42話 契約、或いは牢獄
光の中に透ける少女を前に、俺たちは言葉を失っていた。今はただ、冷徹な男の表情ばかりが硬くオレたちを見据えている。
オレたちの中で一番最初に言葉を取り戻したのは竜登だった。
「なっ……! どういうことだよ、それ!」
静かな空間に怒鳴り声が響き渡る。その言葉の中には怒り以上の焦りや恐れが含まれていることを、誰もが感じていた。
男は変わらぬ態度で答える。
「そのままの意味にございます、初代巫女姫様に限らず、魔道書の精霊はみな、130年前に『究極の魔道書』を使用し、その意思と契約した者たちにございます」
男の言葉に改めて言葉をなくす竜登、一拍遅れて、色のない顔で“ナギ”を振り向く。
その表情は、先ほどの怒りや恐れなどは色一変となく、むしろ……
「“ナギ”……そうなのか?」
悔しげに、悲しげに、顔をしかめ、“ナギ”に振り返っていた。
タケル、ルチアの視線も一斉に“ナギ”へと向けられた。
ただ1人、“ラキ”だけは、光の中で祈り続ける少女を睨みつけている。
「……分からないわ」
赤銅の髪を下ろし、うつむいて表情の見えない“ナギ”の口から、ポツリ。と、言葉が漏れた。
その後、僅かに顔を上げた“ナギ”の、焔のチロチロの燃える瞳には、幽かな涙の幕が張っている。
「何も、覚えていないのよ。竜登に会う前のことは、全部……わからない……」
いつもは気丈に振舞っている“ナギ”がオレたちに見せた、初めての弱味だった。
小さく肩を震わすその姿は、『究極の魔道書』の炎の精霊よりも、親鳥の帰りを待つ、飛び立てぬ雛のような不安定さがあった。
その、震える小さな背中に竜登の手が重なる。
「――え……?」
竜登の高いとは言えない身長の、その胸の中に“ナギ”のうつむいた顔が収まり、背に手が回されていた。
「……なんで、そうゆうこと、もっと早く言わねえんだよ」
柔らかくだいた肩に、ほんの僅かに力をこめた竜登は、まるで怒りを込めたような口調で“ナギ”に問うた。
一瞬、“ナギ”が口を開きかけるが、それよりも早く、竜登の言葉が続く。
「おれ、いっつもバカみたいにお前に頼って、情けねえじゃんか……! お前も、そんな風に不安持ってたんだったら、おれを、おれらを頼れよな……仲間じゃんか」
「で……これからどうするつもりなの、まぐら」
「んー……ふふ、そうだね、最後の精霊たちとの契約もすまされたようだから、今度は――ご主人サマへの造反者の始末に行かなくちゃね
流動的な大地の上で幼い兄弟が語らいあっていた。彼らの足元の地面は、魔蔵と呼ばれた少年中心に、沸騰した湯の様にボコボコと粟を生じさせていた。
死人を思わすほど白い頬に、申し訳程度の朱を帯させた魔蔵は、口をいかにも愉快げに歪め、紅の右眼をまたたかせた。
「――わたし、契約します」
ステンドグラスから降り注ぐ七色の光の中で、凛とした少女の声が沈黙を唐突に切り裂いた。
声に一瞬遅れて、彼女の視線の先にいた竜登は、彼女に振り向き、ほんの少しだけ、目を見開いた。
頭上から、計算された角度で降り注ぐ光のその中心。まるで七色の輝きその物を背負い立つような神聖さを、少女から感じたからだった。
「ルチア……――」
タケルが、口を開き、少女に言葉を掛けようとするが、何故かすんでのところで声を失い、2、3度悩ましげに唇を彷徨わせたかとおもうと、結局目を失せてしまった。
ああ……
と、竜登は内心得心がいっていた。おそらく、彼、タケルも感じているのだろう。
自分がルチアに感じている、聖女のような冒しがたい神聖さを。
精霊、タケル……そして、竜登が見守っているなか、ルチアはもうひとたび、今度はより大きな声で宣誓した。
「……わたし、契約します!」
沈黙の中を貫いていた言葉が、今度は言葉の消失を生み出した。
しん、と厳かな静寂が、一層に強いものとなった光と共に腰をこの世界に満ち溢れた。
