三題噺 『アイスクリーム』『諦め』『交差点』
女は立ちすくんでいた、大都会の往来に。その姿は江戸時代に田舎から江戸にやってきた農家の娘そのものに見えた。こう考えると、時代は移り変わっても人は変わらないというのがよくわかる。
彼女は東北の隅から上京して東京にきた。こうしてみると、地図的には南下しているのに上るというのは、首都が第一という昔からのエリート意識が垣間見えて嫌いだ。
まぁそんなことより、彼女は立ち往生している。人の波が地元の大時化の海を思い出させて彼女をさらに憂鬱にさせた。そう、ここは都会のテトラポットとも言える、渋谷のスクランブル交差点である。
彼女の帰巣本能は関東圏に入ったあたりからアラームを鳴らしていたが、それはおそらくこれを予期していたのだろう。この人波、乗れれば大したことはないが、ミスをすれば肉体的にも社会的にも精神的にも大ダメージだろう。スリーアウトで人生チェンジだ。いや、ゲームセットかもしれない。
もともと田舎の彼女が東京にくるなど誰も、もちろん彼女自身も想像しなかった。たまたま親戚の人とお酒を飲んだら意気投合し、たまたま務めていた会社の業績が悪化し始め、たまたま付き合っていた彼氏の浮気が発覚しただけなのだ。意気投合した親戚は東京の会社に勤めるサラリーマンで、田舎者からみればヒーローだった。そんなヒーローに会社に来ないか?と頼まれたのだ。頼まれたら断れないのがモブキャラ、サブキャラの宿命である。
そんなわけで、はじめはノリノリだった上京だが、関東に近づくにつれテンションは反比例して下がり、人口密度は比例して増えていくという矛盾した状況を過ごして今にいたるというわけだ。
「帰りたか……」
小さくつぶやいたが都会の喧騒はそんな羽音を飲み込む。飲み込まれたと思った。だが、ふと彼女に話しかける人がいた。
「お嬢さん、疲れてるねぇ。少し話を聞いてあげようかい?」
隣に立っていた、立っていたといっても乳母車のようなものにつかまっている状況だが、お婆さんだった。
「え……?」
「なんとなく辛そうな顔をしてたからねぇ。少し昔の自分と被っちゃって、つい話しかけてしまったよ。迷惑だったらごめんなさいね」
「いえ、とても迷惑だなんて」
彼女がそういうと、お婆さんは片手を乳母車から離し、少女のほうに差し出した。
「??」
「老婆と手を繋ぐのは嫌かい? もうすぐ青になるよ?」
そこでようやくお婆さんが手を繋ぐために差し出してくれたのが分かった。いそいで手を繋ぎ、人の波に備えた。
握った手はとても小さかったけど、何十年も航海してきた船に乗っているような安心感があった。
青信号になり、人が動き出した。周りの人はスタスタと歩いていくが、お婆さんはゆっくりと歩いて行った。誰も彼女ら二人を気にすることなく、何事もないように進んでいく。
「ありがとうございました」
交差点を抜け、人波が少し収まったところで彼女はお婆さんに礼をいった。
「お嬢さん、このあと少し時間あるかね?」
お婆さんが唐突に話を持ち掛けてきた。まだ親戚の人との話し合いまではかなり時間がある。
「はい、大丈夫です」
「そうかい、よかった」
そういうとお婆さんは右手を差し出した。次はすぐにその手を取ることができた。
「ここにあんたを連れてきたかったのさ」
そう言ってお婆さんと彼女が着いた場所はスクランブル交差点からほど近い、古そうなアイスクリーム屋だった。
「あたしはもともと九州の出身でね、あんたくらいの歳に上京してきたのさ。さっきの交差点でのお嬢さんみたいに震えてたのさ。この町の人の多さにね」
まったく同じ状況で、まったく同じ上京で、なんだか不思議な気持ちになった。
「その時に見知らぬおじさんが話しかけてきてくれてね、ここに連れてきてくれたのさ」
「まるで……私とお婆さんみたいですね」
そういうとお婆さんは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「だから話しかけた。話しかけずにはいられなかった。この店のアイスは美味しいんだよ」
店員のおばさんが、ガラスの器に入ったアイスを2つもってきた。お婆さんと彼女の前に置き、笑顔を浮かべてキッチンに戻っていった。お客は彼女とお婆さんだけだった。
「食べてごらん」
恐る恐る口に運ぶと、その甘さは絶品だった。でもそれだけでなく……。
「あれ……」
知らぬ間に、彼女は涙を流していた。
「空腹は最高のスパイスだ、っていうでしょ? でもね、安心もそれに負けずとも劣らないスパイスだって、おじさんが教えてくれたのさ。さ、1つじゃ足らないだろう、私のも食べな」
「ありがとう……ございます」
涙が口に零れて、甘さにしょっぱさが混じった。それは今のこの安心を現しているようで、世界で一番おいしいアイスだとおもった。
「おじさんはこうも言ってた。人の出会いは交差点みたいなもんだ。いろんな道を歩く人がいて、その出会いは交差点の様にすれ違うことがほとんどだ、って。でもたまにその交差点でぶつかった人と、仲良くなって、それが友達。離れても、その交差点にもどればまた会える。あるいは途中まで一緒の道をたどることになる、二車線みたいね、って言ったらおじさん、変な顔をしたのをよく覚えているわ。その二車線がずっと続いたら、それが結婚。面白い例え話でしょ」
「そのおじさんは……?」
「さぁ、今頃公民館で囲碁でもやってるんじゃないかしら」
お婆さんが悪戯っぽく笑った。
「私、田舎に帰ろう、絶対帰ろうって思ってました。でも、あと少し頑張ります」
「うん、それがよか」
「諦めたら、その時は道を戻って、辿って、お婆さんに会いにいってもいいですか?」
「素敵なお誘いね。もちろん、いいわよ」
そうして、二人は大笑いしました。
「もうやだ……」
スクランブル交差点で不安そうにきょろきょろと辺りを見渡す男性がいました。
「君、疲れてるね。少し休んだほうが良いよ」
彼にとある女性が話しかけました。
「え……?あの、あなたは?」
「君を見ていると、昔の私を思い出してね。さぁ青信号になるよ」
女性が手を差し出すと、彼はキョトンとしてから、恐る恐る手を握りました。
「君、少し時間ある?君を連れていきたい場所があるんだ」
女性は不安そうな彼の顔を、偶然の出会い、交差点を、彼の今後の道を、照らしてあげたいと思ったのです。