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36話 煉獄、或いは救済


 覆水盆に返らず。何故今更になってこんな言葉ばかりがオレの頭の中で渦巻くんだろう……。


 オレは、何度も繰り返してきた行為を、何千回もあくことなく行ってきた行為を再び試みる。


 動かない。四肢はおろか、首も指先すらびくともしない。焦りばかりが心の中を埋め尽くす。動く筈のない鼓動が、使い物にならない耳に届く。


 くそっ……! イマはイツだ!?

あの魔道士とかいう奴が来てから、一体どれだけの時間が流れた?


 光を映さない眼球の内側で、オレは必死に思考を巡らせた。しかし、答えを導き出すことはできなかった。


 石に……悠久の時を生きる大地に時間の概念なぞ存在しなかった。


 早く……はやくしないと“(ルチア)”が!


 暗闇の中、動かない指先と、ぴくりともしない腕で、必死にもがくオレの元に……そこに、光が訪れた――


 唐突に降り注ぐ光の奔流。ただの灰色の塊と成り下がっていただけの眼球が、焼け付くほどの痛みを伴って、それを認知した。


 朝、夜の寒波に冷え切った大地に太陽の光が、大地の生命力そのものが注がれるように、オレは目を覚ました。


 「――うっ……がぁぁぁぁ‼︎」


 熱い。ただそれだけの感情が、固まった脳髄に注がれる。激痛にも似た光が、オレが今再び、熱の通う身体になったことを告げていた。


 最初に捉えたものは強烈な光。そして何処か聞き覚えのある声。夢の中の漣の様に何処か朧げで遠くから聞こえるような声が、やけに耳に心地いい。


 徐々に徐々に、熱は体を下って行った。


 熱湯を注がれたがごとく熱の通り過ぎた喉は、同時に解放された舌と共に、絶叫をあげ、不意に溶解しはじめた血液は、瞬時に、今や動き出した心臓へと送られる。


 ただ闇雲に暗黒の中でもがくことしかできなかった腕は、この苦痛に満ちた解放の時から逃れようと、指先と共に空をつかんだ。


 最後に、突然に支えを、力を失った体が、膝から崩れ落ちる。


 五感の全てが、新たに生まれ変わった世界に慣れる頃には、オレの身体は、以前と同じように生き返っていた。


 急激な解放に脂汗が額を伝う。震える手足が、漸く自分が――あれだけ熱がっていたにもかかわらず――酷く寒く感じている事を教えてくれる。


 震えから歯がカチカチと喧しくかちなり、体温を求める。四つん這いのまま、顔を上げることも出来ず、ただオレは寒がることしかできなかった。


 「……無理もねーな、2日間も石になってたんだ。暫くの間そうやってあったまってな。もうじき、お前の精霊も眼を醒ますだろうよ」


 震えるオレの頭上に声が響く。先ほどと違ってまったく聞き覚えのない声だった。瞼の先にちらりと見えた影は、しかしあっという間に引っ込んで、また別の何者かに語りかけ始めた。


 「……次は、誰の眼を醒ますつもりだ?」


 何処か気怠げに質問をするその声は、まるでオレの存在など意に介する様子もなく、太い声で聞く。


 また再び、睫毛にかかるかかからないか程度の光の遮りが生まれ、微かな衣擦れの音がする。


 一瞬だけ沈黙が続くかと考えがよぎったその瞬間。今度こそ、聞き覚えのある声が返答に応じた。


 「そうだね……取り敢えずこの中でも一番話がわかりそうな彼を真っ先に復活させて見たけれど――」


 言葉を中途で切る気配がする。何処か思案げな声の主が、オレに視線を注ぐ事が、どうしようもない感覚で感じられる。


 静かに、小さな足音が近づいてくる。何処か呆れを含んだ物言いが、ゆっくりとオレの頭の中に浸透していく。


 そして、ふと突然、この聞き覚えのある、強力な魔力の持ち主が一体誰かということに行き当たった。


 その、聞き覚えのある声の人物が、オレの頭にギリギリふれるか触れないか、というところで足を止める。


 小さな呼吸の音が耳に届き、再び、声が空気を震わせ、オレの耳の中にのる。


 「……久しぶり、タケルくん、折角精霊と契約しているっていうのに無様なものだね」


 その声の人物が、突然しゃがみ込み、オレの耳元に直接言葉を送り込んできた。けして大きくない、呟きよりも大きい程度の声が、やけに耳にこそばゆい。


 気がつけば髪の毛を掴み上げられ、再び、舌が耳たぶに触れるのではないかという距離で、声が送られる。


 「――それでも、これからはその精霊は立派に役立つことになると思うよ……僕ラと、僕ラのご主人様のためにね」


 率爾に髪の毛を掴む手に力を込められ、無理矢理に顔を上げさせられる。


 力尽くで合わせられた目は、隠されていない嘲笑に輝く紅い右目と力なくぶつかった。


 弛緩した舌が、喉が何も言えず、ただ獣じみた唸り声を上げることしかできていない。


 そして再びなんの前触れもなく掴まれていた髪の毛は離され、オレの頭はもう一度色の無い床と対面させられた。


 ゆっくりと頭皮に痛みがやって気始める。痛覚すら働く余裕がなく、オレの体は急激に生命を取り戻した反動で動けずにいた。


 「その、肝心の君がそんな様子ではね……」


 再び嘲るような声が頭に叩きつけられると、眼前の人物が音もなく立ち上がる気配がした。


 緩やかに立ち去る気配がオレの背中を這うと、再び、聞き覚えのない男の声が空気を震わせた。


 「おいおい、良いのかよ?」


 「構わないさ、ほおっておいたって10分もしないうちに元に戻るからね、その後にまた話に来るさ……」


 最後まで皮肉さを言葉にのせたまま、紅蓮の瞳の童子の声は森閑ととうざかって行く。


 「そういうことだから、行こう“グラスホッパー”」


 そして、オレがここで始めてきいた、これも聞き覚えのある幼い声が、まるで手を引くような弾みを持って、誰かに語りかける。


 その言葉の中には一切の躊躇いもなく、さっきの少年の言葉こそが絶対の真実であるような、不安定な響きがあった。


 そして、再び一瞬。一瞬だけの沈黙が、灰色の世界に落ちて、そして吹き消された。


 「あ、ああ……そうだな、土蔵――そういうことだからな、また後でココに来る……オレ達が言いたいことはもうお前にはわかっているだろうから、その時までに答えを出しておいて欲しい」


 一瞬。一瞬だけ、立ち止まって、今度は言葉の中に躊躇の影が落ちた言葉で沈黙を消し去った。


 そして、1秒にも満たない一方的な言葉の応酬を交わし、必要の無い返事をけして待つことなく、グラスホッパーと呼ばれた、聞き覚えのない声の男は去って行った。


 オレはただ、次の10数分後に訪れるであろう、魔族との、取引の内容を考え、歯ぎしりをすることしかできなかった。


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