02.目覚めたしゃべる猫
次の日。いつものように一番鶏の鳴く声と共に目覚めた少女は、籠の中で拾った猫がまだスヤスヤと眠っていることを確認し、軽く朝食を食べてから雨の上がった森に出掛けた。
昨夜の雨のおかげでどこもかしこも洗われた森は空気が澄み渡り、朝日を浴びて草木がキラキラと輝いている。
少女は昨夜使ってしまった木の葉の補充をし、その他に必要な数種類の薬草を摘んで手提げ籠に放り込む。傷の治りを助けるキノコも見つけたので、それも一緒に籠に入れた。
そうして家に帰ってくると、タオルを敷き詰めた籠の中では猫が目覚めて暴れていた。包帯だらけの自分の状態に目をパチクリさせ、塗られた薬草の匂いが気に食わなかったのか。鼻に皺を寄せて包帯を解こうともがいている。
「何やってるのよ。それを取ったら、治るものも治らなくなるじゃない。今夜まで取っちゃ駄目だからね」
手提げ籠をテーブルの上に置き、理解できないだろうと思いつつも少女は生真面目に猫に向かって忠告する。だが、予想外にも猫はその声が理解できたかのようにピタリと動作を止め、青灰色の瞳を少女に向けた。
「あんた、誰?」
「……シーベスよ。そういうあなたは誰?」
猫が言葉を理解して話している。
少女、シーベスは今まで生きてきた中で、そんな珍妙な生き物を見たことがない。だから、これは確かに驚きの光景だった。けれど、それよりも彼女が気になったのは、その猫の口から飛び出した傍若無人な言葉だった。
シーベスはムッとして、猫をジロリと見る。
「助けてもらっといて、礼のひとつもないの? 他人の名前を聞く前に自分が名乗りなさい」
平然と自分を見て普通に話すシーベスを、猫がマジマジと見つめる。
「……フランシェルだよ。あんた、猫が話してるっていうのに驚かないんだな。助けてくれてありがとう。いちおう礼は言っとくよ」
シーベスは猫、フランシェルの側まで移動して膝をつく。そして、彼が暴れたせいで緩んでしまった包帯を巻き直しにかかった。
「別に驚いてないわけじゃないわ。ただ、本で読んだことがあるの。ずっと昔に滅んだけど、猫族って種族がいて、その姿は言葉を話す猫だったって。まさか本当に言葉を話す猫がいるとは思わなかったけど……助けたのは余計なお世話だったかしら?」
仕方なしといった感じで大人しく包帯を直されてはいるものの、フランシェルは不機嫌そうにそっぽを向き、長い尻尾をパタンパタンと振り回す。
「別に。あのまま死ねば喜んだ人間は山ほどいただろうけど、俺にしてみればどっちだってよかったんだ。……あのさ。言っておくけど、俺はその絶滅種族じゃないからな」
包帯の巻き直しを終え、シーベスがフランシェルの頭を撫でようと手を伸ばす。だが、その手はフランシェルが逃げ出したことで空を切った。
重傷の割には元気そうな姿にシーベスはため息をつき、
「あ、そう。それならそれで良いわ。猫の変異種でしょう? この森には色々な種族が入り乱れて住んでいるから、たまにそういうのが生まれるのよ。だから慣れてるわ」
仕方なく手を引っ込める。黒毛の感触は意外にふわふわで艶があり、とても触り心地が良かっただけに、触れないのは少しだけ残念だった。
シーベスの言葉にフランシェルの耳が過剰に反応し、ピンと立つ。
「あのなぁ~、俺はこれでも人間だぞ」
フランシェルがシーベスに向き直り、真顔で宣言する。咎めるような声と視線を向けられたが、彼女には彼の言い分は到底信じられるものではなかった。
「何言ってるのよ? どこをどう見たってあなたは猫じゃない。あなたから感じられる気配も猫そのもの。ちょっとよくわからない違う物も混じってはいるけど、人間の気配じゃないわ。そもそも魔女の私が人間と猫の気配を間違えるわけがないでしょう。もしあなたが魔術で猫にされていたとしても、私にはその違いくらい一目瞭然よ」
「あんた、魔女なのか? どうみても子供じゃないか」
目を細めてフランシェルはシーベスの姿を観察する。
年の頃は十二、三。薄茶色の緩く波のかかった髪は背中まであり、今は後ろで一つにまとめられている。瞳は碧眼で、彼女の性格を表すかのようにまっすぐとした光を湛えていた。
顔立ちには愛嬌があり、華奢な身体に膝下のワンピースを身につけ、ショールを羽織っている。
少々こましゃくれているとはいえ、彼女はどこにでもいるような人間の少女にしか見えなかった。
フランシェルの疑わしげな思いを雰囲気で読み取ったシーベスは、彼にぐいっと顔を近づけ睨みつける。
「あのねぇ、魔女の歳を見掛けで判断しないの。私はこれでも三百年、生きてるわ。あなたなんか私に比べたら赤子同然よ」
「嘘だろ? それが本当なら、すっごい若作り」
それはポロリと口から零れ落ちた、フランシェルの本音だった。けれど、彼女に対して絶対に口にしてはいけない言葉だった。
シーベスはフランシェルから顔を離し、にっこりと微笑む。
