08.魔女の嘆き
そうと決まれば行動は早かった。
シーベスは鞄の中をゴソゴソと漁って必要な薬草を取り出すが、やはり材料が足りない。仕方なく家まで取りに行くことにして、その間に鍋で水を沸かしてもらうことにした。
家でなくこの集落で作業するのには理由がある。ここの調理場は外なのだ。
シーベスが材料を持って戻ってきた時には、竈では鍋に入れられた水がグツグツと沸いていた。その中に様子を見ながら材料を順番に入れて煮込んでいく。中身がドロドロになった所で忘却草の花蜜を入れ、さらに煮詰めた。
辺りに甘ったるい匂いが漂い出した所で、彼女は火から鍋を下ろす。鼻の良いフランシェルはその香りだけでも胸焼けしそうで、鼻の頭に皺を寄せてげんなりとしていた。
「こんなんで本当に効くのか?」
シーベスは飲みやすい温度まで冷ますために、鍋から器へと中身を移す作業をしていた。
「魔女の薬はよく効くわよ。ただ、口にしても美味しくないわ。よく言うでしょ、良薬口に苦しって。――これは苦い薬じゃないけどね」
彼女は楽しそうな、ニンマリとした笑みを浮かべている。だが、その笑顔が逆に怖い時もある。目が笑ってないこともあって、フランシェルの顔が自然と引きつった。
「ってことは、この薬も不味いのか」
「そうね。美味しくないでしょうね。忘却草の花蜜って、ものすごく甘いの。舐めてみる?」
花蜜が入っていた小瓶を差し出され、フランシェルは首を横に振る。必死で振り過ぎて、この場に漂う匂いとの相乗効果で頭がクラクラした。
「別にこれだけで記憶は消えないわよ。すべての材料を、的確な分量で、正確な順番で煮詰めていかないと作れないんだから」
不満そうなシーベスに、彼はそうじゃないと瞳で訴える。
甘い物は嫌いではないが、それにも限度がある。匂いだけでも甘過ぎると思うのに、舐めたらとんでもないことになりそうなのだ。
「ま、いいわ。だからね、この薬はものすごく甘いの。花蜜だけでも甘いのに、他の材料にも甘味な物が入っているものだから、相乗効果でたぶん味は最悪ね。甘すぎて吐き出したくなるんじゃないかしら。しかも、飲んだら数日はこの匂いに纏わりつかれるから、甘いものが大大大好きな人じゃないかぎり悪夢よ」
魔女を怒らせるものではない。
フランシェルは恐れ戦いた。
これならば気絶したまま一瞬であの世へ旅立てた方が、男達にとってはマシだったかもしれない。彼らがやったことは許せない。それでもこんな拷問みたいな代物をこれから飲まされることに、心から同情した。
問答無用で男達の口の中に薬を流し込み、吐き出させることなく飲み込ませようとする姿は――どんな姿をしていようと、やはり魔女は魔女だった。
地獄絵図のような光景に、フランシェルは思わず目を背ける。シーベスの手際はずいぶんと慣れたもので、まったく情け容赦がなかった。
「全員飲んだわね。これからあなた達は森の外まで出るの。立って。一列、駆け足。進め!」
男達を縛っていた紐が解かれた。
開かれた瞳には正気の色はなく、彼女の声で彼らは操り人形のように立ち上がる。そして、全員が同じ方向を見て一列に並び、進めの号令で走り出した。
遠巻きにすべての様子を見ていた数人の翼人族から、畏怖とも感嘆ともとれる声が上がる。
「追うわよ、フラン。――じゃあね。また何かあったら言って頂戴」
シーベスの乗った箒がふわりと浮き上がったことに、フランシェルは慌てて彼女の鞄に飛び乗る。彼が乗ると更に箒は上昇して前進した。
森に不慣れな男達が走るスピードより箒の方が速く、すぐに追いつく。そして、彼らに合わせるように速度を落とし、最後尾についていく。
「こいつら追ってどうするんだよ」
「どうするって、しっかり森の外まで出るか確認するのよ」
訝しげな様子のフランシェルに、何を今さらっといった感じでシーベスが答える。だが、それにも納得できないでいるらしい彼の様子に、彼女はわざとらしくため息をついた。
「あなた馬鹿? こんな迷惑な人間達が森で迷っていたら、記憶を無くしていたってどこかでまた騒ぎを起こすに決まってるじゃない。今は良いのよ、今は。催眠が効いているから……。そこ、右行って」
シーベスが叫ぶと、先頭の男が急転換して指示通りに右に曲がる。その後を他の男達もついていく。
「こうやって道を指示してあげないと、催眠が切れる前に森を抜け出すことなんて不可能よ。この森は余所者には意地悪にできているんだから。私は嫌よ、こんな奴らに煩わされるなんて。今、こうして面倒を見てやっているだけでも温情よ。次は無いわ。一瞬で灰にでもなってもらうから」
さらりと恐ろしいことを言いながらも、シーベスは先頭を見失わないようにその姿を見ていた。その顔に先程の激情は浮かんでいない。
それに少しホッとしつつ、フランシェルは更に問い掛ける。
「なあ、一つ訊いていいか?」
「何よ?」
彼女の目線は変わらず前を走る人間達に向いている。彼は緩やかに通り過ぎていく、見慣れない夜の森の景色を見つめながら口を開いた。
「あんたにとって、この森が大切なのはよくわかったよ。魔女ってのは、皆、そういうもんなのか?」
シーベスの動揺を示すように箒が激しく揺れた。いきなりバランスが崩れたことに、気を抜いていたフランシェルは危うく地面に落下する所だった。
「危ないなぁ」
