38話 真相、或いは鼓動
凡庸な暗闇が仄かな光に濡れ、僅かにそこが空間として存在していることを教えているほど、そこはあまりに朧な場所であった。
その、ただ、存在するが故在る場所に、のっぺりとして飾り気のない言葉が反響した。
「幾度も、幾歳も」
その言葉が消えるか消えないかのうちに、存在すること自体が危ぶまれる程不安定なその場所に不釣り合いな程力を持った何かが浮かび上がる。
それは、静かな夜に浮かぶ月の光の如く、誰にも顧みられる事なく、しかし悠久の時を自ら干渉せずただ世界を見下ろす、そんな不思議な存在感ですらあった。
宙に浮かぶようにして浮かぶ一枚の、狼の形を模して彫られた銀の仮面。その奥に光る萌黄色の鋭い眼光が、唯一それを生き物であると見るものに伝える。
その銀の仮面が発した、無限の反響を持った音が漸く消え失せた瞬間、再び意志薄弱とした声がぼんやりと響く。
「皇帝の血筋も所詮は神への逆徒、悠久の時を、ただ今に訪れる我らの望みの為に生かされていたに過ぎない」
逆巻く沈黙を吹き払うように鉄の声が燃える。揺らぐ焔の様に抑揚のない声が響くことなく、暗闇に飲み込まれた。
「狡兎死して走狗煮られる。既に我らが同志きよとは魔道書の意思と一体になりつつある……我らの望み、『寂光土』は目前にある」
「なあ、サウル、私はお前の人生の3倍もの時を、この帝国の中で過ごしてきた。だがな、この老いて知を尽くそうとも、未だ解き明かせぬ事が多々あるのだ」
煌々と月明かりが差し込む白い部屋、天窓から降り注ぐ一筋の月光を全身に浴びて、男のしわがれた声がぼんやりと響く。
正面の、その上から降りる明かりを見つめながら、背中に深く暗い影を落とす男は、背後に伸びる自身の影、丁度その頭頂が足元にかかる程度離れた場所にいる青年に声を掛けていた。
「神とは何であるか、勇者とは何であるか、人とは魔とは、精霊とは姫御子とは皇帝とは、魔道書とは……」
刹那、男の深い皺の刻まれた目尻、そこから覗く黄金の瞳に深い憂いが宿ったが、それもほんの僅か一瞬の事に過ぎなかった。
男は決して手の届かない所から降り注ぐ光そのものを一瞬、睨めつく様に目を細めると、横顔に深い陰影を刻み付ける様に、青年を振り返った。
影に堕ちた右半身の、しかしその頭部の右目は尚も炯々と黄金の光を蓄え、未だ影の中を脱しない青年へと、再び声を上げる。
「なあ、サウル。世界は不条理で満ちていると思わないか? 母を亡くし、弟を亡くしたお前ならわかってくれるだろう、全てを神に……皇帝に奪われたこの父の気持ちが」
氷の様に、或いは地の通わぬ石膏の様に、自らを父と名乗った初老の男は、一片たりと表情を帰ることなく、青年に問う。
眉を一毛たりと動かさぬその様は、当に生き物と言うにはあまりに機械的過ぎた。皺でさえ精巧な作り物の様に。月明かりがよりその冷たさをありありと暴き出す。
そんな中、遂に暗闇から声が上がった。それは微かな火種、一片の焰から萌えでた小さな火花。しかし、その火花はいずれ、世界を焼き尽くす燎原の火となる。そう運命付けられた物の、哀しみの言葉が走った。
「……父上、先日オルゴルスの館に届いた枢密院寄りの使い。如何返答されたのですか?」
闇、暗闇。しかしそこには冷たさはなく、あたかも闇そのものが暖かさを生んでいるかの様な光の闇。寧ろ、その闇を切り裂く様に差し込む月明かりこそが、空間を蹂躙する冷気を生じさせているかのようでもあった。
闇の中から、髪が振り乱される気配がする。感情を押し殺す程に震える、青年の声。冷気に抗う様に、闇の中から吠える。
だが、光の中の男はそれを許さない。ただ一秒に満たない一瞬が過ぎた頃、漸く再び、しわがれた音が青年のために発せられる。
「8年前、私は今の神に生きる全ての光を奪われた。きゃつ等は、私にそれをもう一度与えてくれると言ったのだ……なあ、サウル。神は何故我らに試練を与え賜うのだろう、我らがそれを望まずとも、我らは生きている限り、必ず、いや死んで尚も、人と魔で有り続ける限り必ず試練の時に備えなければならない。なあ、サウル、なぜなのだろうな」
涼やかな有給の銀の光の中、闇の中を見つめるようで有り、しかし決して焦点のあっているようには見えない瞳が、光の中から青年を射抜く。
暖かな闇を真上から暴く怜悧な光のナイフは、男を包み、その男の言葉もまた、ぞっとするほど、闇の中に冷たく刺さり、冷酷な言葉となり青年の喉元に切っ先を向ける。
一瞬、闇の中かに、キラリと黄金色の毛髪が輝き、そして再び闇の中に身を隠した。その刹那の光の火花が散った虚空から、再び震える声が迸る。
「私では……私では、父上の生きるための光には、なれませんか」
闇の中、爆ぜた一瞬の余りに小さな閃光。弾けた言葉は光のなり、一瞬、ほんのただわずかな時間、ゼロで無いだけの暫時、光の中から闇を射抜いていた黄金の目に、色が宿った。
しかし、それは瞬きすれば見えない、見えたとしても幻かと思うほど短い一瞬。男の瞳には再び無感動なセピア色が住み着いていた。
「……サウルよ、光とは闇を照らし導いてくれるからこその光なのだ。お前も闇の中、灯りを求め彷徨う亡者だ……盲人では盲人を導くことはできない……なあ、サウル。私の選択を責めないでくれ」
その言葉は小さな小石、たが闇に、暗黒に満ちた海の中に、無限の波紋を呼び寄せる大いなるきっかけ、投じられた小さな小石は、消えない波紋を生み、そしてそのまま海底へと沈んでゆく。
そして、燎原の火は言った。
「いずれ、きよと達が再びこの国へ帰ってくるでしょう。その時が、恐らく父上の望む『寂光土』を生み出す時」
闇の中の光、小さな火種、大いなるきっかけは、一度だけ言葉を切った。永く短い刹那の沈黙が闇と、それを引き裂く一途の光を包み込む。
「父上、これだけは覚えていてください。私は決して、光を望むだけの赤子ではありません。今はまだ灯りを求めて彷徨う亡者でしょうが、いずれ私が、私自身が……盲人を照らす光となりましょう、神も魔も人も、光がなくては生きれないのですから」
再び、沈黙が訪れた。
世界の始まりから、そして終わりまでを造物主と呼ばれた神は一体どのような気持ちで作り出したのだろう