50話 悲願、或いは妄執
「さて、では残るはこの愚弟の骸を丁重に土塊に還しせあげますか」
パピヨンの猛々しい哄笑がようやくやんだのは彼が笑い始めてから十数分だったころであった。
彼の笑い声がなくなった今、森は再び静寂の全盛期が帰りつつあった。
身体中の血の気を吸われ、青白く萎びたグラスホッパーの、その変わり果てた姿を冷徹に呟くパピヨンの声ばかりが森閑とした木々の合間をぬって静けさを汚した。
血糊に赤黒く汚れた銀の仮面の奥ぞこ、燃え盛る火焔を共した翡翠色の瞳が、生気を悉く失ったグラスホッパーを踏みつけ、パピヨンが手に魔力を集め始めた。
風も無いのに木々の梢は唸り、ぶつかり合い静やかにして緊張を孕んだリズムを刻み出した。
これは葬送曲、パピヨンによって今や完全にその存在に終止符をうたれつつあるグラスホッパーへの弔いの歌……
「……え?」
オレは、間抜けな声で目をしました。
薄ぼんやりと霞む視界に、赤黒い返り血を浴びた銀の仮面が映る。
その仮面でさえも隠されようとしない、狼狽に満ち満ちた顔が、素っ頓狂な声を上げ、オレに迫る。
「きっ……! 貴様、貴様がなんで生きているっ?!」
半ば絶叫に近い詰問の声が、オレの鼓膜に突き刺さり、意図せず表情筋が不快な顔を形作る。
「ンな事、オレがわかるわけねぇだろ、お兄様よ」
オレは、震える体を叱咤激励し、今に崩れ落ちそうな足に力を込める。
大地の感覚が、在る。知覚が、オレに与えられた全ての五感が広く、深まり、再び一個の生き物として復活して行くのが、生命そのもので感じられた。
止まっていたはずの心臓が脈動するたびに、血液と共に、魔力が……精霊の長より受け継いだ力が心身を潤して行く。
「お前達兄弟が何を企んでいたかは知らないが……いきなりぶっ殺されて借りは返させて貰うぜ……」
オレ自身が驚くほど、己のものとは思えない程、冷淡で、感情がごっそりと抜け落ちた声が流れるように喉から落ちる。
いつの間にか森の木々、その梢を打ち鳴らしていた音と風は止み静まり、ただ再び、沈黙のベールが真夜中の月の明かりもないかのような静寂をオレたちの間に流しこんだ。
心臓の音が、静けさの中に混ざる耳鳴りの音が、痛いほどに肌を突き刺す。
返してみれば、また同じくパピヨンも僅かに身を沈め、オレの次におこす行動の、その一挙一動に気を張っている。
腰を屈め、僅かに上体を前のめりに押し出し、手を胸の前に小さく組んでいる。
おそらく、すぐにでも魔力を体の中に巡らせ、オレへと魔術を放てるようにしているのだろう。
銀の画面の置くぞこから覗く、揺れる火焔を灯した翡翠色の瞳が炯々とオレを睨みつける。
その様子はあまりに焦燥然として、立ち向かう相手にすらも危機感を抱かせる。
が、どうしてかオレは、パピヨンに対しての戦意をその瞬間から喪失してしまっていた。
何故だかは全く、とんと、皆目見当はつかないが、ほんの一瞬間前にまでは、大きく吹き上げていた怒りと闘争の気の炎は、今では胸の奥で幽かな煙を上げながら、燻る屑へと鎮火されていた。
ひょう、と肩の間に風が吹き抜け、ほんの最期の意思の抵抗とばかりに上がり燻っていた煙も、あっさりとさらわれた。
虚脱感で無い、身体中の力が抜けて行くのがわかる、張っていた肩が呼吸の旅に落ちていく。
胸の辺りも、さっきまでの呪わしい気持ちは何処かへ消え失せ、何故だか、暖かいぼんやりとした気持ちだけが残って行った。
「パピヨン、もうやめるか」
オレが何を言ったのか、パピヨンには聞こえなかったらしい、今だに険しい顔つきのまま、オレを睨み見据え、構えたまま動かない。
オレは、もう一度、今度は一歩踏み出して叫んだ。一瞬、パピヨンの身体が強張るが、オレはそれを知らん気でいった。
「オレはもう、お前と戦いたくない……」
「なんだと?」
パピヨンの緊張した空気が一瞬ほぐれる。
「もう、お前もわかってるだろ、今ここでオレと戦ったところで、お前には勝ち目がない事くらい……」
オレの次回に映らぬ場所でパピヨンの息の詰まる音が聞こえた。
「……今、残されている土の精霊はオレとお前、そして土蔵と魔蔵だけだ……今こそ、オレ達ゴーレムが作り出された責務を果たすべきだろ」
オレは、答えを待つつもりはなかった。
そんなものは、もう、決まっているからだ。
「ここでございます、キヨト様」
ぼくは、案内されるまま、ぉじいちゃんの後ろに付き従って、やってきたその場所は、いつかサウルに見せてもらった時とはだいぶ違った。
その大いなる原因は、このオルゴルス最奥、光の間の中央に据えられた2つの苦悶の表情を浮かべた石像のせいであった。
そして、、さらにもうひとつ、その石像を仰ぎ見る、ガラス玉を彷彿とさせる瞳をもった男性貴族のせいだ。
記憶をたどる。その男性はおそらく、サウルのお父さんで、この国の中枢たる元老院の最高権力者の1人だろう。
ぼくは大きな疑問符が頭に浮かぶことを感じたが、しかしそれは直ちに雲散霧消することになった。
「キヨト殿……我々、土の一族が貴方にお預けした魔道書、『穢土ノ祭祀書』の、その最終頁に記されていた最大の魔術をご存知かな?」
不意に、ぼくのかたわらに立ち黙っていた銀狼が、何事かをつぶやき、ぼくは一瞬遅れて頭を横に降る。
そもそも、脳髄に直接流し込まれた情報にページなんていう概念があること自体に意外性を禁じ得ない。
そして、ぼくの反応を予想していたのか、銀狼のおじいちゃんは滔々と語り出した。
曰く、その魔術は土の魔術の最大にして最高の奥義であるということ。
その魔術はあまりに使う魔力量が膨大であり、この世界にすむだけの直人には使えない上、特殊な状況下で無い限り、ただたんに魔力を無駄にするというだけであること。
その魔術は、使用者の、願いの如何なる物であっても叶えるというもの。
それだけの説明を淡々と語った銀狼が、ぼくに再び向き直った。
無機質な銀の仮面の中で、萌黄色の瞳だけが、異様なほど炯炯と燃えて、口調もねっとりと、熱を含むものへと変わっていた。
「さあ、お使いくだされ、キヨト様、我ら、土の魔力を持つものたちの悲願、『寂光浄土』を!」