1-05 週末(3) 夜間の来訪者
それからしばらく、松林市駅付近で孝は逃げ回り、それを明日実が追いかける、という一方的な鬼ごっこをしていたのだが、こうした追いかけっこでは明日実が絶対的に有利になる。陸上部に所属し、男子部員をも凌ぐほどの脚力とスタミナを武器に、孝がバテるまでは付かず離れずで追い回し、孝がバテてスピードが落ちたところをすかさず接近して確保するという、やられたほうの抵抗心をごっそりと抉り取るようなやり方で孝の心をポッキリ折って、2人で昼食を共にした。駅前のハンバーガーチェーンだが、明日実は終始ご機嫌な様子でニコニコしていた。対する孝は追いかけっこの疲労もあって、ぐったりしていた。
「ん、もうこんな時間か。夕飯の買い物もしないとならんし、オレは帰るぜ。またな、ふる……ぐえっ!?」
その後もしばらく明日実に付き合わされるような形で過ごした孝がふと携帯の時計を見ると、午後5時になるところだった。いい時間なので、買い物をして帰ることを告げて立ち去ろうとした孝だったが、明日実が服の首周りを掴んだため、引っ張られて一瞬呼吸が止まった。
「夕飯の買い物、って? そういえば、まだ孝くんのお母さまに会ってない気がするんだけど……」
明日実は孝の言葉に気になる点があったので、引き止めるために服を掴んだようだ。
「ああ、今両親揃ってどこかに旅行に行ってるからな。家にはオレ1人しかいないんだよ。だから自分のメシは自分で調達しなくちゃならないんだけど、冷蔵庫の中身をあらかた使い切っちまってるから、今日は買い物をして帰らないと、夕飯を作れないんだ」
孝が事情を説明すると、
「えっ? なに、孝くん1人きりなの? それじゃ、ご飯作るの大変じゃない? 良かったらわたしが作りに行こうか?」
明日実はチャンスとばかりに目を輝かせて孝に訊ねる。
「ありがとう。でも、両親が急に旅行に行ってオレ1人置いてけぼりなんてことは今に始まったことじゃないから、割と慣れてるんだ。だから自分のメシくらいは自分で作れるよ。古川さんの気持ちだけ、受け取っとく」
孝は明日実の気持ちは本心から嬉しいと思えるので、彼女を傷つけないよう、やんわりと断りを入れた。
「そんなこと言って、卵かけご飯とかじゃないよね? 本当に大丈夫なの? あ、それとももしかしてわたしの料理の腕を疑ってる? こう見えても、わたしは結構料理得意なのよ。お昼のお弁当はだいたい自分で作ってるし、お休みの日はお菓子作りとかもするんだよ?」
明日実は再度確認しつつも、自身の料理の腕を疑われている可能性に気づき、例を挙げてアピールする。
「ああ、大丈夫だ。見せてもらったこともないけれど、別に古川さんの料理の腕を疑うつもりも無い。それじゃあ、今度こそオレは帰るぞ。またな、明日実」
孝は明日実のアピールも華麗に回避し、踵を返して小走りで駅のほうへ駆けていった。
「孝くん、やっと名前で呼んでくれた……!」
明日実は初めて孝からファーストネームで呼んでもらえたことに驚きつつも、嬉しさを溢れさせて帰路についた。孝としては、心配してくれた明日実への礼の気持ちをさりげなく表現してみただけで、気づかないでいてくれたほうがありがたいものだったが、明日実はちゃんと気づいていたのだった。
「ま、こんなもんかな」
北羽村の駅前にあるスーパーで肉や野菜などを買い込み、孝はそれ以上の寄り道をせずに帰宅した。
「よし、今日はカレーにしよう」
買ってきた物を整理して冷蔵庫にしまいつつ、今夜の献立を簡単に作れて、しかも一度作れば1人なら2~3日は大丈夫なカレーを作ることにした。ちなみに、孝は辛いものが苦手、でもカレーは好きなため、八坂家でカレーを作る際は基本的に甘口が主流となる。それでも両親がいる際は、甘口をベースに、中辛をブレンドして作る、甘口でも中辛でもない辛さのものを作るのだが、今日は孝しかいないため、堂々と甘口オンリーのカレーを作り上げていた。
