1-04 週末(2) 日曜日、逃亡、そして捕獲。
翌日、日曜日。
孝は普段学校へ行くときよりも早く、朝の6時半に起床した。食パンを焼いてジャムを塗り、紅茶で流し込むようにして朝食を済ませると、まだ朝の7時だというのに、ゆっくりするために家を後にした。矛盾しているように聞こえるが、家にいても結局は明日実に捕まって強引に連れ出されてしまい、精神的にも肉体的にも安息の地ではないので、彼女が襲来する前に早々に逃亡を図るのだ。
「ふああ……さすがに眠いな。漫画喫茶でも行って寝直すか……」
周囲の様子を警戒しながらも、孝は無事にマンションを脱出し、朝の街へと消えていった。
およそ1時間後、明日実は朝食と着替えを済ませ、孝の部屋の前に立っていた。
「たーかーしーくーん。今日こそ2人きりで遊びに行こうよー♪」
などと言いながらチャイムを連打している。おそらく、孝がまだ寝ているものだと思っているのだろう。しかし、孝はもう出かけた後なので、当然ながら誰も出てくることは無い。それでもチャイムを連打していると、隣の407号室の扉が開いた。
「408号室の八坂くんなら、今朝7時ごろに出て行ったみたいだぞ。せっかくの日曜なんだ、朝っぱらからチャイム連打して騒がないでくれ。次やったら警察に通報するからな」
407号室の住人、加藤泰明は不機嫌そうな顔で孝が朝早く出かけたことを明日実に教えたが、同時に明日実の騒々しさに対して苦情と警告を発した。なお、孝が出かけたことを加藤が詳しく知っているのは、単なる偶然である。加藤が起床して、あくびをしながら空気を入れ換えるためにマンションの外廊下に面した部屋の窓を開けたところ、ちょうど孝がこそこそと部屋を出て行くのが見えた、ただそれだけのことである。
「ええっ、そうなんですか!? まさか、昨日の今日であの桐生さんって子に返事をするんじゃ……こうしちゃいられないわ、それじゃ、失礼しまっす!! ……あ、それと朝から騒いでゴメンなさいっ!!」
明日実は驚きながらも、加藤に対して謝り、急いで階段を駆け下りて、孝を捜索するため走り出した。
その頃、孝はすでに電車で高校のある松林市駅に移動していた。北羽村の駅周辺にも漫画喫茶はあるが、地元の駅前では明日実に見つかり、捕獲されるリスクが高い。そこで、通学定期を使用して松林市駅にやってきたのだ。ここの場合、高校は駅の南口側にあるが、漫画喫茶は南口側に1店舗と、高校とは反対側の出口、北口に2店舗ある。通学定期があるので、松林市駅に来ていることまでは想像できても、よもや高校とは反対側の北口に潜伏していることまではなかなか想像付かないだろう、と思って北口近くの漫画喫茶へ入った。
「ふあああ、少し寝直すとするか……」
現在時刻は、午前8時半。とりあえず孝は3時間で800円の料金パックを選択し、個室へ入るなり、午前11時20分に携帯のアラームをセットすると、リクライニングのイスを倒して仮眠を取ろうとした。だが、その時。
「おっと、八坂。寝るのはちょいと待ってくれねえか」
何者かが孝のいる個室に乱入してきた。
「んあ? ……なんだ、誰かと思ったら小泉か。こんなところで会うなんて奇遇だな。で、何か用か?」
孝は一旦イスを起こして乱入者を確認すると、同じクラスの男子生徒、小泉拓也だった。新聞部に所属しており、制服を着ているときも必ずその内ポケットにデジカメを持ち歩いている。
「奇遇も何も、お前を見かけて追いかけてきたんだよ。ここ数日で、お前に関して、気になるネタがいくつか出てきているんでな、それを聞きたいんだ。まずはこの写真なんだが」
拓也は孝を追いかけてきた、と言い、デジカメで撮影した写真をプリントした中から1枚を選び出し、孝に見せる。
「なんだ? 一体何のしゃし……」
