんな事を彼は頭の片隅で考える。
——……アイツハ不死者ダ。アイツハ死ナナイ……。
「…………ッ!!」
自分という存在の醜い部分を、叩き付けられた気がした。シーリンの血を引くモノである以上、誰かを求めるのは当然。それを必死に押さえ込みながら、飢えを抱えていたエリアスにとって、『不死者』である可能性の高いケフェウスは、魅力的すぎた。だから彼は、逃す事を怯えるように、躊躇ったのだ。
「……は、何だ、それかよ……ッ。」
くだらねぇ。毒を吐くように呟いて、どさりと寝台の上に倒れ伏した。醜い自分の、本性の一欠片。それを見つけ出した気がして、ひどく悔しかった。傷付けるように、戒めるように、強くきつく、喉をかきむしった。
爪の跡がついているだろう。そんな事を思いながら、声を押し殺して呻いた。くだらない理由で、任務を放棄した。自分の欲望の為だけに、伯父の信頼を裏切った。居場所を、自らの手で粉々に砕いたのだ。
「…………馬鹿なヤツ、俺って……。」
そう独語したエリアスの頬を、彼自身は自覚していないだろう涙が一筋、流れた…………。