1-09 孝の入院、そして再襲来。
「孝くん……良かったよぉ」
救急車で病院に搬送された孝は、幸いにして右足首の骨折、右肩の脱臼と、全身の擦り傷という、事故の状況から考えれば奇跡とも言えるほど軽いものだった。孝たちを救ったのは、交差点にあった標識のポールだった。突っ込んできた暴走車がこの標識のポールに衝突して止まったために、椿と明日実にタックルした時にポールの外側に残っていた孝の右足がポールとともに車に衝突、衝撃で孝は吹っ飛び、肩から落ちたために右肩を脱臼した、ということだ。ポールは衝撃でポキリと折れたが、たまたま事故の瞬間に他の人間が交差点付近にいなかったことで、ケガをしたのは孝と、折れたポールが当たった車のドライバーだけ。椿と明日実は孝がタックルで歩道に押し戻していたことで難を逃れている。また、ドライバーもポールの直撃ではなく、ポールが当たって割れたガラスで軽い擦り傷程度のケガしかしていないため、すでに過失運転で警察に逮捕されている。
「2人にケガがなくて良かったよ。庇ったのに庇いきれてなかった、とか庇ったことで逆にケガをさせてしまってたら情け」
「バカッ! いくらわたしたちにケガが無くたって、孝くんがケガしてたら意味が無いでしょっ!」
ベッドの上で痛々しい姿を晒しながら、それでも微笑む孝を、明日実が怒鳴りつけた。
「そうよ! 救急車が来るまでの間、私たちがどんな気持ちでいたか、少しは考えてよ!」
それに椿も同調する。
「……そうだな、心配させたことは間違いないもんな。悪かったよ、2人とも」
再会して以降、初めて見る本気で怒った姿に、孝はショボンとして2人に謝った。
「うん。でも、庇ってくれてありがとう」
「ありがとう、孝くん。ところで、明日実。事故のとき、運転手の表情って見えた?」
孝の謝罪を受け入れた明日実と椿だったが、椿が唐突に明日実に訊ねた。
「運転手の表情? ううん、見えなかったけど、どうかしたの?」
しかし明日実は首を横に振ると、真剣な表情をしている椿に聞き返す。
「気のせいだと思いたいんだけど、あの運転手、こっちに向かって突っ込んでくるときに、笑っているように見えたのよ。普通、事故を起こす寸前だと驚いたりしているものだと思うんだけど、なんか嫌な予感がして……」
すると、椿は自分が見たものを話した。
「単純に考えれば、何かしらの危険な薬物を使用してた、ってのが自然な考え方なんだろうな。まあ、警察も来ていたし、そのあたりもすぐ調べがつくと思うよ」
孝は椿の話から、思いつく限りの推測をしてみたが、自身は車に背を向けていたためにそれを見ていないので、実際どうなのかはわからない。
面会時間が終わる、ということで椿と明日実はまた明日来る、と言い残して病院を後にした。
「椿、どうかしたの? なんだか顔が怖いよ?」
病院があるのは南父分。駅から少し離れたところに病院があるが、病院へは孝とともに救急車に乗り込んで向かったため、病院のスタッフに駅までの道を聞き、駅へ向かって歩きながら、明日実が椿に訊ねた。
「えっ? そうかな? 私、そんなに怖い顔してた?」
どうやら椿には自覚が無かったようで、さも意外そうに明日実に聞き返す。
「うん。わたしはまだ椿と知り合ってほんの数日だけど、昨日、孝くんの家の前でケンカになりかけたときよりずっと怖い顔してたよ」
明日実は頷き、比較対象を挙げて程度を表した。
「あー……うん、ゴメンね。アレより怖い顔って、相当なものよね」
昨日の騒動ではかなり表情を険しくしていた自覚があったのだろう。椿はその表現で理解し、明日実に謝った。
「いや、謝ることでもないんだけど、何があったの?」
すると明日実は、心配そうに椿に事情を訊ねた。
「うん、実はね……」
椿も、孝をめぐるライバルとはいえ、休戦中であり、友達として本気で明日実が心配してくれているのが伝わってきたため、事情を話した。