「フラン、今から死んでみる? せっかく助けた命だけど、別に死にたいなら死んでいいわよ。一瞬であの世に送ってあげる」
笑顔でサラリと恐ろしいことを言われ、フランシェルは首を激しく横に振る。名前を勝手に短縮して呼ばれたことも気にならなかった。
シーベスの顔は笑っている。なのに、目が笑っていない。
これは本気だ。ヤルと言ったら、絶対に殺る。
フランシェルの本能がそう告げていた。
さすがにこんなことで死ぬ気はない。命が惜しかったので、彼は素直に己の失言を謝った。
「ごめんなさい。遠慮しておきます」
土下座する勢いで頭を下げたフランシェルに、シーベスが声を立てて笑い出す。それによって緊迫した雰囲気がいっきに崩れ、彼は安堵したのだが。
「冗談よ。私は必要もないのに命を奪うようなことはしないわ」
それは何気なく言われた。けれど、とても危うい言葉だった。
「……必要があったら殺すんだ?」
必要がなければ命を奪うことはしない。
言い換えれば、必要があれば命を奪うことも躊躇わないということだ。
物問いたげに目を細めるフランシェルに、シーベスはテーブルに置いたままになっていた手提げ籠の中身を整理しながら答える。
「そりゃあね。私は聖人じゃないもの。この森に住む魔女よ。生きるために命を奪うこともあるわ。あなただってそうでしょう?」
何某かの命を奪い、それを食し、己が身の糧とする。
“生きる”ということは、そういうことだ。
「まあそうだけどさ。あんたの言い方が何か引っ掛かったんだよ」
干す為に薬草を束ねる作業をしていたシーベスが手を止め、顔を上げた。感情を削ぎ落とした表情で、フランシェルを碧眼が無言でただ見つめる。
それ以上、余計なことを言うな。
彼女の瞳がそう語っているような気がした。
悪くなった空気を取り払うように、フランシェルは肩を竦めて息を吐き出す。
「深くは聞かないさ。俺には関係ないことだ。……それよりもさ、この臭い何とかならない? 薬草の臭いだろうけど、鼻が曲がりそう」
本気で嫌がっているらしく、ピンと立っていた両耳は水平に下がり、髭もヘニョリと垂れ下っている。
しょぼくれた表情で特に怪我の酷かった前足をプラプラと振って訴えている様子に、どうやら痛みはないようだとシーベスは判断する。
手元の作業を再開させた彼女は、束ね終えた薬草を部屋の上部に引かれた紐に吊るしながら、人の悪い笑みをその顔に浮かべた。
「何とかならないことも無いわよ」
「じゃあ、取ってもいい?」
嬉々として声を上げ、尻尾をパタパタと忙しなく振るフランシェルに、彼女は言葉を続ける。
「ものすっごく苦い薬湯を飲むか。今日中に傷が塞がるのを諦めて、長時間痛みに苦しんででも自然治癒するのを待つか。臭いを我慢して、そのまま包帯を巻いておくか。選択肢は三つあるけど、どうする? 私のおすすめはそのままにしておくことだけど」
「参考までに、その薬湯ってどのくらい苦い?」
恐る恐る訊ねるフランシェルに、待っていましたと言わんばかりに嬉々としてシーベスは答えを口にした。
「口に含むだけで悶絶するような、うがいを五十回しても収まらない苦さって言ったらわかる?」
「………」
フランシェルは絶句し、無言で項垂れた。
「今夜まで臭いに我慢できたら、そのくらいの傷すぐに完治するんだから。大人しくそこで安静にしていなさい」
薬草を干し終え、シーベスは薬草棚に取ってきた木の葉を仕舞う。最後にカゴの中に残っていたキノコを取り出し、それを調理し始めた。
「フラン、お腹空かない? 今からスープ作るけど食べる?」
「食べる」
昨夜から何も食べていない。
空腹に負けて即答したフランシェルは、深々とため息をつく。
鼻につく強烈な臭いは我慢するしかないらしい。
そう結論付けて籠の中で待つこと数分。シーベスが作った怪我によく効くというキノコの即席スープを食べ、彼はまた眠りについた。
暇だし、眠ってしまえばその時だけでもこの臭いから解放される。それになんだかひどく眠かった。
シーベスは自分用に昼食のサンドイッチを作り、密封容器にスープを入れたものと一緒に小型の手提げ籠へと仕舞う。
スープを飲み終え、籠に戻ったフランシェルがぐっすりと眠っていることを確認し、彼女は含み笑う。日光のよく当たる窓辺へとその籠を移動し、彼の頭をそっと撫でた。そうしても彼は起きなかった。
それもそのはずだ。一服盛ったのだから。これで彼は夕方まで起きない。
気の済むまでフランシェルの頭を撫でた後、シーベスは手提げ籠を持って再び出掛けたのだった。
日の光が降り注ぐ、森の奥にある家の中。
ぽかぽか陽気に包まれて、フランシェルは気分良く昼寝を堪能していた。その時、シーベスが森の中で妙な男達に絡まれていることも知らずに、スヤスヤと……。
一度は免れたはずの暗雲が再び訪れようとしていることに、彼はまだ気づいていなかった。