「作りすぎた……」
手際よくカレーを作りあげたものの、食べるのが孝1人にしては、大きな鍋で作ってある。しかしそれほど気にした風でもなく、大きめの皿にご飯を盛り、カレーをかけてさあ食べよう、というその時。唐突に玄関のチャイムが鳴った。
「はーい?」
カレーはできたてアツアツなので、ちょっと席を外したくらいで冷めることは無い。スプーンを一旦皿の脇に置き、孝がドアののぞき穴から来訪者を確認すると、明日実が立っていた。その手には何か持っているようだ。
「あ、明日実? どうしたんだ?」
孝はさっきのやりとりを機に、明日実のことを古川さん、ではなく名前で呼ぶ決心を固めており、用件を訊ねる。
「やっと向かい合って名前で呼んでくれたね。それで、孝くん。夕飯はちゃんと作れた? ……うん、カレーのいい匂いがしてくるから、大丈夫だったみたいね。これ、ウチで作ったもののおすそ分けなんだけど、良かったらどうぞ♪」
明日実は初めて面と向かって名前で呼んでもらったことに頬が緩むのを感じながらも、手に持っていたもの――夕飯のおすそ分けだという肉じゃがの入ったタッパーを手渡した。
「ああ、ありがとう。今ちょうど食べようかと思ってたところだったんだ。食べ終わったら容器は洗って返しに行くよ」
孝は明日実が割と本気で心配してくれていることを感じ、素直に礼を言った。
「ううん、別に洗わないでもいいよ。それじゃ、またね♪」
明日実は孝の気遣いが嬉しく、笑顔のまま帰っていった。
「さて、食べるか……」
孝は明日実を見送った後、もらった肉じゃがとカレーで夕飯を済ませたのだった。
夕飯を済ませ、自室のテレビでバラエティ番組をBGM代わりに本を読んでいたところ、またしても玄関のチャイムが鳴った。
「今度は誰だ……?」
すでに時刻は午後8時になろうかという時間。誰かが訪ねて来るには少々遅い時間なので、孝は訝しげな顔をしながらも、ドアののぞき穴から来訪者を確かめると、椿だった。
「桐生さんか。こんな遅い時間にどうしたの?」
2人がすでに交際している恋人同士であれば、高校生同士である点に目をつぶることでこのような時間の訪問もあり得なくはないのだろうが、椿から孝に告白したとはいえ、まだ回答を出していない以上、2人は交際してはいない。それでも、訪ねて来た理由を確かめるためドアを開けて応対すると、
「八坂くん、こんな時間に急にゴメンね。今って、時間大丈夫?」
椿としても、恋人でも無い異性の家を訪ねるには非常識な時間であるとの認識はあるらしく、一言謝ってから孝に訊ねる。
「ああ、別に問題ないよ。何か、オレに話でも? 昨日の続きかな?」
孝は現在擬似的な1人暮らしの状態なので、午後8時という時間であれば時間的な制約は無いに等しい。問題があるとすれば、孝の自宅というある種の密室で、高校生の男女が2人きりになる、という状況にあるが、孝はそういう面において晩熟というかむしろヘタレの域に達しているため、それこそ椿から大胆に迫ったところで陥落することなく、紳士的に対応するだろう。孝としてはそこまで考えてはおらず、問題ないと頷いているが。
「実は、ちょっと相談したいことがあるの。昨日の話とも少し絡んできちゃうんだけど……いいかな?」
椿はそう話した。
「昨日の話絡みで相談事、ね。わかった。玄関で立ち話をしながら聞くような話でも無さそうだし、上がりなよ。散らかってるけどね」
孝は頷くと、椿を居間に通した。
「お、お邪魔します……」
「ああ、今はオレしかいないから気にしなくていいよ。麦茶とジュースがあるけど、桐生さんはどっちがいい?」
「えっと、じゃあ麦茶で……」
とりあえず座布団を出して椿に座ってもらうと、孝は冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぎ、椿の前に置く。同様に自分の分も注ぎ、テーブルに置くと、自身も座布団に腰を下ろす。
