22話 動揺、或いは僥倖
ゴシック様式建築が如く複雑な装飾を施された外観の宮殿。ぼくはその宮殿の西の廊下を歩いていた。
本来、枢密院に属するぼくが普段歩くのは、皇帝の私室にも僅かに近い西側の廊下だが、今日ぼくが元老院側の東の廊下を歩いているのにはわけがあった。
ぼくの一度も外を出歩いたことのない靴が毛足の長い赤色のカーペットを踏みつけ、ゆっくり進む。
この長くて、どこまでも無限に続きそうな廊下の中であってもはしっちゃあ行けない。
だが、ぼくの銀の仮面の中から覗く廊下はあまりにも長くて、元老院のみんなが並んでもきっとお釣りが来るほどだとおもう。
「主様……不肖パピヨン、今魔蔵様をお連れし、帰還しました」
すると、ただ一人僕だけが歩いていたはずの廊下に、他の何物でもないものの声が響いた。
広い空間であるはずの廊下にもその声は反響せず、急に空間が縮んだようにすらぼくには錯覚させられた。
「ありがとう、パピヨン。ところで、君の弟は?」
ぼくは、縮んだ空間の中でも足を止めることなく進む。薄暗がりの支配する陰気な廊下を早く脱出したい。
横目で過ぎ去る素晴らしい装飾の群を覗き見る。西の廊下と比べより素晴らしい芸術趣向の集まりだな、とぼくはおもう。
「……不安定、ですね。主様の影として、あまりにもか弱すぎる存在かと……」
ぼくは歩みとともに流れてゆく偉大な芸術達を横目で覗いたまま、パピヨンの言葉を聞いた。
ぼくは、その言葉を聞いて僅かに広角が上がることを感じる。
うん、そうだよ。それでいいんだよ、パピヨン。
「そう、ありがとうパピヨン。魔蔵にもよろしく言っといてね」
パピヨンからの返答が聞こえたか聞こえなかったくらいの間に、ぼくはその扉の前にたどり着いた。
ぼくがはじめてこの皇宮に疲れて来られた時にも見ることになったら重厚な扉の前。
元老院大広間、その国家の中枢部分たる部屋の入り口。
ぼくがそのあまりに大きな扉の前に立っていると、その扉はぼくを自ら招き入れるが如く開かれた。
「やっと来たか、枢密院代表……きよと」
そして、僕を招き入れてくれたのは、どこか硬い表情で、扉を開いた、元老院実力者の息子、サウル・シュテルン・オルゴルスだった。
「うん……サウル、久しぶり、だね」
ぼくがこの世界に来て約二ヶ月くらい……かな、そして、枢密院になったのが最初の一週間ない頃で、それからサウルとはご無沙汰になっていたから、本当に久しぶりだ。
「きよと、陛下は……?」
しん、と静まり返った大広間の中、ざわめき一つ聞こえない人混みの中、その静寂の時間は、ぼくとサウルだけの世界だった。
不安げな様にも、憤りを隠している様にも捉えることのできる、サウルは表情を歪めていた。
そうだ。今回のぼくの来訪は本来は皇帝陛下をここへお連れするためのものだ。間違っても僕に用事があるわけではない。
サウル以外、誰も言葉を発さない。けれど無音の視線が、剣よりも鋭い無数の眼がぼくら2人を捉えている。
耳鳴りがしそうな沈黙の中。ぼくは、張り付いたように乾いた唇をそっと舐めて、答えた。
「陛下は、来られません」
ぼくが、そう簡潔に放った言葉は、凍れる水面に投じた石のように。これまで口を閉ざしてきた元老院議員達の中に波紋を生じさせた。
「なんだと? 陛下が来られない……?」
だが、僕の目の前に立つ青年。ぼくよりも背の高い、ぼくよりも幼い青年は、内心の動揺を押し隠すことが出来ないでぼくに詰め寄った。
唐突に肩が押しつぶされる様な力が掛かり、鬼気迫る表情のサウルが押し迫る。
突然に走った痛みに表情を顰めるぼく。傍らにたつパピヨンも表情を鋭いものに変えると、ぼくの肩を圧迫し続けるサウルの腕を掴み上げ、剣の篭った声色で告げた。
