20話 精霊、或いは魔力
風を切り、放たれた弓より早くそれは訪れた。
「マンティス……魔蔵が、動いた」
春の如く陽気な空気が淀みなくながれる魔族の帝国、その中央たる宮殿の中庭、その薔薇園の鮮やかな香りの中から幼い、しかし緊迫に満ちた声が静かに、だが鋭く走った。
幼き声の響いた薔薇の海の中にいたのは、年の頃僅か8つばかりになる少年……土蔵であり、彼が叫んだ瞬間、薔薇の花弁を大きく空に舞いあげる、疾風が奔り、揺れる蔦の震えるそれの如く、新たなる声がまた、薔薇園へ響く。
「……それは、誠でございますか? 土蔵様」
突如、疾風とともに現れた鋭い声の持ち主は、細身の長身を真っ黒な布、トガで覆い隠し、わずかな汚れも無い銀の仮面におもてを包み隠した青年……マンティス。
雷鳴の如く重厚に響く、だが穏やかな春の雨ように細く、柔らかな声が、鋭く突き刺さる。
その風をきる矢の如し声にぼぉ、と上の空の土蔵が首肯を返し、柔らかな髪が風に煽られ、揺れる。
「旧い魔道、“紫瞳の獅子王”への意味返しか、魔蔵……でも、そうしたらパピヨンもご主人サマも黙ってないと思うよ……」
何よりも紅い左目が、虚空を睨みつける。
「これはっ……!」
誰もが思い描いた言葉、疑問が竜登の口から発せられる。
その顔には驚愕と焦燥、そして言いようのない恐怖が宿っていた。
彼らの足元から生え出てくるのは無数の手、腐り、一部欠けた部位を土塊によって補正を施された死人の腕であった。
「君たち、死者と戦うのは初めてたろう?」
静かな声が、怨嗟の叫びを上げる死者の上に積もる。魍魎に積もるその言葉はゆっくりと聖者の心へと浸透してゆく。
「かつて200年前の勇者と闘った時、僕ラが最後に使った魔道がこれさ……」
水面に揺れる小さな波紋のような穏やかさを湛えた瞳で、下界で繰り広げられる阿鼻叫喚の騒ぎを見下ろす魔蔵。
だが、その声を聞くものは人間の勇者の中には誰1人としていなかった、そのような余裕を持っていたものはいなかった。
如何に体が壊れ、腐り、崩れ落ちても迫りくる土の死者達に彼らは恐怖していた。
ただ一人を除いては。
刹那、寝室に溢れ出さんとする屍肉の群れの中央に火柱がたった、赤く苛烈に、しかし包み込むような暖かさを抱擁した昇天の炎。
その火に当てられた死者は乾燥と温度とに耐えきれず、ポロポロと朽ち、そして灰になってゆく。
「ふざけるのも……いい加減にしやがれっ……! てめえ、命を……命をなんだと思っていやがる!」
唐突に上がった火柱が現れた時と同様、微かな暖かさを残したまま大気の内に溶け、灰と塵がまいおこった。
「りゅうと君……」
だれもが動きを止め、言葉を失った。激しい怒りの気配ばかりが空間を蹂躙し、死者すら躊躇させた。
屍肉と土とが灰へと還り、舞い上がる灰燼の中、死者の壁のその先に君臨する幼き魔導師にして精霊を強い光を持ってにらみつけた。
だが、竜登の獣じみた瞳を前にしても臆することなく、それどころかどこまでも冷酷で皮肉的な嘲笑を唇に浮かべたまま、悪魔の児童は質問に返す。
「命……か、それは君たちと変わらない意見の持ち主だと、僕は自負しているよ、失ってはならないものだとね」
そのどこまでも見下した態度を変えることなく、あくまで表面上こそ朗らかな童子の如くそぶりを見せる魔蔵。
反省の文字の、そしてそれが真実とも思えぬ言葉に憤慨した竜登は、ふざけるなと叫ぼうとし、しかし口を開いた瞬間、魔蔵に先を遮られた。
「だが……君たちにとっての命とは一体なんだい?」
唐突に発せられた魔蔵の質問に言葉に窮する竜登、鼓舞していた炎も彼の動揺に合わせ収縮してゆく。
そんな彼ら人間の勇者の様子に対し、一層目を細める魔蔵は、再び愉悦を絡ませた言葉を紡ぐ。
「結局、答えられないんじゃないか……君たちにとっての命、僕にとっての命の考えと何も変わらないじゃない?」
誰かが叫ぼうとしたが、その誰かも叫ぶことが許されず、目の前の圧倒的な悪魔に気圧されていた。
今や、彼らは自分自身がその土の魔王の前に至っては無力極まりない存在だということを自認せざるえない状況に追い込まれてしまっていた。
部屋の空気を掌握し、君臨したる魔蔵の、しかしそんな優越の時に終わりが訪れかけていた。
誰もが言葉を失い、戦意すら喪失し、魔蔵の言葉のなすままになっていた時、彼らの元に凛と矢の様な声が突き刺さった。
「あなたの言う命の概念と、我らの命の概念とは、大きな違いがあります!」
唐突に響き渡った言葉の矢は、魔蔵が支配していた虚ろな空気を引き裂いた。
「我々が命と呼ぶものは、すなわち、愛する物を失う恐怖のことです」
引き裂かれた言葉は、空虚に乾いた勇者たちの心に大いなる潤いをもたらした。
「そして、私たちは、その命を守るために、命を懸けて戦うのです!」
そして、突如にして現れた紫色の瞳を持った少女の登場に、これまでにないほど魔蔵はその笑顔の仮面を歪ませ、邪悪な紅の瞳に怒りと憎悪を走らせた。
「第2王女カタリナ……獅子王の、忘れ形見がっ……!」
激しい狂瘙と紅蓮の憎しみに綴られた憎悪のひび割れた言葉は、しかし人間の勇者たちの耳には届かない。それどころか、彼らは自分たちの味方の登場によって、朽ちかけていた心を取り戻したのだった。
「カタリナ……! なんで!」
「勇者の皆様が戦っているなか、何故私だけが隠れていられましょうか………………私だって、戦えますよ」
煤けた頬の竜登が問い、カタリナが微笑みで返す。
「カタリナさんっ……ありがとうございます――」
「ライバルだって、仲間ですから……抜け駆けなんてさせませんよ?」
目を潤ませたルチアの言葉に僅かに頬を朱に染めて応えるカタリナ。
「すまない、助かる……」
「はじめから、私共が勇者様を巻き込んだ問題……こちらこそ申し訳ありません」
1人、難しい顔をするタケルに対し、同じく硬い表情で受けるカタリナ。
彼らの、人間たちのやりとりを1人面白くなさそうに眺めていた魔蔵、彼は胸の中で暴れまわる感情を吐き出さんが如く、咆哮する。
「なんだよ……なんだよっなんだよ! なんだよっ! お前たち、群れて、全員集まって強くなったつもりか?! お前たちみたいなグズが幾ら集まったところで、僕にかなうとっ――……」
だが、彼の言葉は途中で途切れることとなる、叫びは食うに飲まれ、突然に訪れた後方からの衝撃に思わず前のめりに倒れる。
「――バァーカ、全員だったら私も数に数えとけっ!」
それは、魔蔵と同じく紅蓮の眼を、しかし明るく希望に満ちた光を宿した少女による不意打ちのためだった。