眠気が完全に醒めたわけではなく、目をこすりながら写真を見た孝の顔が引きつった。そこには、明日実が孝の腕に抱きつくシーンが写されていた。
「なんでこんな写真があるんだ!?」
一応静かな漫画喫茶の店内であることを考慮し、小声で拓也に詰め寄る。
「いや、昨日もネタを探して散歩していたんだが、その途中で八坂と古川さんとあと深溝の3人を見つけてな。何かありそうだと思って後をつけてったんだよ。そうしたら、深溝が逃げるように走り去った後に、その決定的瞬間だろ? で、松林高校新聞部に所属するおれとしては、この写真を記事にして伝える義務があると思うわけよ。なんせ、古川さんは学年で1、2を争う人気を誇る女子。対して八坂、お前は入試トップっていう肩書きはあるけど、ぶっちゃけ容姿としては平凡。新聞部の無記名アンケートでも、八坂の名前が出たことは一度も無い。そんな2人の、スキャンダルと言って差し支えないようなこの関係。さあ、説明してもらおうか?」
孝は写真を撮影した経緯の説明を求めて拓也に詰め寄っているつもりだった。だが、いつの間にか形勢逆転し、拓也がその写真に関する説明を求めて孝に詰め寄る格好になっていた。
「記事にされるってわかってて、わざわざ事情を話すとでも思ったか? あいにくだが、説明してやる義務も義理も無いね。まさか、新聞部ともあろう者が憶測で記事を書くようなことはしないよなぁ?」
だが、孝も負けてはいない。回答を拒否し、ジャーナリズムの基本理念を挙げて拓也を牽制する。と、その時。孝と拓也がいる個室の扉が開かれた。
「うふふ、孝くん、みーっけ」
「!?」
扉を開けたのは、誰あろう、話題の渦中にいるもう1人である明日実だった。
「な、なんでここがわかったんだ……?」
さすがにこの個室に3人は狭いので、観念した孝は2人とともにグループ用の部屋に変更し、明日実に訊ねた。
「恋する女の子を甘く見ちゃダメだよ。朝早く出かけてわたしを出し抜いたつもりなんだろうけど、孝くんが朝に弱いのは知ってるんだから。それを無理やり早起きして出かけたところで、眠くてまともに行動なんてできやしないわ。そうなると、どこかで隠れて仮眠を取りたい。それができるのは、この近隣じゃ漫画喫茶くらい。けど、北羽村の駅前だと地元だからすぐ見つかっちゃうかもしれない。ならば、定期もあるわけだしこっちへ出てくればいい。でも、学校がある南口側も、北羽村同様に見つかるリスクが高い。ってことで、北口のお店を探しに来たんだよ」
明日実が語った推理は、見事なまでに孝の思考回路をトレースしていた。完璧に言い当てられて、孝ががっくりと崩れ落ちる。
「で? わたしから逃げるようにして、どこへ行くつもりだったのかな?」
「……別に。家にいたところで強引に連れ出されるだけだからな。1人でゆっくりしたかったんだよ」
先ほどまで拓也を相手に強気だった孝も、相手が明日実になるとタジタジだ。それを見て、拓也が勢いを盛り返す。
「古川さん、あなたはここにいる八坂とずいぶん仲が良いようですが、何か特別な関係とかあるんですか?」
端から見ていると熟年の姉さん女房の家庭のようだ、などとやや失礼なことを思いながら拓也が明日実に訊ねる。
「わたしと孝くんの関係? 6年ぶりに運命の再会を果たした、婚約者なの♪」
拓也の考えてることなど露知らず、明日実は笑顔で宣言した。
「こ、婚約者!?」
拓也もさすがに想定外の言葉が飛び出して戸惑いを隠せない。
「待て待て。まだそこまでは行ってないだろ。小泉、訂正だ。現状、オレと古川さんの関係は同じマンションの住人であり、ただの同級生だ。婚約した事実も無いどころか、交際もしていない。って、おーい? 小泉、聞いてるかー?」
慌てて孝が訂正するも、すでに拓也は聞いておらず、明日実の言葉をメモして、複雑な表情をしながら何事かブツブツと呟いている。