「それで、桐生さんの相談事って? オレで解決できるような問題なの?」
孝は軽く麦茶でノドを潤すと、単刀直入に訊ねる。
「うん。っていうか、むしろ八坂くんだからこそ、私はこの相談を持ちかけたいと思うの。八坂くんにこそ解決して欲しい問題、と言い換えてもいいわ」
椿もまた麦茶でノドを潤し、大きく頷いた。
「オレだから相談したい、とかオレにこそ解決して欲しいとか、まだ話が見えてこないけど、とりあえず話してみてもらえる? 解決できる、できないは話を聞かないことにはなんとも言えないからさ」
孝は首を傾げつつも、椿に話を促した。
「うん。私、昨日八坂くんに再会したときに、あなたのことが好きだった、って言って、用事があるから、ってすぐ帰ったじゃない? その帰り道で、高校に入ってすぐの頃から私に付きまとってるヒトが出てきて……」
椿はそこまで話して突然泣き出してしまい、しばらく話は中断した。
「……なるほどな」
椿の話を聞き、孝は頷いた。
椿の話を要約すると、“椿に付きまとってるストーカー男がいる。ソイツは椿が孝に告白したのも全部見ていて、帰る途中で椿の前に現れて、「なんであんなヤツなんだ、どうして自分を見てくれない」などと喚き散らし、そこからどう話が飛んだらそうなるのかわからないが、孝に決闘を挑む気でいるらしい”ということのようだ。
「じゃあ、オレはそのストーカー野郎を退治すればいいのか?」
その話の内容から、孝は自分がすべきことを椿に確認する。
「う、うん……それでね、そのヒト、私にさんざん喚き散らしたあと、去り際に『あんな風に女の子に振り回されるような軟弱そうな男にこのボクが負けるはずは無い』って言ってるのが聞こえたんだけど、八坂くんって確かその体格に見合わずケンカは強かったよね?」
椿は頷くと、相手が孝の外見や性格で判断し、ナメていることを話した。
「ああ、ケンカ自体はあまり好きじゃないけど、腕っ節にはそれなりに自信あるぜ。よし、その話を引き受けよう。ただ、一応言っておくけど、これは昨日の告白の件とは関係なく、桐生さんの友達の1人として引き受ける。気づいていたかもしれないけど、昨日会ったときに一緒にいた古川さんにも告白されてる。まだ返事はしていないから、あの通り付き合ってはいない、って言ったけどな。とまあ、2人から交際を求められてるような状態だから、まだまだ返事は出せそうにないよ」
孝は椿の依頼を快諾しながらも、念のため告白の回答とは関係なく動くことも合わせて話した。
「うん、ありがとう。告白のほうは急がないから、ゆっくりでいいよ。でも、ゴメンね。こんな遅い時間に急に押しかけちゃって……。せめて、メールで聞いてからにするべきだったかもね」
椿は礼を言いながらも、自身の行動についての反省も忘れていなかった。
「いやいや、そのくらい気にしないよ。切羽詰まってたんでしょ?」
両親が不在だからこそ堂々とこうしたことが言えるのだが、ことこの件に関しては、仮に両親が在宅だったとしても、文句を言わせるつもりは無い。孝も人並みにヒーローにはあこがれる性質で、目の前で女の子が助けを求めてきているのに、時間がどうのとかでグダグダ言うのは無粋であり、男らしくない、などと考えているのだ。
「うん、繰り返しになるけど、本当にありがとう。ところで、ご両親はいらっしゃらないの? さっき、“今は自分しかいない”って言ってたけど……」
すっかり落ち着きを取り戻した椿は、それなりに広いマンションの部屋の中に孝と客である自分しかいないことに気づき、訊ねてみた。
「ああ、両親なら旅行に行ってる。それこそ小学校の頃からよくある話だから、慣れちゃってもう気にもならないよ」
孝は笑いながら答えた。