前の高校の頃に知り合った他校の生徒がストーカーまがいの行為をしてきていたこと、それを孝に相談して解決してもらったこと。
「そ、そんなことがあったの……? 孝くんに守ってもらえてうらやま……じゃなくて、そのこととさっき椿が怖い顔していたことは何か関係があるの?」
椿の話を聞いて、一瞬明日実の本音が漏れかけていたが、話の内容と椿の表情に繋がりが見えなかったために改めて訊ねる。
「考えすぎだとは思うんだけど、私に付きまとっていた人が孝くんに恨みを抱いて、取り巻きとかを使って報復のために故意に事故を起こさせた……ってサスペンス系のドラマの見すぎかしら。両親がしょっちゅうそういうドラマを見ているから、私もついつい見ちゃうのよね」
椿は心配性というべきか、想像力豊かというべきか。想像どころか、もはや妄想と言われても反論できないほど突拍子も無さそうなことを考えていたようだ。
「いくらなんでも、それは考えすぎじゃない? だって、そのストーカー行為をしていた人、ナイフを持ってたことで警察に逮捕されてるんでしょ?」
すると、明日実が椿の心配を笑い飛ばす。
「そう、だといいんだけど……」
椿はまだ心配を拭えないのか、弱々しい笑顔しか浮かべられずにいる。
そうこうしているうちに、2人は南父分の駅に到着した。
一方その頃、孝は1人で考えをめぐらせていた。一応、部屋は4人が入れる大部屋だが、現在孝の他に入院患者はいないため、広い部屋にポツンと孝のベッドだけがある状態である。
(もしも椿の言っていた『嫌な予感』が的中していて、あの事故が故意に起こされたものだとするなら、犯人は? まさかな……無いとは思うけど、念のためにあいつらに協力を仰いでおくか)
本来、病院内では携帯電話の使用は禁止だが、孝はベッドのカーテンを閉め、さらに布団を被って身を隠しながら、どこかにメールを送るのだった。
南父分の駅に着いた椿と明日実だったが、タイミング悪く、電車が行ってしまったばかりだったようで、駅のホームで10分強、次の電車を待つこととなった。とはいえ、椿と明日実には大した時間でもない。孝、という共通の話題を持つ2人。椿は小学生時代の孝を知らないので明日実にある程度(といっても1年半分だけだが)聞けるし、明日実は逆に中学生時代を椿に聞いて、共有することができた。
「孝くんって、小学生の頃から自然にヒーローっぽい振る舞いをしていたのね」
小学生の頃、孝が階段から突き落とされた明日実をヘッドスライディングで庇ったエピソードには、椿も驚き、やや呆れたようなコメントをしていた。
「中学の頃はそういうエピソードって何かあったの?」
すると、逆に明日実が椿に中学時代の孝について訊ねる。
「ううん、少なくとも、私が孝くんと同じクラスだった2年生と3年生の、私が知る範囲では無かったわね。ただ、毎日日替わりで男女のペアで回る日直の時なんかは、パートナーを組む女の子には学級日誌だけを頼んで、孝くん自身はそれ以外の雑務をほとんどこなしてたわね。本人曰く、『オレは字が汚いから、日誌を書くのは字がきれいな女の子に任せる。その代わり、オレは黒板をきれいにしたり、その他面倒な雑務を引き受けるんだ。適材適所、それが一番』って言ってたわ」
しかし、椿は首を振った。小学生の頃や、ここ最近のような身を挺して女の子を助けるようなエピソードは無い、と。だが、日直当番では適材適所と称した自然なフェミニスト振りを発揮していたようだ。
「そうなんだ。なんだか、孝くんらしいね。あ、電車来たみたい」
結局、明日実が抱いた感想が全てなのだろう。孝はいつだって孝。あくまで目の届く範囲に限るものの、困っている女の子を見ると放っておけない。相手によっては自分の身を挺してでも助けに入る。言葉にして表現すると、孝が下心満載の女たらしに見えてしまいかねないが、実際にそれを感じさせないのは孝の性格によるものだろうか。
