05.怪我の完治
「さて。もうそろそろ良いと思うから、包帯を取ってあげるわ」
シーベスはカップをテーブルに置き、再び黙ってしまったフランシェルを手招きする。そして、彼に自分の膝の上に乗るよう指示した。
初めは渋っていた彼も強固な彼女の態度に諦め、ノソノソと膝の上に移動する。
「森の精霊の守護のもとに、この者に憩いと安らぎを」
傷の深かった前足に手を当て、昨日も唱えた呪文を口にする。
シーベスの手からぼんやりと緑色に輝く光が生まれ、昨日と同じようにフランシェルの身体へと吸い込まれるようにして消えた。
その様子をフランシェルが間抜けにも口をポカンと開けて見ていた。固まる彼をそのままに、シーベスは包帯を丁寧に取り外し、傷口を直に覆っていた木の葉も取り除く。
強烈な臭いの元は木の葉だったらしく、鼻の曲がる臭いから解放された彼は、己の全身をしっかりと確かめた。朝、起きた当初から痛みはなかったが、出血どころか確かに斬られたはずの傷口すらどこにも見当たらない。
それは自然回復ではあり得ない状態だった。傷跡すらないのだから、いったいどういう仕組みなのか。
「完璧。しっかり治っていてよかった。でもね、血が余分に流れたことに変わりはないから、しばらくは少し貧血気味になるかもしれないわ。それには栄養のあるものをしっかりバランスよく食べること。わかった?」
傷が無いことを確認して笑顔を見せたシーベスを、フランシェルが下から唖然と見上げる。
「あんた、本当に魔女だったのか……」
頻りに瞬きを繰り返し、尻尾を大きくパタパタと振り回す。
いちおう魔女だと認めた形になってはいたけれど、外見が外見だけに今まで半信半疑だったのだ。その思いも彼女の使った精霊の言霊が効力を発揮した段階で、信じざる負えない状況になってしまった。
驚きでバランスを崩し、膝から滑り落ちそうになるフランシェルを支え、シーベスはムッと口を尖らせ抗議する。
「私の言葉を信じてなかったの? 正真正銘、この森に住む魔女よ。ここら近辺では結構有名なんだから」
得意げに告げれば予想外なほど素直に感心され、居心地の悪くなった彼女は、コホンとわざとらしく咳払いをして話を変えた。
「私、やっぱりあなたが猫にしか思えない。よくわからない気配も混じっているけど、他は猫そのもの。人間の気配なんて感じないんだけど、本当に人間なの?」
「そっちこそ信じてないじゃないか。正真正銘、俺は人間。父親も母親も人間だった。ただ、俺の場合は特異体質を先祖から受け継いだみたいなんだ」
自嘲の浮かぶ青灰色の瞳を向け、フランシェルは口元を微かに歪ませる。パタリと尻尾が彼女の手を軽く叩いた。
「その特異体質が猫になることだって言うの?」
シーベスが不思議そうに首を傾げる。
そんなことあり得るのだろうか。
多くの種族が混在するこの世界で、稀に異種族婚をする者もいる。ただシーベスが知る範囲で、人間が異種族婚をしたという話は聞いたことがない。
人間は他種族を恐れるか見下すか、そのどちらかの反応しかしない。ひどく排他的な種族だった。
それは彼女が生きていた年月の経験から悟った結論だ。
そんな人間が別の種族と異種族婚をすることがあるのだろうか。魔術ではなく体質で猫になるなんて……そんな冗談みたいなことが実際に起こり得るのか。
長年培った自分の常識を根底から覆してしまいそうな事実に、シーベスは不安を感じていた。けれど、彼女はそれをしっかり認識する前に心の奥深くに沈めて無視した。
今はまだ見つめるだけの勇気が持てない。だから、もう少しだけ時間が欲しかった。それを見つめて認められるだけの時間が――。
シーベスの変化に気づかないまま、フランシェルは頷く。
「そう。何がきっかけかはわからないけど、たまに俺は猫になる。人間に戻る方法は知ってるけど、今は戻れない」
「どうして?」
訊ねてから自分が考え無しな問いをしたことに気づき、シーベスは顔を微かに歪めた。だが、返ってきた答えは彼女の予想とは違うものだった。
「今日は満月じゃないだろ。だから無理」
人間に戻るにはそれなりの条件が必要らしい。
追われているからという答えが返ってくると予想していただけに、拍子抜けして身体の力も抜けた。その様子を不思議そうにフランシェルが見上げている。
それに誤魔化し笑いを返して、シーベスは首を傾げた。
「ねえ、先祖から受け継いだってことは前にもそんな人がいたというの?」
素朴な疑問を投げ掛けると、彼がコクリと頷く。
「いたらしいな。これは母親の家系の遺伝みたいだけど、最近では血が薄まって猫になる人間はいなかったらしい。理由はわからないけど、俺だけが先祖返りしたみたいでこの有様さ」
先祖返り。満月。猫。
キーワードはこの三つ。推測された答えは一つ。
ただし、裏付けは今の知識では足りない。
この森の先代の魔女である婆様から受け継いだ書物の中から、それに関して詳しく書かれた物を探し出すのはとても骨の折れる作業だ。考えるだけでも、どっと疲れる。けれど、この仮説を確かめるにはそれしか方法がない。
絶滅した猫族と人間との間にできた子孫の生き残り。
それが彼女の立てた仮説だった。だが、それを口にするのは立証されてからでいい。
シーベスにはもう一つ、フランシェルに訊ねるべき問いが生まれていた。
「あなたがなんで追われてるのか、理由だけでも教えてくれる?」
あの男達の様子からもわかるように、彼は見つかれば確実に殺されるだろう。まあ猫の姿ではそんなことにはならないかもしれないが――。
この森の奥まで執拗に騎士が探しに来て、害そうとする理由は何なのか。確かに彼は図々しいし態度も大きいが、誰かに命を狙われるほどの恨みを買っているような存在には思えない。
フランシェルが纏う空気は清廉としている。誰かの深い恨み辛み、血の穢れを纏うあの男達とは全然違う。
だからこそ、その理由を推測することが彼女にはできなかった。
「俺の存在が邪魔だった。それだけだよ」
何か事情はあるらしいが、それを詳しく告げるつもりはないらしい。
彼はフイッとそっぽを向き、目を閉じてしまう。その頑なな様子に、シーベスは深く追求することを止めた。
誰だって言いたくないことの一つや二つはある。
理由を知りたかったのは、今後あの男達をどう対処すればいいか考えるためだった。関わりたくはなくとも、彼らは目的の者を探し出すために手段を選ばないはずだ。
この森の魔女として、森を守るためにシーベスは取れるべき対処を模索しておく必要があった。
ただ、彼らがこのまま何事もなくここから出て行くのならそれでいい。
すべては単なる推測でしかない。
無言で膝の上で丸くなるフランシェルを撫でる。嫌がって逃げるかとも思ったが、彼は逃げることもなくシーベスにされるがまま、大人しくそこに留まっていた。
やわらかい毛の感触を彼女はしばし楽しみ、久しぶりに一人ではない穏やかな夜に微笑む。
ランプの淡い光に反射して、フランシェルの首に鎖を通して掛けられていた指輪が光った。繊細な細工を施したそれには、どこかで見た覚えのある模様が刻まれている。けれど、それをどこで見たのか、彼女は思い出せなかった。
暖炉にくべられた薪が小さく爆ぜる。炎は火の粉を撒き散らし、煙を燻らせた。
二人とも沈黙したまま、静寂が室内を支配する。静かな、否、あまりにも静か過ぎる夜だった。
そして、それは脆くも訪問者によって壊される。