「サウル様、些か尾籠ではありませんかな?」
冷たい。冷気とも取れる慄然とした声でサウルを諌めるパピヨン。
そのパピヨンの請いに鞭で打たれたように顔を上げるサウル。暫くの間ぼくの顔を呆然と眺めるが、ややあって、懊悩とした所作でゆっくりとぼくから指を離す。
「……すまなかった」
僅かな間隙を生んで、サウルが謝罪の言葉を述べた頃、議員達の間で火のついていた議論も下火におちつき、徐々に聞こえる声も少なくなってきて、ついぞ聞こえなくなった。
彼らは一心にぼくの事を見つめている。きっと、ぼくの次の言葉を待ち望んでいる。ぼくを見通す無数の眼、眼、眼……。
上等じゃあないか。ぼくは口の中でひとりごちた。
彼らはぼくの次の言葉を待っている。真相を待ち望んでいる。でもそれ以上にぼくが失策して、揚げ足を取る瞬間を待ち望んでいる。
ぼくは今試されてる。無意識にそう思った。目の前の景色が形を崩してゆっくりととけていく。
サウルの顔も真夏のソフトクリームみたいに映る。
だけどぼくの動悸は安定している。大丈夫だ。ぼくはこの世界に来て、忖度は幾たびにも学んできたつもりだ。
ぼくは一度、大きく息を吸った。もう一度繰り返す。それをもう一回……。
「皇帝陛下は今、胸に疼痛を覚えて御出です……」
ぼくが僅かな声量で紡いだ言葉ですら、四壁にぶつかり、鳴り響き、こだまする。
ぼくの声はじんと、耳に痛い静寂の中に時間を掛けて染み込む。
誰からの反応もない。ただ、整然と此方に目を向け、耳を向け……、
続けろ、てことか。
ぼくは能う限り胸を張り、枢密院の帝王。銀狼から与えられた筋書きをなぞる。
「この元老院議員の中に、陛下に害を為そうとするものがいると、陛下は言っておいででした」
ぼくは言い終えた瞬間に雄勁と、けれど素早く、彼ら人の海に目を走らせた。
再度、彼らの内に動揺が寂寥に滲んだ。
だがぼくは、彼らの為に、ぼくらの為に言葉を止めない。
どこへ向かうかわからない趨勢、船首に立っているのはきっとぼく、帆をたたむのはおそらくサウル、けど、だけど舵を取っているのは多分……――。
「もちろん、ぼくはあなた方の陛下に対する忠誠心の深さは知悉しております」
最初の1人から始まった動揺と不安とは、議員全てに伝播した。
「しかし、陛下は懐疑を患って御出でであります。それは前皇帝陛下……陛下のお父上の逝去に関することで……」
瞬間。サウル以外の議員の顔に顰蹙が走る。
彼らの相好が押し変わった事をサウルも疑問に思ったようだ。容喙しないでも微かに眉を曇らせている。
銀狼が筋書きを立て、ぼくが実行するこの汚穢に満ちた茶番ももう一息で終わる。
自らを鼓吹して、全身に力を込める。もう一度息を深く吸い、そしてはく。渾身の弛緩……。
ぼくは今一度息を吸い込もうと口を小さく広げたその瞬間。
ぼくのとなり、見知った声。
愁眉を曇らせたサウルが怪訝な表情を隠すことなく、彼自身の考えを述べた。
「確かに……前陛下の崩御は謎が多すぎる、現陛下の誕生と同時に皇后陛下と共にお亡くなりなる……そんなこと、あり得るのか?」
それは独り言の様にも、ここに集まった全てのヒトへの問いかけのようでもあった。
これは僥倖。ぼくの……銀狼の目的はこの元老院議員の間に動乱をもたらすこと。
だが、ぼくの思惑はこの大広間という箱庭の中で最も狡猾な存在の、憔悴に満ちた声によって阻まれることになった。
「……全ては人間達のせい。皆も、そう知っている」
揺るぎない瞳がサウルを射抜く。
なるほど。ぼくは内心で毒づいた。
やってくれるじゃないか、宰相閣下