話をしていれば、10分や20分などあっという間に過ぎていく。到着した電車に乗り、椿と明日実は2駅先の北羽村へ向かうのだった。
病院を出たのは面会時間が終わる20時だったが、病院から駅まで15分程度歩くことに加え、電車待ちをしていたこともあいまって、椿と明日実が北羽村に戻ってきたのは21時を過ぎようかという時間だった。
「遅くなっちゃったわね」
「まあ、いつもの下校時間に比べたら確かに遅いけど、それでもまだ21時だし、椿だって連絡くらいはしてあるでしょ?」
携帯電話で現在時刻を確認しながら椿が苦笑いを浮かべると、明日実が首を傾げた。
「それはそうなんだけどね、この前のストーカーの一件で、門限を設けようか、って話が出てきてるのよ。まだ決定的ではないんだけど、そのくらい心配されてるの。あ、別に明日実のご両親が娘を心配していない、なんて言うつもりはないからね?」
この前、というには新しすぎる事件の記憶に、椿がため息をつきながら家庭事情を明かす。
「そうよね、そんな事件に巻き込まれたら、そういう考え方にもなるよね。じゃ、あまり心配させないうちに早く帰らないとね」
明日実はそんな椿の気持ちを汲み取り、少し歩く速度を上げて、駅のロータリーを出て椿の家があるマンションを目指す。
時間的な事情もあり、すでに人通りはまばらになっている線路沿いの道を歩き、丁字路を曲がれば椿のマンションが見えてくる、そんな場所で椿が突然立ち止まった。
「椿? ど、どうしたのっ!?」
いきなり足を止めた椿を訝しみ、何気なく椿の顔を覗きこんだ明日実は驚いた。それまで少しだが笑顔すら浮かべていた椿の表情が一瞬にして強張り、怯えたような目をしているのだから。
「な、なんで……?」
椿の視線の先には3人の男がいた。椿と同じくらいの、男としてはけして高いとはいえない身長に、少々肥満気味の体格をした男。その隣に、頭ひとつ分以上背が高く、筋肉質の男と、椿と孝の中間くらいの身長に、やや細身の身体で、バランスが悪いほどに足が長い男。――椿のストーカーである玖珂と、その取り巻き、小金井と根来。
「椿、あいつらが例の奴らなのね?」
椿は想定外の遭遇にすっかりパニック状態に陥ってしまい、怯えるばかり。頼りになる孝は入院中。そんな状況で、椿を守るように立ちはだかったのは、他ならぬ明日実だった。
「ねえ、あんたたち。この前孝くんに負けたことで、二度と椿の前に現れない約束をしたんじゃなかったの? それに、そこのチビデブは、警察に逮捕されたって聞いたんだけど?」
もちろん、明日実とて女の子であり、多少お転婆な性格をしているとはいえ、男3人を相手にケンカできるほどの力は無い。だが、会話をすることで時間を稼ぎつつ、相手がここに現れた意図を探る。これが待ち伏せなどではなく、たまたま3人で歩いているだけであれば、そのまますれ違うように別れればいいだけなのだから。
「約束? 何のことだい? そんなものは知らないな。それと、ボクの名前はチビデブじゃない、玖珂犀人だ。確かに、一度は捕まったさ。でも、ボクの父さんは警察署の署長なんだ。あのくらいのことなら、簡単にもみ消してしまえるのさ」
チビデブこと、玖珂は改めて名を名乗り、衝撃の事実を明かした。
「うわ、サイテー……約束を反故にすることもそうだけど、親の権力を利用して事件をもみ消すなんてね。それで? 一応聞かせてもらうけど、わたしたちの前に現れた目的は何なの?」
もともと容姿からして明日実の好みではないのはもちろんだが、話に聞く限り、真剣勝負で交わしたものだったと思われる約束をあっさり反故にすることや、親が築いてきたものをさも自分のものであるかのように振る舞う玖珂の姿に嫌悪感を隠せず顔を歪めたまま、明日実は玖珂たちに訊ねる。