「ふーむ。まあ、それはそれでいいとして。八坂、お前に関してはもうひとつ、今度は声と写真のネタがあるんだが、こっちはどうなんだ?」
しばらくして、ある程度整理が付いたのか、拓也が顔を上げ、また新たな写真と、ICレコーダーを出してきた。
「今度はこれか……」
写真を見た孝はまたしても顔を引きつらせた。今度の写真は椿が孝に抱きついているシーンであり、差し出されたICレコーダーを再生してみると、
『私、中学2年生で同じクラスになったときから八坂くんのことが好きだったの。その想いは3年生でまた同じクラスになって、もっと強くなった。でも、あの頃は自分に自信が持てなくて、結局卒業するまで言い出せなかったわ。けれど、私は高校に進学して変わった。今なら言える。八坂くん、私と付き合ってください!』
写真が椿のものだったので予想はしていたが、案の定、ICレコーダーに録音されていたのは椿の告白シーンだった。
「こっちの件に関しては、その女の子がうちの生徒ではないこともあって、まるっきりデータが無いんでな。まず、彼女が誰なのか、ということがひとつ。次に、どうして突然こういう事態になったのか、だな。さあ、話してくれるな? まさかここまで来て、逃げはしまい?」
現在3人が入っているグループ用の部屋は、最大で4人まで座れる長いソファーが設置してあり、出入り口の扉に近いほうから拓也、孝、そして明日実の順に座っている。そのため、孝がこの部屋から脱出するためには、拓也をどうにかしないとならない。そしてその拓也は、質問を終えた段階でソファーから立ち上がり、出入り口の前に立ちはだかることで孝を逃がさない、ことを行動で示した。
「はぁ、まあそのために追い回されるのも疲れるからな。言っておくが、昨今いろいろと個人情報とかで騒がれてるから、名前や通ってる高校は言わない。それだけは承知してもらうぞ。……まず、あの女の子はオレの中学時代の同級生だ。昨日、卒業式以来3ヶ月ぶりくらいにあそこでバッタリ会ってな。オレと古川さんが一緒に歩いていたのを、付き合っていると誤解してたから、それを真っ向から否定したらそうなったんだよ。ぶっちゃけ、オレにも何がどうなってそうなったのかなんてわかんねえ。話せるのはこのくらいだ。それ以上は仮にもジャーナリストを名乗るなら自分で調べるんだな」
さすがにこの状況で逃げを選択する度胸は孝には無かった。
孝は入試でトップを取った秀才で、体格も175cm、56kgという結構な痩せ型のため、多くの人に「勉強は得意だが運動系は苦手である」という印象を持たれるのだが、実際は運動もそれなりにできる。温厚な性格をしているためケンカはめったなことではしないが、売られたケンカは買うし、降りかかる火の粉を払うためなら先手必勝、という考え方も持っている。
つまり、この場合拓也と一戦構えてでも逃げ出す選択肢も、あるにはあった。だが、相手は新聞部。裏を取れていない情報をむやみやたらと記事にすることはしないだろうが、万が一ということもある。憶測であることないこと勝手に書かれるくらいなら、きちんと話をしてしまったほうが、受けるダメージは少なくなる、と判断したのだ。
「なるほどな。それで? 八坂としては、古川さんとその女の子、どっちが本命だ?」
話を聞いた拓也は、核心を突く質問を孝にぶつけた。
「あっ! それ、わたしも聞きたい!」
その質問に乗っかるように、婚約者宣言の後はしばらく黙り込んでいた明日実も話に乱入してきた。
「本命と言われてもな。古川さんはともかく、もう1人の女の子については昨日再会して告白されたばかりだぞ。そんなすぐに決められるかよ」
孝は椿とは再会したばかりであることを理由に、回答を拒んだ。
「ふむ、まあ理に適ってはいるな。とりあえず、聞きたいことは聞けたし、おれは馬に蹴られるのはイヤだから、ここらで撤退するとするよ」