世界のどこからも音を失ってしまったかのような……しかし、恐ろしくはない聖なる沈黙。
竜登は、そんな櫃なる時間を生み出したルチア……いまや、聖女の域までその神聖を高める少女に、見ほれていた。
陶磁器のように白く滑らかな肌が、うっすらと薔薇色に色ずく。竜登よりも僅かに色のついた、そして硬い意思のこもった瞳は、まっすぐと、光の柱の中で、蹲り、祈りを捧げる精霊へと注がれていた。
真一文字に引き結ばれていた唇が、一瞬、小さく息を吸い込んだかと思った瞬間。第三の声が歌った。
「そう。遂にきたの[契約者]。『魔道書』の次なる守護者……」
銀の鈴があるとすればこんな音だろうか……ほんの微かなぶれもない、銀鈴を思わずしずやかで厳かなな声に、竜登は頭の片隅でおもった。
きっと、誰もが同じように同じことを思ったであろう、声の主が、130年の永きにわたる祈りの言葉に、ようやくの終止符を打った、その始めてのことばだった。
2秒か3秒か……ながくは無いが一瞬でも無い時間が過ぎると、僅かに衣擦れの音が聖なる静寂を揺るがす。
光の柱の中を、誰かが立ち上がったのだ。生み出された影は、あまりに細く、あまりに頼りなく、あまりに荘厳で、あまりにも冒しがたく、あまりにも――神聖だった。
背中しか見えない光の渦まく柱の中、粗末な法衣に似つかわしくない、見事に黄金色の髪の毛が流れ落ちる。
小さな背中は竜登の胸元に達すればいい方で、その歳は、僅か8歳程度にしか見えない。
その小さな背中が、同じく七色の光を背負うルチアを振り向く。
「ごきげんよう[契約者]……或い主人、と読んだ方がいいかしら」
振り向く黄金色の瞳には感情は感じられない。ガラス玉の様に心のない光が、まっすぐにこれから[契約]を交わすものをいすめる。
そこは立った2人だけの世界だった。2人の異なる光が、交わり会うことなく、ぶつかり合う。
かすかに細められた黄金の瞳から漏れる炎が、まっすぐにルチアを捉えるが、ルチアはその瞳に、ただ一言の言葉を返しただけだった。
「覚悟は出来てる……けど、私はアナタみたいになるつもりは無いわ」
握り締められた拳から、ルチアの緊張が伝わる。だが、決意がぶれる音はついぞしなかった。
「ふぅん、じゃあ[契約]は成立でいいのね? 130年前の『魔道書』に込められた悪意を受け止める事のできる魂の持ち主で有ることをを祈るわ」
再び、聖なる沈黙が霧掛かる。
「受け取りなさい。最大にして最高の、魔道書……『|生命大奥義書』を!』
魔道書の精霊から、眩いばかりの輝きがほとばしると同時に、聞こえるはずの無い海鳴りの音がルチアの光の中へと吸い込まれて行った。
ここに、最後の『究極の魔道書』の[契約者]が誕生した。
時を同じくして、帝都。
ひろき皇宮の地下、その一室に置いて、人知れず繰り広げられていた会話があった。
「……お前が、蜉蝣か?」
カビ臭い岩に囲まれた地下牢獄、その最も最低の環境の堅牢の中へと男が語りかけていた。
獄中にうずくまる影は、かつてこの国の帝王に造反し、その近衛の立場を負われたはずの『土の勇者』ミズカイ キヨト。
しかし、その男は確実に見抜いていた。その牢の中で背を丸めている重罪人が、しかし本来繋がれるべきものではない、魔道の産物で有ることを。
一瞬、間が置かれたあと、光の届かぬ暗闇の中から静かな首肯の気配がする。
その結果に対し、あからさまに顔を顰め、しかし同時に安堵の表情を浮かべる男。
彼は、続けざまに、メイフライの居る、光なき獄中へと言葉を投げかけた。
「なあ……あんたに、頼みがある。あんたの主とかいうのに関する事だし、何より、陛下の為なんだ」
いくら待っても、暗闇からはなんの反応もなく、男は苛立たしげに頭をかくと、思い出したように続けた。
「っと、そうだ……さっき、右眼が赤い坊主に、伝言頼まれたんだよ。“[契約者]は全員揃ったよ’。
だそうだ」
暗闇の中から、鎖のぶつかる音が聞こえた。