「目的? そんなもの、ひとつしかないさ。桐生タンを、ボクの彼女にする。そのために、邪魔者の八坂孝を排除したんだからね。ああ、キミには用は無いから、帰っていいよ。もちろん、桐生タンは置いていってね」
すると玖珂はニヤリ、と厭らしい笑みを浮かべながら、自らの目的を告げた。さらに、まるで孝の事故に関わっているような発言まで飛び出し、明日実は自分が不要だと言われたことは聞き逃した。
「ちょ、ちょっと待って! 邪魔者の孝くんを排除した? まさか、あの事故にあんたが関わってるの!?」
唐突に飛び出した爆弾発言に、明日実は冷静さを失い、今にも詰め寄りかねない勢いで玖珂に訊ねる。
「そうさ、事故に見せかけて八坂孝を亡き者にしようと思ってね。個人的に、暴力団の人と面識があるから、その人にお願いをして、ね。亡き者にはできなかったけど、病院送りにできただけでも、十分さ。その間に、桐生タンをボクのものにしてしまえばいいんだから」
すると、玖珂は自身の行為を得意げに語りだした。
「な、なんて人なの……!? あんたみたいな人に、椿はもったいなさすぎるわ! 今すぐわたしたちの前から消えてよ!」
対する明日実は、常軌を逸している玖珂のやり口に戦慄し、感情を顕わにして叫ぶ。
「何を言っているんだい? 八坂孝こそ、桐生タンの彼氏にはふさわしくないだろう。ねえ、本当にキミは邪魔だから、キミこそどこかに消えてくれないかな? ボクだって、できるなら女の子に乱暴なマネはしたくないんだ」
すると玖珂はイラついた様子を見せて、明日実は不要だと告げる。同時に、受け入れないなら暴力を振るうことも辞さない、と示唆し、小金井と根来が1歩、距離を詰めてくる。
「ひっ……」
気丈に振る舞い、玖珂と対峙していた明日実だったが、口頭でのやりとりだったからこそ、ここまでほぼ対等にやり合えていただけで、明確な暴力が相手方の切り札として切られれば、非力な少女である明日実も椿も立ち向かう術を失い、一方的に蹂躙されてしまうだろう。それを想像した明日実が小さく悲鳴を上げて1歩、後ずさる。椿はショック状態からは立ち直っているようだが、それでも言葉を発することはおろか、行動を起こすことは難しいだろう。
「退かないなら、仕方ないよね。小金井、根来。――行け」
怯えた表情を見せながらも、椿を庇うように立って、退く様子を見せない明日実に業を煮やした玖珂が小金井たちに一言、命令を下した。
「俺たちとしても、女の子を痛めつけるのは趣味じゃねえが、大将の命とあらば、止むを得んな。せめて、一撃で意識を刈り取ってあげるしかあるまい」
大将に命令されたとはいえ、さすがに小金井たちとしても女の子を傷つけて平然としていられるほど、外道な人間ではないようだ。しかし、それでも玖珂の命令に逆らわないあたり、よほどの何かがあるのだろう。妥協案として、必要最低限の攻撃だけで倒す、と宣言して小金井1人が明日実に襲い掛かる。素早く距離を詰め、掌底の一撃を明日実の顎目掛けて放ってきた。
「きゃ……」
明日実は女子にしては身体能力が高いほうだが、それでもやはり男子の身体能力には及ばず、反応できない速度で撃ち出された掌底に、とっさに目を閉じた。しかし、いつまで経っても痛みが来ない。そっと目を開けると、目の前に誰かの背中があった。そして、その背中の向こうでドサリと崩れ落ちる、小金井。
「間に合ったか。大丈夫か、古川?」
小金井が倒れたのを確認すると、乱入した男は振り返って明日実の安否を訊ねる。
「え……ふ、深溝……くん?」
自分を守ってくれた人の正体を知り、明日実は驚いていた。孝のクラスメートであり、親友の、深溝勇太だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回:1-10 想定外の救援者、そして事件解決。 7/10 06:00 更新予定!