29話 暗澹、或いは対立
早朝。大地の東から世界が灼熱に燃え上がり、光の開闢が、永劫の時の始まりから繰り返された偉大なる営みが、また新たな夜明けを生み出しあげた。
徐々に暗黒のベールを紫に染め上げて、星々が姿を消して行く。それは誰にも安穏の心地を与える、心の光のだった。
その、世界の目を覚ます時間。ひっそりと森の中から灰燼が吹き上がり、枝の上で一日が温まるのを待っていた鳥たちを驚かせた。
全ての命を慰撫するべき朝に起こった稀有な出来事に、怯懦な鳥たちは喧しく抗議の鳴き声を上げつつ、近く離れた枝に帰趨し怪訝そうに首を傾げながら、騒動の元凶である灰の痕跡を暫時見下ろしていた。
が、数秒の後には羽ばたきの残滓を残し、細い枝から飛び去って行った。
燦然と照らす太陽に見送られ、森の中で夢から醒めた3つの影があった。彼らは全員が全員惨憺と灰を被っており、時折顔を顰めながら弛緩した体をゆっくりと起こしていた。
吹き上がられた塵芥を厭いながらも、その原因となった少年を叱咤する事無く、彼らは立ち上がった。
彼らの中で一つ頭飛び出した青年は大袈裟な所作で身体中に降りかかった灰を払拭した。
真っ先に身体の全面を覆っていた塵を払った青年は、恣意にならって未だ灰を払い続ける少年達に手を貸し始めた。
漸く灰を払い落とす事が出来たのは日の光がすっかり青空を写しあげた時だった。未だ煤が頬に残る様は未だに惨劇の痕跡を残していて、些か以上に間の抜けた姿に写す。
諧謔の一つも言えないほどの倦怠感が三人の心に積もり始めた頃、青年が重苦しくも軽薄に声をかけた。
「はぁ……土蔵、なんで突然“灰燼”なんか使ったんだ?」
その煤けた秀麗な顔を愁眉に歪ませ慰謝の想いも込めて聞いた。
対して、それを聞かれた少年は羞恥に収斂し、同じく煤けた頬を珠に染めながらか細い声を出した。
「ゆ、夢を見て……間違えて……」
その言葉尻がゆっくりと力を失って行く中、青年は鷹揚に溜息をついて、煤塗れの手で、今にも大粒の涙が零れ落ちそうな少年の頭をかきなでた。
「はぁ……何がお前を夢の中で襲ったのかは知らないけど、ま、安心しろ――オレが、ついてる」
その不器用な青年の婉曲な慰めに、鈍感な少年は気がつかなかった。
その青年の言葉に慚愧の心が僅かに軽くなることを感じた少年は、自身の背中に立つ、己の片割れへと目を向けた。
右の紅蓮の瞳を炯々と輝かせていた少年は、怯えた子犬の様な目を向ける片割れたる少年に、目に見えるように嘆息した。
「はぁー……ま、罹災はそう対した物では無いし、僕ラは土で造られた存在だから、特に僕は怒ってないよ」
これもまた、鈍感な少年の心には届かない婉曲した追従だった。
太陽が一日の頂点、空色の世界の頂をはっているころ、三人は歩を進めていた。
いまでも所々煤と灰が彼らの衣を汚しているが、先程に比べたなら幾分かマシになっているものである。
「それで、結局どこに向かってるんだ?」
普段であれば夜の如く深い闇の長衣は、煤汚れ、所々がみっともなく白く汚れている。1
どこかげんなりと崩れた表情に対し、少年のどこか険を含んだ辛辣な言葉が飛ぶ。
「昨日の夜言ったよ、この世界の中心……最後の鍵、始まりの都」
視線を決して青年の方へと向けることなく、そんな魔蔵の様子に苦笑の浮かべるグラスホッパー。
そのグラスホッパーを尻目にして、土蔵が魔蔵に疑問をぶつけた。
「ん、でもまぐらぁ、聖都に一体何を……?」
その刹那、土蔵の瞳が不安に揺れるが、誰も、その欣求の欠片には気がつかない。
だが、質問をぶつけられたまぐらグラスホッパーの時とは違い、満面の笑顔、あるいは皮肉の嘲笑にその炎の右目を瞬かせて土蔵に囁いた。
「……最後の、覚醒のためだよ」
三日月の様に歪められた魔蔵の表情に、グラスホッパーは自身の心を押し固めた。
世界の空を緋色に削げ落として行く陽光が、暗闇を愛する部屋にも差し込んだ。
だが、その部屋。燦然と光り輝く陽の光に侵された暗闇に満ちていたその部屋で、久遠の時より果てし無く繰り返された乾坤の理を、蔑んだ目で見ていた男が居た。
闇が男の立つ部屋から乖離して行くが、男はむしろ、その果てのない光の横溢を愛していた。
「毎日、齷齪と御苦労なコトだな……」
男の唇ごその破顔していた顔にふさわしい、軽々とした声を紡いだ。
暫時窓の外から差し込む黄金の輝きを覗いてい立つ男は、ついに眩しげに眉を顰めたかと思うと、光に背を向けた。
後ろで束ねた銀の長髪が揺られ、男の未練の残滓を表していた。
夜の暗闇から暴かれた男の長衣には埃一つついておらず、黒絹の美しさを研鑽していた。
男は、自身の決して狭くは無い部屋を見渡し、広々とした、しかし家具に乏しく虚しい印象を与える部屋に飾られた、銀の仮面を手に取った。
その弓形に引き絞られた広角は硬く、慇懃な所作で銀の仮面の表面を撫ぜる。
虚空を見つめるように、或いは仮面を特別な感情を持たず見るように、男の空を見つめる目のまま、仮面をおのれの顔に重ねた。
「ふぅん……たまには、人に愛される蝶々に成るのも一興、か」
男は、軽薄な言葉で渦を作り、産まれたばかりの太陽を背にしたまま部屋を後にした。
夜明けの時間であろうと、正午であろうと、黄昏であろうと、この部屋に陽の光が届くことはない。
薄く埃を被った部屋に沈黙したまま座る男が居た。部屋の中央にすえられた椅子に、豪快に足をくみながら、玉座の如く座っていた。
壁に掛けられた僅か数本の燭台だけが、唯一彼の顔、それを覆う蝶々の仮面を橙色に濡らす。炎の微かに燻る音以外、世界に音はなかった。
男は時折満足したように鼻を鳴らすが、それ以外の動きはしばらくの間訪れることはなかったが。
「……お兄様、やはりここに」
忽然に部屋に与えられた唯一の扉から、最初で最後の来訪者が現れた。
来訪者の顔は光が届くことなく、胸までしか見えない。男を除き誰も居ない部屋に緩慢に反響の気配が漂う。
椅子に鎮座していた男は、彼を兄と呼ぶ来訪者の登場に、唯一むき出しの素顔である口元を、硬く笑みの形を作った。
「思ったよりも、遅かったな」
飄々とした言葉が、漏れる。
「お兄様程、権謀術数に長けている訳でもありませんので」
慇懃であるが、無礼。暗闇に顔をうずめたまま、来訪者は語るが、しかし、男は、そんな来訪者の態度にけして心は動かされず、寧ろ愉快げに自身の座る椅子を指した。
「どうだ、いい椅子だろう。オレの将来の玉座だよ」
それに対して、さめた口調を刺すように飛ばす来訪者。
「……素晴らしい玉座、ですね」
土の勇者浄土が帝都を離れたことによって、初めて様々なものたちの思惑が表面に現れ始めた。精霊の魔道書を巡る静かな対立は、未だ続く。




