25話 銀狼、或いは兄弟
仄暗い闇の下りた部屋の中
2つの怪しげな影が揺ら揺らと燭台の灯火にともされていた。
微かに麝香の様な甘い香りが漂う空間、2人の男の静かな囁く声が動かない空気を、僅かに震わせている。
「マンティス……いえ、兄様。主様は人間の国へ向われました。全て、兄様の指示通りです」
燭台の光を反射し、煌々と照らされる蝶々の仮面。本来目が覗くべき場所にぽっかりと覗く虚空が見つめる先には、一つ大きな机を挟んだ青年の影だった。
「……そうか」
影が口を開く。
「これで、キヨト様は魔力に導かれて他の勇者たちの元へ向かうのだろうな」
後ろで束ねた長い銀の髪が小さく揺れ、暗く影を覆った顔の中に、チロチロと灯る翡翠の眼が伏せられる。
深く闇に覆われた表情からは何も読み取れない。つかみどころの無い声ばかりが、彼の感情を唯一示す。
「……兄様、本当にこれでよかったのでしょうか?」
暗く虚空の開いていた蝶々の闇の中に、対面する青年と同じ翡翠の輝きが灯る。憂いに満ちた声も
不意にこぼれる。
「わからない、な。全ては神のみぞ知る。だが、キヨト様がお探しになっている事……元老院の目的とやらは大体つかめてきた」
それに応える影の声はやはりつかみどころがない。だが、そこには確かに粛然とした決意が込められていた。
「……そう、ですか。では、私はメイフライの様子を見てきます。引き続き調査をお願いします……マンティス」
瞬間、音もなく灯火は消え、闇と静寂が零れ落ちた。
「サウル、やはりここにいたか……」
荘厳な光に包まれた空間に硬い声が降る。
声の主は皺の深く刻まれた厳つい顔を強張らせ、この空間の中央でただ光を浴びる青年の元へ歩いてきた。
だが、声をかけられた青年はただ天井より降り注ぐ日の光を身体中に余す事なく浴びながら、ただ背を向けていた。
その青年の態度に、不穏に青筋を立てる老人。先ほどよりも大きな歩幅で青年に近づく。
光降り注ぐ荘厳な空間。天井に近い高い壁には天使や聖女の像が2人の人物を見下ろしていた。
そんな白銀の像の群の中で一際異彩を放って美しい存在感を持ったものがあった。他の像が乳白色の冷たい印象を受けるものに対し、ソレは水晶の様に透き通り、暖かく来客に微笑みかける。
その空間の最奥に位置し、最も高い位置から来たる者を見下ろす女神の像。
その不思議な魔力を持った女神像を青年は何も感じさせないガラスの眼で、慈悲深く細められた水晶の瞳を見つめ返していた。
老人は身じろぎもしない青年の様子に動じることなく、慣れた様子で肩に手を置いた。
瞬間。ピクリと肩を震わせる青年だったがそれでも決して老人に目を向けようとはしなかった。
「さあ、サウル帰ろう……お前には父さんがいるだろう……」
老人は、青年の肩に手を置いたまま、当初の厳しさを押し殺して微笑を形作っていた。
黄金色の瞳を持った目尻にカラスの足跡が寄る。
それでも青年は動かない。が、老人は辛抱強く待っていた。
時間にすれば僅か数秒だが、静寂がより永くさせた一瞬。
青年の首が、錆び付いた機械の様にギクシャクと動き、始めて老人と目を合わせた。
老人と同じ蜂蜜の様に柔らかな瞳に、ようやく命の光が灯り、青年の乾いた唇から掠れた呻き声にもにた問いかけが漏れた。
「父さん……母さんは、オレの事、愛してくれているかな」
表情のごっそり落ちこんだ顔を再び水晶の女神像へと向ける青年。
老人はそんな青年の言葉に、ただ痛みに耐えるように表情を歪めると、ややあって呟いた。それは、まるで老人自身に念を押すようにつぶやかれたものだった。
「……ああ、もちろんだ。母さんは今でもお前のことを大切に思っているよ……」
そして、そのまま物言わぬ青年の横顔に悲しげな一瞥を送ると、肩に置いた手を青年の硬く逞しい……しかし、あまりに幼く寂しげに開かれた手のひらに滑り込ませた。
「さあ、サウル、父さんと帰ろう。『星の間』は眩しすぎる」
青年は、老父に手を惹かれるまま、女神に背を向けた。
相変わらず黒以外の色を知らぬ枢密院。どこまでが闇とも知れぬ深い暗黒の中、まるで宙にぶら下がるように、不気味な仮面が浮いていた。
精巧に動物を模って彫られた美しい銀の仮面は、それを身につける者を常世から隔離している。
物言わぬ動かぬ唇を介さず、暗闇に吸い込まれるように仮面の声が暗黒に響き渡る。
「土の勇者では役不足であったか」
錆びることを知らぬ純銀色の仮面から、感情の読み取れぬ静かな声が語り、それに返すこだまのように朧げな声が降る。
「よい。アレは我らの儀式を一つ繰り上げたに過ぎぬ。後は時が満ちるまで依り代の身を壊さぬ様にするだけ」
その言葉の余韻が言えようた瞬間、暗闇に新たななる仮面が現れる。同じく錆びを知らぬ永遠の光沢を持った銀の仮面である。
先ほどの仮面と同じく顔中のシワまでが細かく再現された美を象徴する程の、見るものすべてに息を呑ませるほど精巧な仮面。
向かい合う様に、或いは円を書くうちの弧の様に歪な曲線を描く。
その弧の延長線上に再び仮面が現れる。
「さよう。元老院の人形どもの企ても我らから見れば通過儀礼に過ぎぬ」
再び仮面が暗闇に浮かぶ。
「既に我らが悠久の時より望む神の器は生まれた。後は神の復活を待つのみ」
また再び仮面が闇に昇る。徐々に円が片付くられる。
「それまでに全ての儀式を済ませておかねばならぬ……元老院の中には神を作ろうとする者さえいるのだからな……」
次々らと現れる仮面。遂に仮面は完璧な円を描くに至る。その全てが動物を模して彫られた純銀の仮面であり、暗闇を見下ろす。或いは見上げている。
「……魔力を無限に……そして自在に扱う力か。有限であったのに突飛なものだ」
「無限の魔力、神のみに許される絶対の力……我らが、ましてや人間どもがその分を超えるなど許されん」
「だが、神を創り出そうと……自らを神と恃むモノがいる」
次々と仮面の中から声が響く中。数ある弧の頂点の中の一つ。際立って輝きを放つ狼の仮面がその轟く声を矢の如く放った。
「キヨトよ、残りの儀式、汝の手にかかっていることを忘れてくれるなよ……」




