21話 逃亡、或いは幻影
「人間のっ……分際で……」
邪悪と以外形容の使用がない憎しみを紅蓮の眼に灯しながら、ゆっくりと魔蔵は立ち上がった。もっとも、最初の余裕は無く、引き連れてきた死体の軍勢は既に動きを止めていた。
だが暗黒と焦燥に身を焼いた童子から迸る邪悪さは、彼ら勇者が始めて魔蔵にあった時の比ではなく、刺すような殺気が全身から漏れ出ていた。
だが、彼ら勇者達の今だ20年に満たない人生の中において一度として見たことのないだろう化け物に相対してすら、彼らの眼は眼前の敵をにらめつける。それどころか、初めの様な怯えや恐怖、焦りはその影を潜め、ただ静かな覚悟と勇気だけがその表情に溢れていた。
「タケル……次はどう来ると思う?」
竜登は、横に立つ彼のライバルで有り、師匠そして良き相棒のタケルに、ただ魔蔵を見据えたまま言葉を飛ばす。
2人の体、全身の筋肉には緊張が走っているが、柔らかく整えられた呼吸からは今それが彼らにとって最高にも近い状態だと少女たちに告げていた。
「さぁな……だが、奴の性格からして――もしも俺だったら――まず最初に、ルチアを潰すだろうな」
タケルも、横に立つ少年を一瞥もせず答えを返すと、そっと意識を後方に立つ少女、水の勇者ルチアに注ぐ。
タケルは、誰にも聞こえないよう、そっと小さなため息を着く。
「竜登、決して、ルチアと……カタリナ様を危険に晒すような真似はするなよ、いざとなったらお前が2人を護れ」
その言葉に返す音はなく、ただ静かに背中が揺れるだけだった。
「ねえ、『パンドラの箱』、て知ってる?」
壮麗にして雅なる宮殿、魔族の帝国の心臓部、絶対の中枢であり帝国国民の精神的支柱。彼らの現人神たる幼い皇帝の私室に、皇帝のものでない声が響いた。
「いや……知らない。それも、きよとの世界の話なの?」
きよとと呼ばれた黒衣を纏った背の低い少年と、幼きながらも威風堂々と、既に皇帝としての資質と威厳の器を完成させた、少年がその部屋の、ただ一人が眠るにはあまりに大きすぎるベッドに腰掛けながら語り合っていた。
「うん……まあ、そうだね。僕の世界の、あらゆる芸術で欠かせぬ存在である神様たちの、古いお話なんだけど……その箱にはね、ありとあらゆる厄災が詰まってるんだ。神様が驕り高ぶった人たちへの罰として送り込んだね……そして、その箱の中のあらゆる厄災が世界中に散ってもなお、一つだけ、何より大きな心の病が残ったんだ、それは――……」
何処か遠い目をし、皇帝にかたりかけるきよととよぼれた少年。未だ明るい日の光が、真っ白の輝きが皇帝と黒衣の空間を満たしていた。
「心の病?」
不自然に唐突に言葉を途切れさせたきよとに対し、訝しげに首を傾げながら、微かな不安を、眉に落とす皇帝。
だが、そんな皇帝の様子も言葉も知覚できないが如く、黒衣の少年は目を見開き、そこには存在しない何かを凝視していた。
「――……パピヨン、今すぐ魔蔵を連れ戻してきて」
驚愕と、緊張が織り混ざった。だがとこまでも冷静にすら思える冷ややかな声が、本来いるはずのないモノに対し放たれる。
穏やかな日の光が揺蕩う皇帝の私室に答える声はなかったが、だがその代わり、僅かに空間が揺れ、決定的な何かが抜け落ちる音がする。
「――魔蔵様……このままご主人様を危険に晒す真似は許されますまい……」
きよとと呼ばれた少年は、黒衣と銀の仮面の中で、誰にも聞こえぬようつぶやいた。
床に散らばっていた土埃が魔蔵の怒りに呼応するように舞い上がり、渦を巻く。
吹き上がる怒りの中心で、燃え上がるような憤怒の形相をしている魔蔵……
だが、そんな魔王然とした存在を前にしても、彼ら勇者は一歩も退こうとせず、それどころか、全力の闘志をもって、迎え撃とうとしていた。
「汚辱の限りだよ……竜登君。まさかたかだか勇者ごときにここまで追い詰められるだなんてね、しかも精霊一匹に!」
吹き上がり、渦を巻く土と灰の渦中から、形容しがたい怒りに震えた声が響き渡る。
風と光とで拡散された声は、いつしか人の国中にまで響き渡り、誰しもに畏怖と恐れを振りまいた。
「それに、カタリナ……英雄獅子王の忘れ形見……きみだけは、せめて殺さねば、どうしても僕の怒りが収まらないね……!」
彼がそういい終わるや否や、砂の渦は弾け飛び、細やかな粒子の弾丸として勇者たちに襲いかかるが、それを見越していた空の勇者による気流の操作によって魔蔵の奇襲は阻まれる。
勇者たちが反撃に転ずようたした、その瞬間。
「魔蔵様、お迎えに上がりました」
時間の流れを感じさせぬ、緩やかな声が、魔蔵と勇者との間を引き裂いた。
竜登がその声の登場にとっさの驚きの表情を浮かべたとき、その声の主は招待を表した。
「主様の命を受け、魔蔵をお迎えに上がりました」
彼らが真っ先に認知したのは、おそらく闇よりも暗い、黒。その漆黒の衣が、あり得ない速度で空間を蹂躙する。
瞬間的に現れたそれは、人間の顔に当たる部分に銀色の、蝶々にも見えなくない仮面をつけているが、眼光すら捉えられないほどにその銀は深かった。
現れたそれは、勇者から魔蔵をかばうがごとく、小さな体を覆い隠さんと登場し、そっと、抱きかかえて現れた。
「ッ――……! パピヨンっ」
だが、その空間において、誰よりも驚きと感情をあらわにしたのは、勇者たちでなく、魔蔵であった。
「なぜご主人サマの『影』であるはずのお前がここにいる!」
パピヨンと呼ばれた漆黒の衣に身を包んだ青年の胸に抱きかかえられた魔蔵は、隠せぬ驚愕を目にありありと浮かべ、パピヨンに問い詰める。
勇者たちは、突然の成り行きについてはゆけず、剣の切っ先は宙にぶら下がったまま。
「今や、主様の『影』は、私ではございませぬ。そして、主様直々に、魔蔵様をお連れ帰りするように命じられました故」
その言葉についに唇を引き縛る魔蔵。
次に声帯を震わせたのは、疑問を押し殺そうとし、尚納得がいかない幼子の声そのものだった。
「わかった……」
そう、あらぬ方を見据えつぶやいたかと思うと、再び勇者たちの方向を見、魔蔵が憎悪の感情限りなく込めた言葉を残した。
「バイバイ、竜登、この前よりかは確かに強くなってたね、土蔵も喜ぶと思うよ、あの、タケル……
君は、早く精霊との契約を完遂すべきだろうね……」
そして、行こう、パピヨンと勇者たちの耳に届いた時にはすでに遅かった。
彼らは、現れた時と同様、唐突に消え失せた。