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はるかなる日々は、辛く愛しく

「はるかなる日々は、辛く愛しく」

そこは、私の勤め先から歩いて6分ほどの、通り沿いの窓に掛けられた、長く使い

古したような淡黄のカーテンが印象的な、汚い喫茶店だった。もう30年以上前になるが、ナポリタンに珈琲の付いたランチが当時500円。私は、ときどきそのランチを取り、食後の珈琲を味わいながら、いつも同じことを考えていた。

 その頃、私は、職場の人間関係に悩み、苛まれ、自殺を真剣に考えるほど、日々苦しんでいた。しかし、人生を切り開いてゆく、才もパワーも乏しい私は、ただすべてを耐えてゆくしか方策はなかった。そんな私が、ここで陶酔したように、耽る妄想。それは、こんなものだった。いま私の預金口座に、500万円あったら、どのような生き方があるのだろうか、ということ。実際は、100万円に

も届かなかったのだが。当時は銀行の1年定期の金利が4%前後、というのはごく普通の感じで、自営業を始める準備に3年いるとすれば、50万円前後(税引き後)の利息が、プラスされているはずだった。5年なら84万円近く。救いのまるで無い日々に、それは私にとって、唯一の救いのような幻想めいた物語だった。

 どのような商売が、私に出来るのだろうか。店やオフィスを準備するには、どのような手続きと、どのくらいのお金がかかるのだろうか。その喫茶店に居る時間だけ、私はその妄想に陶酔することが出来たのだ。

 わずかな時間ではあったが、当時の私に、それは大きな救いとなった。いまは、質素ながらのんびりと、何とかたどり着いた年金生活を送っている。振り返ると、幻のように、その喫茶店に根の生えたように座っている私が、見えるようだ。


「ヨコハマ/静かなる日々」 

3、4年前に聞いた、私の姉の、友人の親戚の話なのですが。いまから思うと、ニートやひきこもりのはしり、といえるような話と言っていいかも知れません。舞台は横浜市郊外の、閑静な高級住宅地。2人の老人の兄弟がいて、兄の方は、4、5年前に76歳で亡くなり、最近になって、78歳くらいで弟さんが亡くなったとか。2人は40才頃から、なぜか相次いで、あまり世間に出なくなり、徐々に引きこもり状態になっていったとか。それまでは、特に変わった所もなく、ごく普通の人達だったとか。何が原因だったのか?仕事の躓きか、恋のトラウマか。それとも、ストレスからの軽いノイローゼか、何らかの恐怖症だったのか、とも思われますが。親戚の間でも、はっきりとした理由は、よく分からなかったようです。まあ、はっきりとはしないけれど、いまの若者たちと同じような感じの、心の病だと思うけれど。私は、なぜかこの話がとても気になって、ときどき思い出しては、あれこれ考えさせられているのです。

 いちばん気になるのは、それでは、生活費はどうして工面していたのか、という事ですよね。姉の聞いた話だと、初めの頃は、貯金を取り崩したり、たまにアルバイトをして、2人で何とかやり繰りしていたらしいけれども。次第に、庭にゴミを溜めたり、自治会費を払わなかったりがあって、だんだん近所から苦情が出て来たとか。仕方なく、姉の友人の親族で、その家の嫁という人が、月に一度、東京の八王子からわざわざ、横浜に出てきて、彼等の身の回りの世話を始めたそうです。さらに、そう豊かではない自分の家計のなかから、幾らかの生活費を渡していたそうです。兄弟が60歳を過ぎてからは、国民年金または厚生年金等は無かったのだろうか、とも思いますが。無かったのではないか、という事です。友人の親族の夫というのは、この兄弟の弟という事になりますね。ほかの弟妹もいたそうですが、それぞれ家庭の事情があって、サポートする余裕がなかった、ということでした。兄弟の死後、結局、面倒をみた実績によって、この横浜の実家は、その兄嫁の夫の所有物になったそうです。せめてもの、贈り物ですよね。30年以上に渡る、その労苦や心労、経済的援助の額を考えると。ともあれ、最後まで、世間に恥ずかしくない程度には、家の体面を保たせたのは、いまどき立派ですね。まあ、こういう人間としての矜持も、だんだん単なる時代遅れ、になっていくのだろうけど。社会の潮流なので、逆らうのは難しいけど、寂しい気がしますよね、何だかとっても。

                 

「想い出のカレーソングは、黄昏の彼方に」

 昭和35年前後、であったろうか。私が小学生のころ、この唄は、ラジオからよく流れてきていた。たしか、1回30秒くらい。といっても、歌謡曲ではなく、コマーシャル・ソングとしてだから、この会社は、各ラジオ局に、相当なお金を、支払っていたことになるだろう。

 もちろん、これらのことは、子供だった私には、ほとんど判らないことだったが。カレーの宣伝であるらしいことは、わかった。なぜか、やや演歌調の、ねばっこい唄い方。歌い手は、30才前後とおぼしき、若い女性。最近、選択定年後、暇ができたので、ネットで調べてわかったが、この食品会社は、この当時、20人ていどの芸人を、全員、正社員として雇い入れ、宣伝用の車で、全国を回らせていたそうだ。

(詞:大高 ひさを・曲:平川 浪竜・歌唱:トミ 藤山 昭和20頃〜 )

なつかしい なつかしい あのリズム エキゾチックな あの調べ オリエンタルの 謎を秘め 香るカレーよ 夢の味 あゝ 夢のひと時 即席カレー 君知るや 君知るや----)