「そっか、じゃあ今は1人暮らしみたいなものなんだね。ご飯とかは大丈夫?」
椿は明日実と同じ質問をする。気になる点は同じらしい。
「それ、古川さんにも聞かれたけど、問題ないよ。さっきも言ったけど、こういうことも慣れちゃってるから、料理もそれなりにできるし。あそこのカレーだって、自分で作ったんだ。まあ、カレーくらいなら誰でも作れそうなものだけどな」
孝は台所のカレー鍋を指差して椿に答えながらも、大したことではないと自嘲するように笑う。
「ううん、十分だと思うよ。でも、八坂くんが中学の調理実習でみんなを引っ張っていられたのって、そういう理由があったんだね」
椿が中学時代を思い出して微笑む。調理実習のたびに、孝は同じ班の女子を差し置いてリーダーシップをとり、てきぱきと班員に指示を出して実習を成功させていたのだ。もちろん班が変われば、男子がリーダーシップを取ることに反発する女子もいたが、実習が成功して美味しく出来上がったものを食べることにより、素直になったり、中には悔しそうにしながらもみんな孝のことを認めてくれていた。
「まあな。必要に駆られて覚えただけ、といえばそれまでなんだけど」
あまり学業以外のことで褒められることに慣れていない孝が照れていると、
「ふふ、そういうことにしておくけど、あんまり謙遜しすぎるのも厭味になるから、気をつけたほうがいいよ。それじゃあ、私はそろそろ帰るね。今日は本当にありがとう」
椿は孝に忠告すると、帰るために立ち上がった。
「あのさ、桐生さん。できたらでいいんだけど、八坂、って苗字で呼ばれてるとなんか落ち着かないから、“孝”って呼んでくれないか? ただのクラスメートはともかく、古川さんを含めた友達とかはみんなそういう風に呼ぶから、さ」
すると、孝は椿にそんな頼みごとをした。
「ええ、わかったわ。孝……くん。それじゃあ、私のことも“椿”って呼んでくれる?」
椿はその頼みを快諾し、代わりに自分のことも名前で呼ぶようにお願いした。
「あ、ああ。わかった……椿。あ、そうそう。話にあったストーカー男の退治はいつやればいいかな?」
そんな椿の笑顔にまた照れて顔を赤くしながらも、孝は椿を名前で呼ぶことになった。と、大事なことを聞き忘れたとばかりに、孝が椿に訊ねる。
「明日にでも、そのヒトと直接話をして孝くんにメールをするわ。彼は私が通っていた羽村女子高校のそばにある羽村工業高校の生徒で、正直、ただ話すだけなら面白いし、いいヒトだと思っていたんだけど……」
椿は苦笑いを浮かべて答えた。羽村工業高校、通称・羽工は彩北鉄道沿線にある、近隣一帯の高校の中では1、2を争うほど偏差値が低く、バカと不良のたまり場と揶揄され、工業系のため男子生徒が9割以上を占める学校である。そんな学校の生徒と、偏差値が高く、お嬢様学校とも呼ばれる羽女の生徒の椿に、どうして接点が生まれたのだろうか。
「そうか、わかった。じゃあ、気をつけて……いや、送って行ったほうがいいかな?」
孝は答えに頷くと、そのまま見送ろうとしたが、すでに時刻は夜の9時。椿の家は孝のマンションから歩いて10分程度とはいえ、ところどころ街灯が無くて暗闇が広がってる場所もあり、最近は痴漢などの変質者が出没するとか物騒な話もちらほら聞こえてくるので、送っていく事を提案した。
「歩いて10分もかからないような場所だし、大丈夫だとは思うんだけど、来るときに一度だけ嫌な視線を感じたのよね。お願いしても、いい?」
椿は大丈夫だと断ろうとしたが、やはり思い直して頼むことにした。
「ああ、任しとけ。じゃ、ちょっとだけ待ってて」
孝は大きく頷くと、上着と財布、携帯を持って戻ってきた。
「お待たせ、それじゃあ行こうか」
2人は並んでマンションを出た。
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