51話 昇華、或いは堕落
彼にとって、もはやこの世界とはすでに価値のない、恵みのない、色あせた何かに過ぎなかった。
オズ・シュテルン・オルゴルス――
若くして親の地位を受け継ぎ、元老院での高位に収まった彼に待ち受けていたのは、空虚な退屈であった。
それは、彼が幼い時から漠然と感じていた、将来への薄ら寒い焦燥ではなかった。
ただ、ただ、あまりにそらは虚無然としていた。得るものは何もなく、従って失うものもまたなかった。
そんな、自己を失いつつあり、絶望の只中にあった彼を救った一筋の光明が、後のサウルの母、クララであった、没落寸前の彼女の生家が彼女の美しさを武器に、起死回生の手段として、皇帝の血筋に名を連ねる若き帝国大公爵、オズの元へと嫁がせたのだ。
2人の出会いは、そういった、彼女の生家による政略婚の意味合いが強かった。
――が、しかし……。
彼女は、あらゆる貴族の垣根を越えた、天真爛漫な存在であった。
悪く言えば常識が通じず、よく言えば先入観をものともしない、女性ながら、豪の人であった。
空虚であったオズの胸のうちは、そんな彼女の、溢れんばかりの輝きに少しずつ、埋められて行った。
彼が〈自分〉らしさを取り戻した瞬間でもあった。
が、しかし。そんな幸せは決して、永く続くことはなかった。
事は8年前、サウル・シュテルン・オルゴルスが7歳と8ヶ月の時である。
その日、城中は活気で満ち溢れていた。
貴族が、平民が、その身分の差を分け隔てを無視して、国中が、歓喜と希望に胸を躍らせ、魔族の帝国を沸かせていた。
前皇帝の御子の誕生の日であったからだ。
その時、サウルの母クララは、高位貴族の女人の1人として、皇后の側人となり、最も、今だ生まれぬ御子の誕生を近くで見ていた者の一人であった。
しかし、それは間も無く起こった。
膨大な魔力が時をおかず急激に膨れ上がることによって起こる、魔道士たちが常に危惧する魔道の現象。
〈嵐〉である。
皇后の母胎から生まれでた御子の、その産声が鳴り響いた瞬間、そばに居たものたちは一様に目を剥いた。
その、幼き身に宿す、あまりに強大なる魔力によってである。
そして、その次の瞬間には、爆発的に膨れ上がった魔力によって世界は、包まれた。
テンペストによって死に絶えたものの数は知れず、多くの貴族の家がその折に没落して行った。
しかし、それは帝国の新たなる一歩とも言えることであった。
払った犠牲は多過ぎたが。
その犠牲の筆頭に、皇帝夫妻が挙げられた。類稀なる政治手腕により善政を敷き、帝国の黄金期を作り上げた皇帝と、その彼を支えた皇后。
そして、当時、彼らの側にあることを許されていた、数少ない、しかし帝国にとってはなくてはならない、主要な大貴族たち。
これにより、正統なる皇族の血筋を受け継ぐものはその時産声を挙げた御子と、遠征によりその地を遠く離れていたオズ・シュテルン・オルゴルスと、その弟、そしてサウルのみとなっていた。
オズは当然の様に絶望した。そして完全に自己をその時喪失した。
何をしても往々に楽しまず、虚ろな目で、生者の国を彷徨う生ける屍と成り果てた。
クララと彼との間に生まれた嫡男、サウルですら、彼の慰めとはならなかった。
そしてまた彼は、当然の権利のごとく、皇帝となった御子を憎んだ、しかし、血縁として保護し、彼が成長するまでの間、庇護者となることを誓った。
クララを喪ったときいた時の彼は、確かに、国家転覆すら念頭に置くほど、幼き皇帝を憎んでいた
その憎しみに、血縁としての愛が勝ったのだろうか。
否、自分以外の何者にすらも、その復讐を果たさせん事をさせんと、幼な君を自らの懐中、目の届く範囲においたのだ。
そして彼は、生き残った幾人かの貴族によって再構成された元老院の宗主となった。
彼は一挙にして、帝国中の権力をその手中に収めたのだ。
そして、押収したクララの命亡き魂……
膨大な魔力の爆発によってその肉体を結晶の如く凍らせ、水晶の女神像となったクララをシュテルンの最奥、『星の間』に安置し、心の慰めとしたのだ。
8年。
その、8年間までの間は、彼の心も、空虚でたり、何をしても満たされないまでも、安定していた。
しかし、その彼の、動かざる水面に一石の小石を投じたものがあった。
帝国のフィクサーにして、かつての元老院からとも対立していた、謂わば因縁の中である枢密院最高顧問官、通称銀狼。
彼は、悪魔の如く、自己を喪失した。そう思い込んでいた男の耳元に囁いたのだ。
〈嵐〉により結晶と化した、彼の妻を、彼女を救う方法があると。
そして、時は流れ、空虚であった彼の胸の奥に、再び生暖かい、しかし不穏な風が吹き抜けようとしていた。
今、石化したサウルを。
結晶化した妻を救う為。
土の魔導、至高の呪文、『寂光浄土』がほどかれる。