 暑くなり始めた7月の、ある夕暮れ、小学校からの帰り、坂道を降りかかった、私の耳に、この唄が流れてきた。近くの家の、ラジオから、だったらしい。曲調に郷愁を誘う何かがあり、徐々に暗くなっていくオレンジの、夕暮れの景色のなかで聴くと、いっそう印象が強いのだ。そのとき、なぜか友達か成績のことで、落ち込んでいたらしい私は、たちまち陶酔するように、この唄の世界にひきずりこまれた。それは、食べ物に溢れた、穏やかで、楽園のような、やすらぎのある世界。強い憧れとともに、鼻をツーンと刺激する、芳しいカレーの香りが、漂ってくるようだった。

 小学生だった私に、それは、かなり激しい衝撃だった。いちど食べてみたい、と思いながら、その機会は、まったく訪れなかった。家で出るカレーは、キンケイやハウス、グリコなどが多く、オリエンタルは、食べたことがなかった。そして、中学に進んだ頃には、もうこの宣伝の唄は、関東地方ではあまり流れなくなって,記憶が薄れてかけていた。

 そんなある日の、夕食にカレーが出された。食べてみると、いつもと味が違う。色も、やや茶色が強い。母に聞くと、なんとオリエンタル・カレーだという。私は、しばし茫然としてしまった。何年も、憧れたカレー。しかし、いざ口にいれてみると、心はあまりはずまなかった。たくさんのスパイスを混ぜ合わせた、カレーの味が、子供の口にあわなかったのだ。ご贔屓のキンケイ・カレーの、こってりとして深い、マイルドで、すこし黒ずんだ茶色のカレーが、私の口に合っていたのだ。

 最近になって、テレビの「名古屋はじめて物語」という特集のなかで、この会社の、このころの宣伝活動をみた。白黒の、古いフィルムには、意外な映像が映っていた。宣伝車の前に、若い女性がカントリー・ウエスタン風のいでたちで立って、バンジョーを弾きながら、この唄を、軽やかに唄っていた。同じ唄だけれど、私の聴いた、演歌調バージョンは、どこに行ったのだろう。歌詞も、すこし違う気がする。

 けれど、この特集によって私の記憶はつながった。選択定年により暇のできた私は、インターネットで、あれこれ調べてみた。すると、この会社は、愛知県のF市に、いまも健在だった。ただ、業容の規模は、予想の10分の1足らずで、この規模の会社が、どうして、あんなに、宣伝にお金をかけられたのか。あらたな、謎が生まれた。ともあれ、子供のときから約45年を経て、ずっと持ち続けた気になることが、いちおうは解決したのだった。

 私は、子供の頃から人間関係が薄いので、あの頃の時代背景も含めて、豊潤で大切にしたい、数少ない想い出のひとつなのだ。


「街頭テレビの頃」              

 私が子供だったころ、公園や街の広場などに街頭テレビというものがあった。それは、まだ庶民には高価だったテレビを、太い鉄棒の上2mくらいの高さに設置して、一定の時間見せてくれるというものだった。勿論、そこらにある訳ではなく、私の一家が住んでいたアパートから6キロ歩いた所にある、横須賀中央公園のテレビがいちばん近いモノだった。皆がいちばん見たがるのが、ご存じ、力道山のプロレスで、夜の7時か8時から1時間ていどの放映だった。スポーツが苦手の私は、皆ほど夢中になれなかったが、声を掛けられると、近所の子供達5、6人とよく出かけた。多い時は10人前後の一団になった。毎週出かける子もいたが、私は子供同士の義理上、行かなければならない時だけ出かけた。気乗りがしなかったのは、片道6キロも歩かなければならなかったから。往きか帰りのどちらかは、電車に乗る事になっていた。けれど駄菓子屋で使い過ぎて一銭もないという子や、メンコや紙芝居に浪費してスカンピンという子も多く、そんな時は往復とも歩きとなった。他の子の電車賃を出すなど、その頃の子供達の状況では不可能な事だった。その頃は、10円の駄菓子を買えば紙芝居が見られた。駄菓子屋も、5円か10円のものが主流だった。この頃、ごく普通のラーメンが一杯40円だったから、いまの価値としては8倍前後では。ともかく30円もあれば、子供達は一日を十分楽しめたのだ。6キロの道は大変だったけれど、そこは子供なりの知恵があった。途中で見つけた小石で、石蹴り競争をしたり、噂話やクイズをしたり。夏には、それぞれ自分の知っている怪談を披露した。あとは、乱歩の探偵団ごっこ。これらの遊びでワイワイいううちに、何とか目的地にたどり着くのだった。さて着いてみると、そこには100人前後が集まっていた。200人近いときもあったし、50人くらいのときもあった。勤め帰りの人や、子供や青年が多かったが、若い娘達もすこし居た。そしてプロレスが始まると、皆すぐに興奮しはじめて、罵声や励ましの声で、驚くほど賑やかになった。

 家に帰り着くと、夜の10時近く。現在の常識では、子供達だけでなどとんでもないと言われそうだけど、当時は娯楽の乏しかった時代、事件も少なく、集団でいくなら親も簡単に許した。昭和39年に開かれた東京オリンピック。この2ヶ月前に、我が家にもとうとうテレビがやって来た。その2年ほど前から、近所の家々にもボツボツとテレビが入り始めた。それに伴って、街頭テレビへの参加者も減って来ていた。よく来ていた子の消息を聞くと、テレビ買ったらしいよという答えが返って来た。その後、この幼馴染み達との縁も徐々に薄れて、道で出会っても挨拶だけになっていった。それから数十年、彼等がどのような人生を送っているのか、私はまったく知らないのだ。


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