なんとか身体のバランスをとり、爪を立ててヨジヨジと元の場所まで戻った彼が文句を言うと、こちらもなんとか体勢を立て直したシーベスが軽く彼を睨んだ。
「そっちこそ。いきなり何を聞くのよ。驚いて手元が狂ったじゃない」
文句を言った後、彼女は小さく息を吐き出す。
「魔女の一般論なんて知らないわよ。あなたが知りたいのは別のことでしょう? はっきり訊けばいいじゃない。なんで私が人間を嫌うのかって」
「なんだ、ばれてたのか」
ペロリと悪びれもなくフランシェルは舌を出した。
シーベスが激しく人間を嫌う理由。
人間という存在を憎んですらいる彼女の、その感情がどこから来ているのか。
知りたかった。
猫になる体質を持っていようと、現在、そのせいで猫の姿をしていようと、彼もまた人間だ。自分ではそう思っている。
だからこそ、ただ単に種族だけで嫌悪されてしまうのは悲しい。
人間だって色々いる。この男達のように最低な奴らもいるけれど、すべてがコレと同じだとは思って欲しくない。
本当は優しい魔女に、人間だからとあんな目で見られたくなかった。
ただフランシェルの問いに答えるかは、シーベスの一存でしかない。だから、あわよくばそういう話に持っていければ良いかな、程度の問いを初めにしたのだ。彼女にはその考えを読まれていたが――。
フランシェルは開き直った。
「素直に訊けば教えてくれた? あんたが人間を嫌う理由」
「……別に、隠すほどのものでもないわ」
そう言いながらもシーベスは険しい顔で黙り、呼吸を整えるように何度も吸ったり吐いたりを繰り返す。
「この森は私の婆様の森だったの。婆様は森をとても大切にしていたわ。森に住む多くの者もね。それを、人間達は壊した」
夜の森は昼とはまったく違う様相を呈する。見慣れない者にとっては、恐怖と不安を煽り立てる光景だ。そこかしこに存在する暗闇に何が潜んでいてもおかしくない。
だが、木々の間から差し込む月明りに照らし出された夜の森は、幻想的でとてもきれいだった。
すべてを包み込もうとする静寂。所々でぼんやり光る夜光草の明かりが、優しく周囲を照らしている。その姿はまるで、道を指し示しているようだった。
「この森はね、婆様が生きていた二百年余り前には今の倍くらい広かったの。婆様が生きていた時から人間達は森に入っていたわ。外側からじわじわと侵食して、森を枯らしていった。それによって住む場所を失った者達も数多くいるの。新天地を求めて旅立った者達もいれば、人間に戦いを挑んで負け命を散らした者達もいる。彼らはどうして森と共に生きようと思えないの? どうして他の種族と共存しようと思えなかったの? 人間さえ森を枯らさなければ、人間さえ森に入らなければ、そんなことにはならなかった。だから、人間なんて嫌いよ。大っ嫌い」
ぽつりぽつりと語られるシーベスの本音。
森と共に生きてきた彼女の怒りは根深い。けれど、告げられた言葉の内容だけが原因とは思えない。
どうにも腑に落ちなくて、フランシェルは首を捻った。パタリパタリと尻尾の先が怪しく揺れている。
「それって本当に全部人間のせいか?」
「人間のせいに決まってるじゃない。何よ、フランは人間の味方をするの?」
フランシェルはコリコリと前足で器用に頭をかく。
「人間の味方って……。忘れているようだけど、俺も人間。まあ俺のことは今は良いとして、それに関してあんたの婆様は何か言ってなかったのか?」
「……人間は悪くない。これはすべて定め。時間の変化という森の運命。だから私達は森に住む者として受け入れなければならない」
悔しそうにシーベスが唇を噛み締める。心持ち箒の柄を握る手にも力が入ったように見えた。
「婆様は口癖のようにそう言っていたわ。けど、私はそうは思わない。どうして私達が我慢しなければいけないの。受け入れなければならないの。人間さえいなければあんなことにはならなかった。婆様があんな風に死ぬ必要はなかった!」
押し殺した悲痛な叫び。
今にも泣き出しそうなのに、彼女の浮かべる表情はどこか空虚だ。
森を抜けた。遠くに村の明かりらしきものが小さく見える。
男達は立ち止まっていた。目は開いているが相変わらずぼんやりと焦点はずれ、どの男もフラフラと上半身が揺れている。
箒を空中で止めたシーベスは感傷を振り切り、男達に向き直って命令した。
「すべて忘れなさい。何もかもすべて。――二度と森に立ち入らないで!」
男達は明りの方に去っていく。その姿を最後まで見ることなく方向転換したシーベスは、帰るべく箒のスピードを上げた。これ以上何も聞くなとでも言うように、二人の間を冷たい風が遮る。
そうして重苦しい沈黙の中、家にたどり着いた。
香草の効果で眠っていた翼人族の男を起こして集落に帰し、彼女は自室に籠もってしまった。その間、二人は一言も言葉を交わしていない。
まだ夜は明けていない。
眠くなってきたフランシェルは、大欠伸をして籠に潜り込み丸くなった。
(婆様があんなふうに死ぬ必要はなかった、か)
あの悲痛な叫びを頭の中で繰り返す。
時間では風化できないほどの深い悲しみと憎しみを、彼女は背負っている。
(他人の過去にやたらと立ち入るのはよくないことだけど、いったい何があったんだか。気になるよな)
ぼんやりと考えている内に、いつしか彼は眠りについていた。