拓也もそれで納得して引き下がると、提示した写真やICレコーダーを回収、ウエストポーチに納めて帰り支度を始めた。
「なあ、小泉。今の話を記事にするつもりなんだろ? 今さらそれを止めろとは言わないから、校内新聞に掲載する前に、記事の原稿だけ確認させてくれ」
すると孝は記事の掲載を容認する代わりに、掲載前の原稿チェックを要求した。
「ん? ああ、そのくらいなら構わないぜ。ちなみに、今回の新聞で、初めておれ単独での記事掲載枠をもらえたんだが、同じ枠をもう1人の1年生部員と争うことになってる。締め切りは今度の水曜日。もし締め切りに間に合わなかったり、記事の出来をもう1人の1年生部員と比較して負けてしまうと、今回の記事はお蔵入りになってしまうんだよ。入試トップの秀才と学年でトップクラスの人気を誇る古川さん、そして他校のため現時点では正体不明の美少女の三角関係。ネタとしては申し分ないはずなんだ。後は、おれがどれだけきっちり記事を仕上げられるか、だな。とはいえ、八坂を利用してしまうことは済まないと思っている。だから、今度購買でカツサンドを奢ろう。記事が掲載されれば、追加でもうひとつ。それでいいか?」
どうやら拓也は拓也で部内の競争に苦労しているようだ。しかし部内の競争に勝ち抜いていくための手段に孝を利用することは罪悪感を覚えているようで、購買で売られているパン類の中で最も高価だが一番人気のため昼休み開始と同時に購買へ走らないとまず買えず、幻とまで言われるカツサンド(1パック200円)を迷惑料として孝に贈ると言い出した。
「カツサンド!? よし、それで手を打とう。今までに何度も買おうとしたことがあったんだが、いつもあと一歩及ばず売切れてしまってな……」
孝はカツサンドの価値を知っているようで、拓也の提案に目を輝かせて了承し、拓也は去っていった。
「ふあ……さて、小泉もいなくなったことだし、一眠り……してる場合じゃないな。古川さんがいたのを忘れていた」
軽くあくびをしながら、ソファーに寝転がろうとした孝だったが、明日実がまだ残っていることを思い出して元通り座り直した。
「あ、どうぞどうぞ。わたしのことは気にしないで」
すると、明日実はニコニコと満面の笑みで孝に横になることを勧める。
「うわ、めっちゃ怪しい……一体何を企んでるんだ」
だが孝はそんな明日実の雰囲気に逆に警戒心をあらわにし、眉をひそめた。
「やだなぁ、別に寝転んでる孝くんに馬乗りになって既成事実を作ろうとか、そんなこと考えてないよ?」
「待てコラ。ンなこと考えてたのか。危ない危ない、全く油断できないな」
笑顔の裏でとんでもないことを考えていた明日実に、孝がツッコミを入れる。
と、孝の携帯のアラームが鳴り出した。つまり、午前11時20分になるということ。3時間パックも、あと10分だ。時間を過ぎると、自動延長される。
「おっと、なんだかんだでもう時間になるのか。これじゃ、延長する意味も無いし、出てとっとと家に帰るかな」
最初に孝は3時間パックを選択している。その利用時間に合わせて仮眠を取るため、アラームをセットして置いたのだ。結局、拓也や明日実の乱入で仮眠どころではなかったのだが。
「むー。孝くーん。2人で遊びに行こうよー」
伝票を持ち、荷物をまとめて部屋を出ようとする孝に、明日実が改めて誘いをかける。
「断る。スキを見せた途端に襲い掛かってきそうな肉食系女子と2人きりだなんて、全く気が休まらないからな」
しかし孝はきっぱりと断ると、精算を済ませて店を出て行く。明日実も一応パック料金で入店しているので、その分を精算して、孝の後を追いかけていくのだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
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